幽香の庵

「助けて……っ!」

 私――十九歳の女子大生、羽根谷千秋(はねやちあき)は、夜の新宿を倒けつ転びつ逃げていた。

 後ろから私を追いかけるのは強面の男――、ではなく、人型の黒い靄だ。

 体の向こうに建物や人を透けさせたそれらは、愚鈍な動きなのに意志あるモノとして私を鈍足で追いかけていた。

 悲鳴を上げて逃げているというのに、周りの人は私のほうを見もしない。酷すぎる。

『東京の人は冷たい』と言うけれど、女子大学生が声を上げて助けを求めているのに、誰も反応しないのは如何なものか。

 十月上旬、ノースリーブの黒ニットにパーカー、チャコールグレーのタックパンツを穿いた私は、ロングヘアを乱しながら、必死に黒い靄から逃げていた。

 私は高校を卒業したのち、アルバイトをしつつ大学生活を送っている。

 最近友達と仲違いしてしまったけれど、家族とは仲がいいし、バイト先の人間関係も良好だ。

 いつものように過ごしていたはずなのに、なぜか私は夜の新宿で逃げ惑っていた。

 普段の遊び場は別の所で、新宿にはあまり来ない。

 だからこそ、自分がどうしてここにいるのか分からない。

 気がつけば、私は歌舞伎町と書かれた看板の下に立っていた。

 帰ろうと思って歩いていると、周りに黒い靄状の人陰がいるのに気づいたのだ。

 周りの人はソレが見えていないようで、生まれて初めて幽霊を視てしまったかもしれないと怯えた私は、とっさに走って逃げ、今に至る。

 靄との距離が縮まった時に酷い悪臭がしたから、冗談でもそれらに捕まろうとは思わなかった。

「お願いだから誰か気づいてよ!」

 苛立って叫んだ時――、ふ……っ、といい匂いが鼻先をかすめた。

(なんだろう、この匂い)

 私はスンッと鼻を鳴らす。

 その時、目の前をキラキラとした粒子が漂っているのが見えた。

 目をこらさないと分からない小ささだけれど、その光からいい匂いがしているようだ。

 道の先を見ると、光はまるで私を導くように、奥へ奥へと続いている。

(一か八か、この光が示す方向に向かってみよう)

 私は光を信じて走り、角を曲がると路地を突き抜けてさらに奥へ向かう。

 走れば走るほど、いい匂いは強くなっていく。

 ――もっと奥に行けば匂いの源にたどり着ける!

 ――きっと助かる!

 そんな思いを抱きながら一心不乱に足を動かした先――。

(光ってる)

 煌々としたネオンが灯る都会の谷間に、ビルの半地下にあるドアはホワッと柔らかな光を放っていた。

 立ち止まって店の入り口を見ると、木製のドアには蹄鉄がノッカーとしてつけられている。その下にはドライフラワーの束が下がり、壁にはアンティークなデザインのランプがついていた。

 新宿三丁目らしからぬ店構えに、見とれていたのもつかの間――。

「うわっ! 来てる!」

 我に返って振り向くと、通りの角に黒い靄が現れたところだ。

 私は悲鳴を上げ、店の中に逃げ込んだ。