それから六年。月人は、琴子という妻を迎えた。
「琴ちゃん」
月人は、夕餉の支度をする琴子に後ろから抱きついた。
「あ、ちょっと! 月人、今ごはんの用意してるから……」
「えー、いいじゃん」
「ダメ、あとで」
「やだ」
「火傷するよ」
「大丈夫。ミトンつけたから」
「月人、料理しないじゃない。ていうか、使い方間違ってるから」
月人は両手にミトンをはめたまま、琴子に抱きついて離れない。
「ねえ、作れないんだけど」
「じゃあ僕もやる」
月人は琴子のそばを離れようとはしない。なぜなら――。
『ずっと、貴方のそばにいます』
そういう意味ではないんだけど、と琴子は内心思った。
でも、凛々しい皇子が完全にオフモードに入ったときのギャップが――たまらなく愛おしくも思った。
祭事や政務、民から依頼を受けて浄霊や封印の儀を行う際も、二人は常に一緒だった。
琴子が浄化し、浄化しきれなかった怨念を月人が封じる。それでも浄化しきれない場合は、琴子の殲滅の矢が夜空を駆け、悪を滅する。
「月鏡よ。さまよえる御霊に、神のご加護を――」
時に強力な私怨の塊に苦戦することもある。
救いようのないほどの、憎悪や嫉妬、執着、未練……。
月鏡や殲滅の矢ですら、歯が立たないこともあった。
そんな時は。
月人が長い祝詞を詠唱し、琴子の霊力を限界値まで引き上げる。
次に、月人が月鏡に反射の術をかけ、幻月鏡を出現させる。まるで、満月の周りにかかる内暈に出現した、幻月のように。
詠唱する月人の頭上には、月鏡が浮かんでいる。
琴子は、幻月鏡が浮かんでいる場所へ移動し、月鏡の鏡面に向けて弓を構えた。
琴子の向かい側には月鏡の下で詠唱する月人の姿。
月人自身に、防御の術がかかる。
そして、琴子の頭上には幻月鏡が浮かんでいる。
二つの鏡は鏡面を向かい合わせ、巨大な合わせ鏡のように、怨霊を間に挟んで対峙していた。
琴子は月人の頭上高くに浮かぶ月鏡を狙い、殲滅の矢を放った。
「殲滅の矢よ――!」
月鏡に向かって放たれた白銀の矢は、鏡面に触れた瞬間、眩い光を放った。
「鏡面反射!」
月鏡の前方から、怨霊が琴子目がけて襲いかかった。
そして、月鏡と幻月鏡の間に入り込んだ瞬間――。
月鏡で反射した白銀の矢が、幻月鏡の鏡面に映し出された。
その瞬間、幻月鏡からもう一本の光の矢が生まれた。
幻月鏡には、鏡面に映した術を複製できる能力がある。
月人は琴子の周囲に防護の術を施しながら、二本の矢の軌道を制御した。
殲滅の矢は、幻月鏡の下に立つ琴子を避け、怨霊だけを追尾する。
月鏡側と幻月鏡側から迫る二本の殲滅の矢。
怨霊に、逃げ場はなかった。
二本の光が交差した瞬間、怨霊は断末魔の叫びとともに消滅した。
月人の祈りによって増幅された琴子の霊力と、二つの鏡によって反射・複製された殲滅の矢。その威力は、通常の数倍にも達していた。
それだけの霊力を駆使すれば、肉体的にも精神的にもかなり負担がかかるのは当然だ。
「はあ、疲れた」
家に帰れば、月人はそのまま布団にダイブすることもあった。
慌てて起きて、シャワーを浴びることも。
*
ある夜のこと。
琴子は食卓に突っ伏して眠ってしまい、しばらくして慌てて飛び起きた。
「あっ、お風呂……!」
まだ寝ぼけたまま脱衣所へ向かい、月人の服にも気づかず着物を脱ぐ。
タオルを手に取り、浴室の扉を開けた瞬間。
「うわっ!」
「きゃああ!」
「あ、琴ちゃ――」
「いるならいるって言って!」
「それは無理……っていうか、外に僕の服あったでしょ」
「し、知らない!」
琴子は無防備な姿をタオルで隠しながら、逃げるように浴室を飛び出した。
「待って、琴ちゃん。どうせなら――」
遠のく琴子の足音。
「……一緒に入りたかったのに」
月人は残念そうに肩を落とした。
「さっきの琴ちゃん……めちゃくちゃいい」
月人は思わず頬を緩めた。
「もう一回、来るかな?」
月人は、浴室の扉をちらりと見た。
当然ながら、開く気配はない。
「琴ちゃん、む――」
言いかけてやめた。
思い出した途端、月人は顔が熱くなるのを感じ、口元まで湯船に沈めた。
「いつも綺麗だとは思っていたけど……明るい場所で見ると、やっぱり……うん、綺麗」
しばらくして、浴室の扉越しに琴子の声が響いた。
「月人! いつまで入ってるの!」
「……はーい」
月人は名残惜しそうに湯船から上がった。
「一緒に入るのは……もう少し先になりそうだな」
誰に聞かせるでもなく呟き、ふと首を傾げた。
「一緒のお布団はいいのに、何故?」
*
夫婦になってからは、月人は琴子と同じ布団の中で眠っている。
「月人の布団はあっちでしょ」
「こっちがいい」
「じゃあ私があっちに行く」
「じゃあ僕も」
「それじゃ意味ないじゃない」
「僕は、夫婦なのに布団を分ける意味がわからない」
「……そんなに、一緒がいいの?」
「うん」
「じゃあ、いいよ」
「わーい」
凛々しい皇子は、妻の前では超絶甘えたがりになる。
「琴ちゃん」
毎晩のように、琴子にくっついて眠る月人。
「いい匂い」
鼻をクンクンさせ、さらに琴子にすり寄る。
「あったかい」
頬ずりをするように、琴子に密着する。
「柔らかい」
ゼロ距離。
「ちょっと…月人、近い」
「何か、問題ある?」
そう尋ねる月人の瞳が、ふいに琴子を真っ直ぐに捉えた。
「……ない」
つい先ほどまで、子どものように甘えていたのに。
その眼差しは、驚くほど大人びていた。
可愛いだけではない。
この人は、私の夫なのだと。
「じゃあ大丈夫」
そう言って、月人は琴子に口づけた。
「やっと……夫婦っぽいことができた」
「え……」
「ここ最近、ずっと悪霊とか怨霊の相手ばかりしてたから」
「そういえば、そうだったわね」
「それで、もしも……だけどさ」
「うん」
「僕たちに……子どもができたら、どうする?」
「え?」
「……琴ちゃんの身体が一番だから、無理にとは言わないけど」
言葉を選びながら、月人は言った。
「……僕は、会ってみたいな」
そして。
「僕と、琴ちゃんの子だよ。絶対、可愛い」
「月人……」
「でも、たとえ子どもがいても……いなくても」
月人は続ける。
「僕の一番は、琴ちゃんだから」
月人は真っ直ぐに、琴子に伝えた。
「……」
琴子の瞳が揺れる。
「月人は……子どもが、欲しいの?」
「うん」
「そっか……。私は、考えたこと……なかったな」
「え……!」
「あ、そういう意味じゃないの。ただ、私が……誰かの親になるってこと。まさか、一国の皇子様との子どもなんて。想像すら、できなかったから」
「なんだ、そういうことか。びっくりした」
月人は安堵したように笑う。
けれど、ふと考えてしまった。
自分に子どもが生まれたら、その子もまた、いつか神鏡・月鏡を受け継ぐことになるのだろうか。
自分と同じように、幼い頃から責任を背負わせてしまうのだろうか。
それだけは、避けたかった。
自分は、望んで後継者になった。
けれど、その選択をするまでに、どれほど多くのものを諦めたことだろう。
「ただね。僕の兄や姉たちは……みんなここを出てしまったし、母ももう戻って来ない。父上が、そのことでだいぶ気に病んでいた時期があったから、僕が何とかしなきゃっていう使命感や責任は……この先も、残り続けると思う」
月人は視線を落とす。
「でも、それを理由に……子どもを考えるのは違う気がするし」
月人は困ったように眉を下げた。
「あ、でも。完全にその気持ちがないわけでもなくて……」
言葉を探すように、視線を泳がせる。
「ああ、どう言えばいいんだろう……。僕の家庭の事情に、琴ちゃんを巻き込むつもりはないのに――」
「月人」
「な、何?」
「月人の、お母様って……」
「ああ、母上は……父上と離婚して、出て行った」
「それって……確か、あの――」
「うん、神器の私的利用。それがきっかけで離婚に至ったんだけど、その前からも……結構好き勝手してて。父上とは、よく喧嘩していた」
「月人……幼い頃から、色々とあったのね」
「うん。なかなか強烈だったな。特に、母の一件は……僕ですら、どうすることもできなかった」
両親の喧嘩に、兄や姉の私情。母の禁忌に辟易する父。
その事情を鑑み、残された手段は――。
月人が、まだ幼い自分を封じることだった。
そうすることで、家庭も、国も守ってきた。
月人自身を、抑圧しながら。
「母上、多分……今頃も追っかけているんだろうな。あの、『ちゅーたん』って男のこと」
「ちゅーたん?」
「うん。当時めちゃくちゃ人気だった声優アイドルで。全身にピンクをあしらった小悪魔系男子っていうの? 僕はあまりよくわからないけど」
「ああ、あの八重歯が特徴的な」
「そうそう。あのあざと可愛さが売りみたいだけど。今は、月政の兄上と同じくらいの歳になってるはず」
「月政様は、今……」
「二十七だよ。娘も生まれて、奥さんの尻に敷かれながら父親してる」
「そう、なんだ」
「二十七になっても、ちゅーたんは……あのキャラで売ってるのかな」
「さあ……」
「今思えば……ちゅーたんが、我が家を崩壊させた張本人だったのかな」
一瞬、月人の表情が消えた。
無。
今となっては、新たな可能性に矛先を向けたところで、家族が元通りになるわけではない。そもそも、ちゅーたんには不特定多数のファンがいる。彼にとっては、母はその中の一人でしかない。だから――彼には、何の罪もない。
「そうだ。あれは……自制の利かない母上自身の問題だ。さすがに神器を使って推しのライブを覗き見たのは……親として以前に、人としてどうかと思った。この人が僕の母親なのかと思うと……母親って、何なんだろうって」
口にして初めて、月人は自分がずっとそんな疑問を抱えていたことに気づいた。
母を憎んでいるわけではない。
ただ、ほんの少しでいいから、自分たちのことも見てほしかった。
そんな願いさえ、当時の月人には口にできなかった。
けれど、今は違う。
月人の隣には――愛しの妻がいる。
「母上は……破天荒で人騒がせな人だったよ。僕、あれで女性が苦手になりかけて――。将来、結婚するのが怖くなった時期もあったんだ。でも、結婚した以上は……相手の人生も背負う覚悟がないと――」
「ねえ、月人」
「うん?」
「もう、一人で背負わなくても……いいんだよ」
「琴ちゃん……」
「月人が、本当は甘えたがりな理由……わかった気がする」
「……」
「甘えたくても、甘えられる状況じゃなかったんだよね」
「まあ……そうだね。僕しか、いなかったし」
「凛々しい月人も好きだけど。私は、甘えてくる月人も……可愛いから、そのままでいいと思う」
「……琴ちゃん」
「うん?」
「僕、琴ちゃんと結婚して……本当に良かった」
月人は、琴子を包み込むように抱き寄せた。
「ありがとう、琴ちゃん」
そして。
「やっぱり……僕には、琴ちゃんが必要みたいだ」
「うん」
「これからも、僕のそばに……いて」
「うん、いるよ。ずっと」
「琴ちゃん……」
ほんの少しだけ、月人の瞳が潤んだ。
「大好き、琴ちゃん」
琴子の引力は、絶大だ――と、月人は思った。
まるで、月に引き寄せられるかのように、二人は口づけを交わす。
甘くて、深い口づけを。
互いの存在を確かめ合うように――何度も、何度も繰り返す。
二人の間にだけ流れる時間。
皇子でも霊能力者でもない。
月人と琴子。
夫婦二人だけの、特別な夜が更けていく。



