月鏡の花嫁―凛々しい夫の素顔は、甘えたがりな年下皇子でした―

  ☆

「そこへ居直れ、ちゅーたん狂!」
「な、何よ……」
 神聖な祭壇の掛け軸が、人気声優アイドル・ちゅーたんの等身大ポスターに変わっていた。
 大神官・月光は、怒りに固く握った拳を震わせていた。

 月美の暴走はこれが初めてではなかった。
 月美は国の主の妻であるにもかかわらず、祭事をすっぽかしてちゅーたんのファンイベントに行ったり、部屋をちゅーたんグッズまみれにしたり、祭壇にちゅーたんのアクスタやフィギュアを飾ったりと好き放題していた。
 月光は、神聖な祭壇まで私物化されたことで、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
「この……ッ、罰当たりがぁ!」

 その尻拭いをしていたのは、当時まだ婿入り前だった五歳年上の兄・月政と、十六歳になったばかりの月人。
 父は母との離婚を本気で考え始めていた。
 母の破天荒ぶりに辟易し、イライラする時間が日に日に増していく。
 父の許容範囲を優に越える母の身勝手さ――ピンクに染まった祭壇で、小悪魔スマイルを浮かべる男をにらみつけながら、父は「もう、終わりだ」「いや、月政の祝言があるというのに離婚するわけには……」「ああ、でも――もういっそ、ちゅーたんのところに行ってもらった方が……」と、ブツブツ独り言を言っていた。
  *

 そして、月政の婿入りが決まって間もない頃。
「月人……私は、お前が気の毒でならない」
「兄上?」
「私は、婿入りが決まっていずれここを離れる。本来なら、第一皇子である月影の兄上がすべきことを、何故我々が――。月奈は駆け落ちして戻ってこないし。ああ、月人……」
「泣かないでください、兄上。僕は、大丈夫ですから」
「月人……」
 父の疲弊は日に日に深刻になっていた。月政は、自分が城を離れた後、月人にすべての重責が降りかかることを恐れていた。
「兄上は、隣国の皇女様との祝言を控えております。その中で、このような後始末を……それに、僕の将来を案じてくださる――そのお気持ちだけで充分ですから」
「月人……」
「兄上は、どうか……幸せになることだけ考えて――」
「月人ぉ!」
 月政に抱きしめられる月人。
「お前は、本当にできた弟だ……。せめて、お前の今後の人生が、幸多きものになるように……祈らせてくれ」
「月政兄上……」
 唯一、月人に寄り添い、共に家庭内の苦難を乗り越えてきた最愛の兄との別れの時が近づいてくる――そう思うと、兄の幸せを願いたい反面、もっとそばにいて欲しいとも思った。
 月人は、月政の腕の中で縋りたい思いを懸命に堪えながら、月政の着物の袖口を掴み――すぐに離す。
 気弱だけど、誰よりも慈悲深く、優しい兄。
「ありがとうございます、兄上」
「月人……いつかお前のすべてを理解してくださる方が必ず現れる。だから、それまでは……希望を持って」
 月政は、月人の腕輪に手をかざす。
 青くたゆたう煙のような光が、月人の腕の周りに集まる。
 そして、腕輪の中に吸い込まれるように消えていった。
「いつかお前にも、守るべき大切なものに出逢ったら。この力を使うといい」
「兄上、これは……兄上の」
「私の術の一つを、お前に渡す」
「しかし、これは兄上の大切な――」
「お前ほど大切なものは――ここには、ない」
「……」
「お前は、やがてあの月鏡を継承することになるだろう。月鏡を使う上で、この力は必ず役に立つはずだ」
「でも、それでは兄上がこの術を……二度と使えなくなってしまいます」
 一度身につけた神術を手放すこと。術の譲渡行為は、その術を使う資格を永久に失うことでもある。その術が強力であればあるほど、本来の力が減退する。
それでも。
「いいんだ。それで」
「兄上……」
「私が、そうしたいんだ。お前を一人残していく兄として、せめてもの償いに」
「兄上は、何も悪くないです! 悪いのは……母上と、月影の兄上と――」
「月人、それ以上言うな」
「……」
「名前を聞くだけで、虫唾が走る」
「あ、兄上……?」
「彼らはもう、存在しない。それだけだ」
 月政は続けた。
「『反射の術』だ。あらゆるものを跳ね返す力がある」
「あらゆるもの……」
「邪悪な力も、聖なる力も、すべてだ。闘い方次第では、パートナーの能力や攻撃の威力を増幅することができる」
「そんな、素晴らしい力を……いただいてしまっていいのですか?」
「お前だから託すんだよ、月人。それに、私には――この術に代わる力が他にもある。だから、心配は無用だ」
「ありがとうございます」
 月人は、腕輪に視線を落とす。
 月政から託された、新たな能力。
「月人に、神のご加護があらんことを――」

 *

 両親の離婚の引き金になったのは、母・月美(つきみ)(当時四十四歳)が神器を使って推しのライブを覗こうとしたことだった。

 母は当時、『ちゅーたん』という人気声優アイドルに夢中になっていた。
 ちゅーたんとは、本名・柊太(しゅうた)(当時二十一歳)といい、あざと可愛さを売りにした声優アイドルだ。ピンクがイメージカラーなので、いつもピンクが入った可愛い系の衣装を纏っている。
 八重歯とやや高めの少年っぽさの残るハスキーな声がトレードマークで、マダム層中心に悩殺しまくる小悪魔系の声優アイドルだ。
 そのちゅーたんを推しに推しまくった母の凶行――。

 すべては、ライブの抽選に外れたことから始まった。
「ちゅーたん……会いたい……」

 そして、母は禁忌を犯す。
 大神官である月光が管理していた神鏡・月鏡を、無断で持ち出したのだ。
 月美は月鏡に神官の力を注ぎ、遠く離れたライブ会場を映し出した。
 
「ああ、ちゅーたん! 愛・ラブ・ちゅー!!」

「この、ぶぁーかもんッがあああ!!」

 月光がキレ散らかした。
「ちょっと! 何すんのよ! 今超絶いいとこなのにッ!」
 月美が叫ぶ。
「神聖な神器をお前の娯楽のために乱用するな!」
「ちゅーたんは、私の生きがいなのよ!私が誰を推そうが、あんたには関係ないでしょ!」
「神器をそんなことのために使うなと言っているんだ!」
「そんなことですって? ちゅーたんのこと、何も知らないくせに!」
「だったらせめて金払って見に行け!」
「抽選に外れちゃったからしょうがないじゃない!」
「だったら尚更だ! 神器でタダ見する方が推しに失礼だろうが! ファンなら彼のために正当な対価を払うくらいしろ! ライブが無理なら、グッズや音源に課金するくらいの誠意を見せるのが筋だろう!」
 正論で月美に畳みかける月光。
「あのー……、父上。そこまでにしてください」
 月人が遠慮がちに制止する。
「月人、お前はどっちの味方だ!」
「どちらの味方でもありません。ただ、神器でライブを見るのは駄目です」
「月人まで! だって、どうしても行きたかったのよ。今夜のライブ……月人には、抽選に外れた人の気持ち、わからないのね?」
「母上。それは抽選に外れたすべての人が感じていることです。でも、母上は神聖な神器を私的に利用して、タダでライブを見ようとした。それはファンにとっても、彼にとっても冒涜行為に当たります。せめて配信がないか調べてください」
「何よ! もう良いわ! 皇室に嫁げば悠々自適な生活が送れると思ったのに。こんなケチくさい環境、もう耐えられない!」
「それはこっちの台詞だ! もう我慢ならん! 出て行け! このちゅーたん狂が!!」
「言われなくても出て行くわ!」
 両親が怒鳴り合う中、月人はただ静かに目を伏せていた。
もう、慣れてしまった。
 家族の誰かが争えば、自分が間に入る。それがいつからか、当たり前になっていた。

 この後、両親は離婚した。
 離婚後、月光は心身を崩し、しばらく政務から離れることになった。
 体調を崩した月光に代わり、月政と月人が祭事や政務を担うことになった。
 しかし、月政の婿入りはすでに決まっていた。
 兄が隣国へ旅立てば、すべてを引き受けるのは月人だけになる。
 十六歳の少年には、あまりにも重い役目だった。
 それでも、自分が立たなければ、この家は回らない。
 そう思うことで、幼い自分を奮い立たせていた。

 両親の離婚から半年後、月政は隣国へと旅立った。
 本当は、月人も誰かに頼りたかった。
 まだ十六歳だった。
 兄がいた頃は、どんな苦難も二人で乗り越えられた。
 けれど、もうその兄はいない。
 母は去り、父は床に伏している。
――なら、僕がやるしかない。


 こうして月人は、誰かに甘えることを忘れたまま、大人になった。
 そして十八歳の時、神鏡・月鏡の後継者となった。

――そんな月人が再び「甘える」ということを思い出すのは、もう少し先の話である。

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