「整いすぎていて、書いた人の顔が見えない」
綾小路玲華様は、そこでいったん言葉を切った。寄宿舎の談話室には夕方の光が差し込んでいた。玲華様は便箋を胸元に立てて持ち、私には裏側しか見えない。夕日が便箋を透かしているのに、裏から墨の線は一本も透けていなかった。
よほど薄い墨をお使いになるのだろう。私は向かいの椅子で手を揃え、次に続く言葉を待った。
「『小春殿のお歌は、句の運びも言葉の選び方も申し分ない。けれど、上手に詠もうとなさるあまり、そこにあなたがおられない。これでは、何を美しいと思われたのかも分かりません』。……ここまで書かれているのよ」
九条朔夜様から届いた、三通目の返事だった。玲華様が読み終えると、小春様はうつむいて、小さくうなずいた。桃香様は菓子皿の端を指で押さえながら、私へ目を向ける。
「前にも似たようなことを言われたものね。文乃、今度はもっと可愛らしくしてみたら? 男の方は、難しい歌より素直な言葉がお好きなのかもしれないし」
「桃香さん。当主様のお好みを決めつけてはいけませんわ」
玲華様は穏やかにたしなめ、便箋を見下ろした。「でも、文乃のためにも、ここは覚えておかないとね。あなたの歌が嫌いだとおっしゃっているわけではないの。形だけ整えても届かない、と教えてくださっているのよ」
形だけ。私は膝に置いた手を握り直した。
小春様の名で出した恋文に添えたのは、金木犀の歌だ。二週間前、授業を終えて寄宿舎へ戻る途中、いつも渡る橋の手前で、まだ花の見えない道から香りがして足を止めた。いつもなら真っすぐ帰るところを、咲いている木を探して角を曲がったが、結局、木を見つける前に日が傾いた。
あのときのことは、短歌の下の余白に書いてある。その日に書き残しておきたいことを一行添えるのは、母から教わった習慣だ。
金木犀は、姿を見せるより先に、私の帰り道を曲げた。
花を見つけられなかったのが、かえって面白かった。けれど九条様には、歌も、あの一行も、借りてきた言葉のように映ったのだろうか。
「次は気をつけます」
言うと、桃香様は満足そうに微笑んだ。小春様だけが、私の顔を見ようとして、途中で視線を落とした。
卓の隅には、私が持ってきた草稿があった。歌会に応募するつもりで書きかけた一首の下に、また金木犀のことを添えようとしていた。『花の姿より先に』と書いてあったところを、私は筆で塗りつぶした。
乾いた墨の上からもう一度なぞると、そこだけ不格好に黒くなった。
「ご返事を、少しだけ拝見してもよろしいでしょうか」
字の運びを見れば、どこを改めるべきか分かるかもしれない。そう思って身を乗り出すと、玲華様は便箋を畳み、そっと私から遠ざけた。
「いけません。当主様のお文は、持ち主以外が触れると穢れるの。古いお家には、そういう礼があるのよ」
小春様の返事を開き、畳んだのは玲華様だ。目がそこへ行ってしまったのを見て取られたのか、「私はお預かりしているだけ」と、返事を袖の内へしまわれた。
預かるのと、触れるのとは違うのかしら。尋ねかけたところへ、玲華様は別の紙の束を差し出す。
「それより、歌会の清書を頼める? 来賓のお名前も入るから、あなたの字で揃えておきたいの。私たち、四人でひとつでしょう」
その言葉には、いつも弱かった。初めて輪へ入れていただいた日に、私がどれほど嬉しかったか、玲華様は覚えておられるのだろう。
「はい。今夜のうちに進めておきます」
差し出された束を受け取り、私は黒く塗った自分の草稿を脇へ寄せた。卓に空いた場所へ、玲華様、桃香様、小春様の原稿を順に並べる。明日までに清書するものは、まだずいぶんあった。
部屋へ戻って机に向かうと、夕暮れの談話室で聞いた「顔が見えない」という言葉が、また耳の奥へ戻ってきた。燭台を近づけ、まずは来賓の名を写す。墨の濃淡が揃ったところで、私はようやく息をついた。
玲華様は歌会運営の代表、桃香様は来賓の案内、小春様は出詠作品の取りまとめをなさる。私は三人の清書を手伝う。人の名前を書くのは嫌いではない。『九条』の二字は、筆圧を控えると最後の払いが気持ちよく伸びる。
六週間前、玲華様に初めて恋文の代筆を頼まれたときも、私は断ろうとは思わなかった。
「字がきれいなのは知っていたけれど、あなたの歌、こんなにいいものだったのね」
習作を見せた日、玲華様は皆の前でそう言ってくださった。桃香様も、自分なら思いつかない景色だと褒め、小春様はもう一首読ませてほしいと頼んだ。下級華族の沢渡家の娘には、そんな機会は多くない。
あの方々は授業の後のお茶にも、庭の散策にも私を招いてくださった。
その後で玲華様は、九条様へ歌を添えた文を送りたいのだと相談された。歌道の家の娘に私の歌など必要かと思ったが、「あなたの目で見たものを借りたいの」と言われて嬉しかった。
「こちらへ来てから、私たちがどなたに紹介したか覚えているでしょう? そのくらい、少し助けてくださってもいいわよね」
冗談めかして言われたので、私は笑って承知し、結びも署名もご希望どおりに整えた。返事をなさらないことで知られる九条様から返書が来たときは、私まで浮き立った。
けれど、伝えられたお返事は冷たく、門外の水たまりに空を詠みこむのは「身分に似合わない大きな景色」だと、玲華様はおっしゃった。その後、桃香様の名で出した文にも返事があり、白萩の枝についても褒められなかったが、それでも私は二度とも、次はもっとよい歌を書こうと思った。
机の引き出しから、以前の恋文の草稿を取り出す。次に代筆を頼まれたとき、前に使った言葉遣いを確かめられるよう、元の紙は捨てずに残していた。玲華様の筆で『結びはこのまま。署名は私の名に』とあり、桃香様は『堅いので柔らかく』、小春様は気に入らなかった言葉に細い線を引いて、傍らへ別の語を記している。
歌の調子まで直したかったのだろう。頼まれるたびに書き直しの指示を受け、私は三人の名で一通ずつ仕上げていったのだった。
草稿を戻して、今夜の清書に取りかかった。玲華様の出詠歌は端正で、私には思いつかない言い回しもある。歌の下に玲華様のお名前を置くときも、筆は迷わず動く。それなのに、自分の名を書くときだけ、どういうわけか払いが短くなるのだ。
窓の外が暗くなったころ、机の端の歌書に肘が触れた。亡くなった母が使っていたもので、紙の間には、母の書き込みがあちこちに残っている。開きかけた頁に『言霊』の二字を見つけ、私は指を止めた。
心に定めた一人にのみ開く文。
母の歌書で読んだ古い作法だ。読める相手が一人だけの手紙とは、どんなものだろう。実物を見たことはなく、細かな話も覚えていない。今日の返事も、便箋の裏側しか見ていない。私は歌書を閉じた。
いちばん下の紙には、明日の来訪者名簿があった。学院の秋の歌会を後援する家々の名が並び、下見のためにお越しになる九条朔夜様のお名前もある。
もしお目にかかれば、あの歌の何がよくなかったのか尋ねてしまうかもしれない。あるいは、何も言えずに立っているだけかもしれない。私は名簿を伏せた。明日は会場を整える日だし、私は裏方にすぎない。
九条様が清書係の顔をご覧になることもないだろう。
自分の応募歌は、とうとう仕上がらなかった。筆に墨を含ませ、私は次の名前を書いた。
翌朝、歌会の会場へ運ぶ紙を抱えて、私は回廊を急いでいた。昨日のうちに預かった原稿は清書し終えたが、来賓の名を記した札は、講堂に並べてみなければ大きさが合うか分からない。
少し早めに行って確かめるつもりだった。
雨は夜半にやんだらしく、回廊の向こうには薄い日が射していた。庭石のくぼみには水が残り、欄干を越えたところから、湿った土の匂いが上がってくる。私は歩みを緩め、あの水たまりなら、空がどこまで映るだろうと考えた。
門の外の水を見て笑った自分が、つい昨日のことのように思えた。
袖の中から手帳代わりの練習紙を取り出そうとして、束の端を引っかけた。清書した原稿は胸に抱え直せたものの、折り畳んだ自分の紙だけが床へ滑り落ちる。拾おうと屈んだとき、前方から足音が近づいてきた。
講堂の下見に来た方々だろうか。私は袖の乱れを直そうとして、清書の束を取り落としそうになった。これ以上、誰かの仕事を増やすわけにはいかない。
「こちらを落とされましたか」
聞き慣れない男の声だった。先に伸びた手が紙を拾い上げる。顔を上げると、墨色の羽織をまとった若い男性が、折り目を広げたところだった。
その方は余白に目を留め、ほんのわずか動きを止めた。昨日塗りつぶした草稿とは別に、私が自分のために試していた一行がある。
花の見えない角で、先に香りが道を教えた。
誰にも見せるつもりのない文だった。
「申し訳ございません。そちらは私の練習紙で」
「そうでしたか。勝手に開いてしまいましたね」
男性は紙を畳まず、そのままこちらへ差し出された。私が受け取ると、改めて顔を見て尋ねられる。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「沢渡文乃と申します」
「沢渡さん」
確かめるように呼ばれ、私は顔を上げた。昨夜、三人のお名前を何度も書いたが、自分の名は応募用紙にさえ記していない。
「九条様、もうこちらへおいででしたの」
回廊の先から玲華様が近づいてきた。九条朔夜様。昨日、私の歌を戒めたと聞いたご本人だった。
「文乃、こちらへ。九条様、この子は私たちの清書係ですの。字のきれいな子で、歌会の準備を手伝わせております」
九条様は玲華様に礼を返されたが、すぐには私から視線を外されなかった。
「この方が書いたものを拝見していました。たいへん失礼なことをしましたが、気になる言葉があったものですから」
「まあ、文乃ったら。お恥ずかしいものをお見せしていないとよいのだけれど」
私は練習紙を袖へ戻した。九条様は詠歌も、説明も求めず、講堂までの道を尋ね、私の返事を待っておられた。
「こちらの廊下を、突き当たりまででございます」
「ありがとうございます、沢渡さん」
遠ざかる背を見送り、私は袖の中の紙を押さえた。酷評された歌の話は出なかった。お考えが変わったわけでもないだろう。それでも、あの一行を見て手を止めた理由が気にかかった。
綾小路玲華様は、そこでいったん言葉を切った。寄宿舎の談話室には夕方の光が差し込んでいた。玲華様は便箋を胸元に立てて持ち、私には裏側しか見えない。夕日が便箋を透かしているのに、裏から墨の線は一本も透けていなかった。
よほど薄い墨をお使いになるのだろう。私は向かいの椅子で手を揃え、次に続く言葉を待った。
「『小春殿のお歌は、句の運びも言葉の選び方も申し分ない。けれど、上手に詠もうとなさるあまり、そこにあなたがおられない。これでは、何を美しいと思われたのかも分かりません』。……ここまで書かれているのよ」
九条朔夜様から届いた、三通目の返事だった。玲華様が読み終えると、小春様はうつむいて、小さくうなずいた。桃香様は菓子皿の端を指で押さえながら、私へ目を向ける。
「前にも似たようなことを言われたものね。文乃、今度はもっと可愛らしくしてみたら? 男の方は、難しい歌より素直な言葉がお好きなのかもしれないし」
「桃香さん。当主様のお好みを決めつけてはいけませんわ」
玲華様は穏やかにたしなめ、便箋を見下ろした。「でも、文乃のためにも、ここは覚えておかないとね。あなたの歌が嫌いだとおっしゃっているわけではないの。形だけ整えても届かない、と教えてくださっているのよ」
形だけ。私は膝に置いた手を握り直した。
小春様の名で出した恋文に添えたのは、金木犀の歌だ。二週間前、授業を終えて寄宿舎へ戻る途中、いつも渡る橋の手前で、まだ花の見えない道から香りがして足を止めた。いつもなら真っすぐ帰るところを、咲いている木を探して角を曲がったが、結局、木を見つける前に日が傾いた。
あのときのことは、短歌の下の余白に書いてある。その日に書き残しておきたいことを一行添えるのは、母から教わった習慣だ。
金木犀は、姿を見せるより先に、私の帰り道を曲げた。
花を見つけられなかったのが、かえって面白かった。けれど九条様には、歌も、あの一行も、借りてきた言葉のように映ったのだろうか。
「次は気をつけます」
言うと、桃香様は満足そうに微笑んだ。小春様だけが、私の顔を見ようとして、途中で視線を落とした。
卓の隅には、私が持ってきた草稿があった。歌会に応募するつもりで書きかけた一首の下に、また金木犀のことを添えようとしていた。『花の姿より先に』と書いてあったところを、私は筆で塗りつぶした。
乾いた墨の上からもう一度なぞると、そこだけ不格好に黒くなった。
「ご返事を、少しだけ拝見してもよろしいでしょうか」
字の運びを見れば、どこを改めるべきか分かるかもしれない。そう思って身を乗り出すと、玲華様は便箋を畳み、そっと私から遠ざけた。
「いけません。当主様のお文は、持ち主以外が触れると穢れるの。古いお家には、そういう礼があるのよ」
小春様の返事を開き、畳んだのは玲華様だ。目がそこへ行ってしまったのを見て取られたのか、「私はお預かりしているだけ」と、返事を袖の内へしまわれた。
預かるのと、触れるのとは違うのかしら。尋ねかけたところへ、玲華様は別の紙の束を差し出す。
「それより、歌会の清書を頼める? 来賓のお名前も入るから、あなたの字で揃えておきたいの。私たち、四人でひとつでしょう」
その言葉には、いつも弱かった。初めて輪へ入れていただいた日に、私がどれほど嬉しかったか、玲華様は覚えておられるのだろう。
「はい。今夜のうちに進めておきます」
差し出された束を受け取り、私は黒く塗った自分の草稿を脇へ寄せた。卓に空いた場所へ、玲華様、桃香様、小春様の原稿を順に並べる。明日までに清書するものは、まだずいぶんあった。
部屋へ戻って机に向かうと、夕暮れの談話室で聞いた「顔が見えない」という言葉が、また耳の奥へ戻ってきた。燭台を近づけ、まずは来賓の名を写す。墨の濃淡が揃ったところで、私はようやく息をついた。
玲華様は歌会運営の代表、桃香様は来賓の案内、小春様は出詠作品の取りまとめをなさる。私は三人の清書を手伝う。人の名前を書くのは嫌いではない。『九条』の二字は、筆圧を控えると最後の払いが気持ちよく伸びる。
六週間前、玲華様に初めて恋文の代筆を頼まれたときも、私は断ろうとは思わなかった。
「字がきれいなのは知っていたけれど、あなたの歌、こんなにいいものだったのね」
習作を見せた日、玲華様は皆の前でそう言ってくださった。桃香様も、自分なら思いつかない景色だと褒め、小春様はもう一首読ませてほしいと頼んだ。下級華族の沢渡家の娘には、そんな機会は多くない。
あの方々は授業の後のお茶にも、庭の散策にも私を招いてくださった。
その後で玲華様は、九条様へ歌を添えた文を送りたいのだと相談された。歌道の家の娘に私の歌など必要かと思ったが、「あなたの目で見たものを借りたいの」と言われて嬉しかった。
「こちらへ来てから、私たちがどなたに紹介したか覚えているでしょう? そのくらい、少し助けてくださってもいいわよね」
冗談めかして言われたので、私は笑って承知し、結びも署名もご希望どおりに整えた。返事をなさらないことで知られる九条様から返書が来たときは、私まで浮き立った。
けれど、伝えられたお返事は冷たく、門外の水たまりに空を詠みこむのは「身分に似合わない大きな景色」だと、玲華様はおっしゃった。その後、桃香様の名で出した文にも返事があり、白萩の枝についても褒められなかったが、それでも私は二度とも、次はもっとよい歌を書こうと思った。
机の引き出しから、以前の恋文の草稿を取り出す。次に代筆を頼まれたとき、前に使った言葉遣いを確かめられるよう、元の紙は捨てずに残していた。玲華様の筆で『結びはこのまま。署名は私の名に』とあり、桃香様は『堅いので柔らかく』、小春様は気に入らなかった言葉に細い線を引いて、傍らへ別の語を記している。
歌の調子まで直したかったのだろう。頼まれるたびに書き直しの指示を受け、私は三人の名で一通ずつ仕上げていったのだった。
草稿を戻して、今夜の清書に取りかかった。玲華様の出詠歌は端正で、私には思いつかない言い回しもある。歌の下に玲華様のお名前を置くときも、筆は迷わず動く。それなのに、自分の名を書くときだけ、どういうわけか払いが短くなるのだ。
窓の外が暗くなったころ、机の端の歌書に肘が触れた。亡くなった母が使っていたもので、紙の間には、母の書き込みがあちこちに残っている。開きかけた頁に『言霊』の二字を見つけ、私は指を止めた。
心に定めた一人にのみ開く文。
母の歌書で読んだ古い作法だ。読める相手が一人だけの手紙とは、どんなものだろう。実物を見たことはなく、細かな話も覚えていない。今日の返事も、便箋の裏側しか見ていない。私は歌書を閉じた。
いちばん下の紙には、明日の来訪者名簿があった。学院の秋の歌会を後援する家々の名が並び、下見のためにお越しになる九条朔夜様のお名前もある。
もしお目にかかれば、あの歌の何がよくなかったのか尋ねてしまうかもしれない。あるいは、何も言えずに立っているだけかもしれない。私は名簿を伏せた。明日は会場を整える日だし、私は裏方にすぎない。
九条様が清書係の顔をご覧になることもないだろう。
自分の応募歌は、とうとう仕上がらなかった。筆に墨を含ませ、私は次の名前を書いた。
翌朝、歌会の会場へ運ぶ紙を抱えて、私は回廊を急いでいた。昨日のうちに預かった原稿は清書し終えたが、来賓の名を記した札は、講堂に並べてみなければ大きさが合うか分からない。
少し早めに行って確かめるつもりだった。
雨は夜半にやんだらしく、回廊の向こうには薄い日が射していた。庭石のくぼみには水が残り、欄干を越えたところから、湿った土の匂いが上がってくる。私は歩みを緩め、あの水たまりなら、空がどこまで映るだろうと考えた。
門の外の水を見て笑った自分が、つい昨日のことのように思えた。
袖の中から手帳代わりの練習紙を取り出そうとして、束の端を引っかけた。清書した原稿は胸に抱え直せたものの、折り畳んだ自分の紙だけが床へ滑り落ちる。拾おうと屈んだとき、前方から足音が近づいてきた。
講堂の下見に来た方々だろうか。私は袖の乱れを直そうとして、清書の束を取り落としそうになった。これ以上、誰かの仕事を増やすわけにはいかない。
「こちらを落とされましたか」
聞き慣れない男の声だった。先に伸びた手が紙を拾い上げる。顔を上げると、墨色の羽織をまとった若い男性が、折り目を広げたところだった。
その方は余白に目を留め、ほんのわずか動きを止めた。昨日塗りつぶした草稿とは別に、私が自分のために試していた一行がある。
花の見えない角で、先に香りが道を教えた。
誰にも見せるつもりのない文だった。
「申し訳ございません。そちらは私の練習紙で」
「そうでしたか。勝手に開いてしまいましたね」
男性は紙を畳まず、そのままこちらへ差し出された。私が受け取ると、改めて顔を見て尋ねられる。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「沢渡文乃と申します」
「沢渡さん」
確かめるように呼ばれ、私は顔を上げた。昨夜、三人のお名前を何度も書いたが、自分の名は応募用紙にさえ記していない。
「九条様、もうこちらへおいででしたの」
回廊の先から玲華様が近づいてきた。九条朔夜様。昨日、私の歌を戒めたと聞いたご本人だった。
「文乃、こちらへ。九条様、この子は私たちの清書係ですの。字のきれいな子で、歌会の準備を手伝わせております」
九条様は玲華様に礼を返されたが、すぐには私から視線を外されなかった。
「この方が書いたものを拝見していました。たいへん失礼なことをしましたが、気になる言葉があったものですから」
「まあ、文乃ったら。お恥ずかしいものをお見せしていないとよいのだけれど」
私は練習紙を袖へ戻した。九条様は詠歌も、説明も求めず、講堂までの道を尋ね、私の返事を待っておられた。
「こちらの廊下を、突き当たりまででございます」
「ありがとうございます、沢渡さん」
遠ざかる背を見送り、私は袖の中の紙を押さえた。酷評された歌の話は出なかった。お考えが変わったわけでもないだろう。それでも、あの一行を見て手を止めた理由が気にかかった。

