翌朝、朝餉が済むと、茜は早速桐壺のすぐ隣、昭陽舎、別名・梨壺へと出向く。
『梨壺で、なんと説明する気だ?』
すっかり、いつもの状態に戻った先生が、後ろから付いてきながら言った。
「もちろん、そのまま素直に伝えるよ?」
『相手は先帝の后だ。あの男のことなど、とうに忘れているかもしれぬぞ?』
「あの返歌を見る限り、私は希望はあると想ってる」
渡殿を南に進み、梨壺に到着すると、居合わせた女房に用件を告げる。
「御方さまがお会いになるそうです。どうぞ」
すぐに取り次いで貰い中へ入ると、御簾越しに、梨壺の御方が座っていた。
「朝早くから、桐壺の女房が何用です?」
凛とした張りのある声だった。
先の帝の后であるこの人は、出家せずに宮中に残った唯一の方だった。
桐壺のすぐ隣なのだが、ほぼ隠居暮らしの御方と桐壺の女御である茉莉子とは、女房同士の親交はあるものの、付き合いは希薄だった。
「宴の松原に幽霊が出るんです。御方さま、一度、宴の松原へ参りませんか?」
すると、やや間を置いてから、少し笑いながら御方が答えた。
「……ホホホ、いきなりとんでもないお誘いだこと」
「流石は、宮中の鬼子と呼ばれるだけはありますね」
(なんだか、一筋縄でいかない気がしてきた……)
「どうしたの? 三毛」
御簾の向こうから、一匹の三毛猫がこちらに歩み寄ってきた。
「わぁ、可愛いですね」
こちらに来るのかと思いきや、猫は茜の前をあっさり素通りした。
(ま、まさか)
振り返ると、茜の背後に立つ先生の足元にいて、気持ちよさそうに体を擦りつけている。
『動物たちは感性が強い。私が猫好きなことが分かるのだろう』
(先生、猫好きだったんかい)
「あらあら、三毛何をしているの?」
『復唱しろ。松風に 君待つことも あらじとぞ 思ひ定めて 袖を濡らしぬ』
「松風に 君待つことも あらじとぞ 思ひ定めて 袖を濡らしぬ」
「!」
「その歌をどこで……?」
『返歌も言え。松風に 別れ告ぐるは なにゆゑぞ 逢ひて聞かまし 君が心を』
「松風に 別れ告ぐるは なにゆゑぞ 逢ひて聞かまし 君が心を」
「宴の松原で、彼は今でもあなたを待っているんです」
すると御方の声が震え、彼女は静かにその場で泣き始めた。
「あなたの返歌を受け取らずにそのまま返したのは、彼は重い肺病で、とても返事が書けるような状態ではなかったからです」
そして茜は淡々と真実だけを告げた。
「彼があなたに出せずにいた文を、亡くなる前に宴の松原に埋めたそうです」
茜は立ち上がると、先生を振り返った。
相変わらず、三毛猫に纏わりつかれている先生は少し困り果てた顔をしていた。
「行こう」
泣き崩れる御方を女房に後は任せて、茜たちは桐壺へ戻ることにした。
「それにしても、先生よく歌を覚えてるね……」
『一度聞いたり見たりしたことは、忘れない主義なんだ』
(要するに天才じゃないか……)
「先生について、分かってることが増えた」
『ほう?』
「鷹狩りの名手で、詩歌にも造詣が深く、そして動物好き。結構な手掛かりでは?」
『そして、見目麗しいも追加だな』
「自信家なところも追加で」
『否定はしない』
そんな風に話しながら、渡殿を歩いていると、年嵩の女房が、物凄い形相でこちらに向かってきた。
「茜!」
「え、どうしたんです?」
「お前、蔵人殿に一体何をしたんだい?」
「お前と結婚したいと、女御さまに直談判に来てるよ」
「はぁ?」
茜は背後の先生と顔を見合わせる。
肩を竦める先生しか、原因が思いつかなかった。
「ちょっと、どういうこと?」
『私が知るか。ていうか、あの者は元々、お前に好意があったようだぞ』
(う、うーん……全く気付かなかった)
急いで桐壺に戻ると、庇の下に馴染みの蔵人が座っていた。
御簾越しに茉莉子と対面している。
「茜、戻ったか」
馴染みの蔵人、季継は、茜の顔を見ると破顔した。
「あんた、一体どういうつもり?」
「こら茜。季継殿に対して失礼よ」
茉莉子に嗜められ、即座に謝る。
「申し訳ありません、姫さま」
「謝るのは私にではなく、季継殿にでしょう?」
突然求婚だなんて、茜にとっては寝耳に水でしかなかった。
「私はね、とても良いお話だと思うの」
すると季継は茜の方へ体の向きを変え、頭を下げながら言った。
「どうか、私の妻になってくれ」
「あんた、正気なの?」
「傷の手当てを受けていて気付いた。私はお前をずっと好いていた。お前さえ良ければ、きちんと正室として迎えたい」
(――正室!)
「こんな良い縁談、願ってもない話よ? 茜」
「でも、姫さまには私がいないと……」
「姫さまには私たちもおりまする」
年嵩の女房が鼻息を荒くしながら言った。
『断れる雰囲気ではないし、お前にはこれ以上ない縁談だと思うぞ?』
「先生まで、それを言うの……?」
これ以上の身に余る良縁が、自分に望める筈もなく――
茜は少し考えて、答えた。
「……分かりました。お受けいたします」
「本当か!?」
季継は、飛び上がって茜を一瞬抱き寄せ、すぐ身体を外して真っ赤になった。
「す、すまない。あまりにも嬉しくて……」
「これはめでたい!」
年嵩の女房に、丸顔の女房らも揃って手を叩き、茜たちを祝福した。
「では、季継殿と相談して、良い輿入れの日時を決めましょう」
茉莉子が涙ぐみながら、そう言った。
愕然とする茜に反して、周りはどんどん婚姻の支度を整えていった。
その日の昼には茉莉子から告げられた。
「婚姻は十日後に決まったわ。陰陽師の占いで吉日と出たの」
茉莉子の嬉しそうな顔を見ると、茜は何も言えなくなる。
『どんどん外堀を埋められていくな』
「先生は黙ってて」
『……』
「茜、茜はいる?」
唐突に呼ばれて部屋を出ると、梨壺の女房の背後に、一人の貴婦人が立っていた。
「梨壺の御方?」
落ち着いた雰囲気の美人だった。
あの幽霊の男が、死んでも死に切れないのも分かる美しさだった。
「これから宴の松原へ行こうと思います。付いてきて下さいますか?」
「もちろんです。御方さま」
梨壺の御方は、輿に乗って宴の松原へ向かうことになった。
それに付き従う形で、茜は同行した。
宴の松原に到着するまで、茜は先生と何も言葉を交わさなかった。
男は相変わらず黒い松の前で、俯いている。
『おい』
先生が声を掛けると、男はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
『お前の恋人を連れてきたぞ』
男は視線を巡らせ、輿から降りて、こちらに歩み寄る御方に気付いた。
「そこに?」
もちろん御方に、男の姿は見えないようだ。小首を傾げ、こちらに尋ねてきた。
「はい。そこにおられます」
『その松の根の下を掘れと下男に言え』
「黒松の根の下を掘って下さい」
「そのように」
茜が御方の下男にそう伝えると、御方の指示で、下男たちが松の根の下を掘り始めた。
暫く掘ると、古びた文箱が現れた。
御方は自ら地に膝をつき、文箱の土を払って蓋を開けると、中に入っていた文を広げた。
「我が命 尽くると知れば 君がため 恋ふる心を 隠すほかなき」
御方が震える手で文を読み始めると、涙をぽたぽた文の上に溢した。
「ごめんなさい。あなたの事情も知ろうともせずに……」
松の木の前で佇む男は、満足そうな様子で御方の髪に触れた。
徐々に透けていく体、それと同時に男の体は天に昇っていく――
『成仏した』
晴れ渡った秋空を仰ぎ見て、先生が呟いた。
『あるべき場所に還るべきなのか』
その綺麗な横顔を見て、茜は猛烈な胸の苦しさを感じた。
(――この感情は何?)
輿で帰っていく御方を見送り、茜はどうしても聞かずにはいられなくて、先生に訊ねる。
「先生は、私が結婚したらどうするの?」
『私が己を保てるのは、お前の陽の気のお陰。お前が私の依り代である硯箱を持つ限りは、近くにいよう』
それを聞いて、茜は少し安心するも、どうにも胸のつかえが取れずにいた。
気持ちの整理がつかないまま、日にちを重ね、とうとう明日が婚儀という日を迎えてしまった。
季継が仕事の終わりに桐壺に顔を出し、茉莉子と今後の話を詳しくし始めた。
「我が邸宅の北の館を、茜の住まいにしようと、準備をさせています」
「まぁ。それでは名実共に北の方になるのですね」
そして、季継を見送る為、茜は桐壺の庭に出た。
「明日が楽しみで仕方がない。こんなに待ち遠しいことはない」
「そうなんだ……」
茜は生返事で、心ここにあらずといった具合だった。
「生涯大切にする」
そうして、強く抱き締められた。
茜の胸の奥で、何かが強く騒めいた――
季継は機嫌良く帰っていき、茜はその場で呆然と立ち尽くしていた。
『どうした? 明日ここを離れるのが寂しいのか?』
『もう代筆屋や、厄介ごとに首を突っ込む必要もなくなるんだぞ?』
茜は茶々を入れてくる先生を振り返りもせずに、一言だけ発した。
「先生に私の気持ちなんか分からない」
『……』
そうして茜は部屋の中へさっさと入ってしまった。
その晩、忽然と先生の姿が消えた。
茜は、宮中を離れるのは先生も同じなので、自分の正体の手掛かりでも、最後に探しているのかと思っていた。
しかし、朝になっても先生は戻らなかった。
朝餉を済まし、輿入れの為に用意された衣装に袖を通しても、茜は先生の行方が気になって、準備に全く身が入らなかった。
前日に纏められた自分の荷物は既に葛篭に収められている。
(――まさか)
嫌な予感がして、硯箱を探すも、確かにしまった筈のそれは、どこにも見つからなかった。
「硯箱がない」
「えっ?」
茉莉子も一緒に葛篭の中を探してくれた。
「おかしいわね、どこにもないわ」
「先生が、昨夜から帰ってきてないの」
「何ですって?」
ただならぬ事態に、茉莉子は機敏に動いた。
「すぐ検非違使を呼びなさい」
硯箱は、何者かに持ち出されたとしか考えられなかった。
そして、それに伴い消えてしまった先生――
「ごめんなさい、姫さま」
茜はその場から走り出していた。
唐衣裳の裳を投げ捨てるように外し、草履も履かずに外に飛び出した。
先生が立ち寄りそうな場所を、息を切らしながら走り回った。
鷹棚の白雪のところ、図書寮、宴の松原、そして最後に梨壺の御方の三毛のところまで――
「先生! 先生!」
どれだけ呼んでも先生の反応はなかった。
「先生、一体どこへ行ったの……?」
すっかり唐衣は土や泥で汚れてしまっていた。
検非違使による厳しい捜査が行われたが、硯箱は結局見つからなかった。
――あるべき場所に還るべきなのか。
先生が呟いていた言葉を思い出す。
「あるべき場所ってどこ? 先生はひょっとして、自分が何者か思い出したの……?」
日が暮れる頃に、桐壺へ戻ってきた茜を、茉莉子は一言も責めなかった。
盥にお湯を張り、汚れた茜の足を丁寧に洗ってくれた。
「姫さま、私……」
「先生をお慕いしているのでしょう?」
茉莉子が優しい口調で言う。
「いや、だって先生は怨霊なんだよ?」
「それでも、気持ちに嘘はつけないのよ」
茜自身も、すぐ納得がいかなかった。
しかし、はっきり言えることがある。
「季継とは結婚出来ない」
「……そう。分かったわ」
茉莉子はその場で茜に向かって頭を下げた。
「あなたの気持ちも考えずに、強引に結婚の話を進めてしまって、本当にごめんなさい」
「姫さまそんな! はっきり断らなかった私が悪いのよ」
「季継殿には、私から破談にすると伝えます」
「……はい」
茉莉子はそれ以上は何も言わなかった。
『梨壺で、なんと説明する気だ?』
すっかり、いつもの状態に戻った先生が、後ろから付いてきながら言った。
「もちろん、そのまま素直に伝えるよ?」
『相手は先帝の后だ。あの男のことなど、とうに忘れているかもしれぬぞ?』
「あの返歌を見る限り、私は希望はあると想ってる」
渡殿を南に進み、梨壺に到着すると、居合わせた女房に用件を告げる。
「御方さまがお会いになるそうです。どうぞ」
すぐに取り次いで貰い中へ入ると、御簾越しに、梨壺の御方が座っていた。
「朝早くから、桐壺の女房が何用です?」
凛とした張りのある声だった。
先の帝の后であるこの人は、出家せずに宮中に残った唯一の方だった。
桐壺のすぐ隣なのだが、ほぼ隠居暮らしの御方と桐壺の女御である茉莉子とは、女房同士の親交はあるものの、付き合いは希薄だった。
「宴の松原に幽霊が出るんです。御方さま、一度、宴の松原へ参りませんか?」
すると、やや間を置いてから、少し笑いながら御方が答えた。
「……ホホホ、いきなりとんでもないお誘いだこと」
「流石は、宮中の鬼子と呼ばれるだけはありますね」
(なんだか、一筋縄でいかない気がしてきた……)
「どうしたの? 三毛」
御簾の向こうから、一匹の三毛猫がこちらに歩み寄ってきた。
「わぁ、可愛いですね」
こちらに来るのかと思いきや、猫は茜の前をあっさり素通りした。
(ま、まさか)
振り返ると、茜の背後に立つ先生の足元にいて、気持ちよさそうに体を擦りつけている。
『動物たちは感性が強い。私が猫好きなことが分かるのだろう』
(先生、猫好きだったんかい)
「あらあら、三毛何をしているの?」
『復唱しろ。松風に 君待つことも あらじとぞ 思ひ定めて 袖を濡らしぬ』
「松風に 君待つことも あらじとぞ 思ひ定めて 袖を濡らしぬ」
「!」
「その歌をどこで……?」
『返歌も言え。松風に 別れ告ぐるは なにゆゑぞ 逢ひて聞かまし 君が心を』
「松風に 別れ告ぐるは なにゆゑぞ 逢ひて聞かまし 君が心を」
「宴の松原で、彼は今でもあなたを待っているんです」
すると御方の声が震え、彼女は静かにその場で泣き始めた。
「あなたの返歌を受け取らずにそのまま返したのは、彼は重い肺病で、とても返事が書けるような状態ではなかったからです」
そして茜は淡々と真実だけを告げた。
「彼があなたに出せずにいた文を、亡くなる前に宴の松原に埋めたそうです」
茜は立ち上がると、先生を振り返った。
相変わらず、三毛猫に纏わりつかれている先生は少し困り果てた顔をしていた。
「行こう」
泣き崩れる御方を女房に後は任せて、茜たちは桐壺へ戻ることにした。
「それにしても、先生よく歌を覚えてるね……」
『一度聞いたり見たりしたことは、忘れない主義なんだ』
(要するに天才じゃないか……)
「先生について、分かってることが増えた」
『ほう?』
「鷹狩りの名手で、詩歌にも造詣が深く、そして動物好き。結構な手掛かりでは?」
『そして、見目麗しいも追加だな』
「自信家なところも追加で」
『否定はしない』
そんな風に話しながら、渡殿を歩いていると、年嵩の女房が、物凄い形相でこちらに向かってきた。
「茜!」
「え、どうしたんです?」
「お前、蔵人殿に一体何をしたんだい?」
「お前と結婚したいと、女御さまに直談判に来てるよ」
「はぁ?」
茜は背後の先生と顔を見合わせる。
肩を竦める先生しか、原因が思いつかなかった。
「ちょっと、どういうこと?」
『私が知るか。ていうか、あの者は元々、お前に好意があったようだぞ』
(う、うーん……全く気付かなかった)
急いで桐壺に戻ると、庇の下に馴染みの蔵人が座っていた。
御簾越しに茉莉子と対面している。
「茜、戻ったか」
馴染みの蔵人、季継は、茜の顔を見ると破顔した。
「あんた、一体どういうつもり?」
「こら茜。季継殿に対して失礼よ」
茉莉子に嗜められ、即座に謝る。
「申し訳ありません、姫さま」
「謝るのは私にではなく、季継殿にでしょう?」
突然求婚だなんて、茜にとっては寝耳に水でしかなかった。
「私はね、とても良いお話だと思うの」
すると季継は茜の方へ体の向きを変え、頭を下げながら言った。
「どうか、私の妻になってくれ」
「あんた、正気なの?」
「傷の手当てを受けていて気付いた。私はお前をずっと好いていた。お前さえ良ければ、きちんと正室として迎えたい」
(――正室!)
「こんな良い縁談、願ってもない話よ? 茜」
「でも、姫さまには私がいないと……」
「姫さまには私たちもおりまする」
年嵩の女房が鼻息を荒くしながら言った。
『断れる雰囲気ではないし、お前にはこれ以上ない縁談だと思うぞ?』
「先生まで、それを言うの……?」
これ以上の身に余る良縁が、自分に望める筈もなく――
茜は少し考えて、答えた。
「……分かりました。お受けいたします」
「本当か!?」
季継は、飛び上がって茜を一瞬抱き寄せ、すぐ身体を外して真っ赤になった。
「す、すまない。あまりにも嬉しくて……」
「これはめでたい!」
年嵩の女房に、丸顔の女房らも揃って手を叩き、茜たちを祝福した。
「では、季継殿と相談して、良い輿入れの日時を決めましょう」
茉莉子が涙ぐみながら、そう言った。
愕然とする茜に反して、周りはどんどん婚姻の支度を整えていった。
その日の昼には茉莉子から告げられた。
「婚姻は十日後に決まったわ。陰陽師の占いで吉日と出たの」
茉莉子の嬉しそうな顔を見ると、茜は何も言えなくなる。
『どんどん外堀を埋められていくな』
「先生は黙ってて」
『……』
「茜、茜はいる?」
唐突に呼ばれて部屋を出ると、梨壺の女房の背後に、一人の貴婦人が立っていた。
「梨壺の御方?」
落ち着いた雰囲気の美人だった。
あの幽霊の男が、死んでも死に切れないのも分かる美しさだった。
「これから宴の松原へ行こうと思います。付いてきて下さいますか?」
「もちろんです。御方さま」
梨壺の御方は、輿に乗って宴の松原へ向かうことになった。
それに付き従う形で、茜は同行した。
宴の松原に到着するまで、茜は先生と何も言葉を交わさなかった。
男は相変わらず黒い松の前で、俯いている。
『おい』
先生が声を掛けると、男はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
『お前の恋人を連れてきたぞ』
男は視線を巡らせ、輿から降りて、こちらに歩み寄る御方に気付いた。
「そこに?」
もちろん御方に、男の姿は見えないようだ。小首を傾げ、こちらに尋ねてきた。
「はい。そこにおられます」
『その松の根の下を掘れと下男に言え』
「黒松の根の下を掘って下さい」
「そのように」
茜が御方の下男にそう伝えると、御方の指示で、下男たちが松の根の下を掘り始めた。
暫く掘ると、古びた文箱が現れた。
御方は自ら地に膝をつき、文箱の土を払って蓋を開けると、中に入っていた文を広げた。
「我が命 尽くると知れば 君がため 恋ふる心を 隠すほかなき」
御方が震える手で文を読み始めると、涙をぽたぽた文の上に溢した。
「ごめんなさい。あなたの事情も知ろうともせずに……」
松の木の前で佇む男は、満足そうな様子で御方の髪に触れた。
徐々に透けていく体、それと同時に男の体は天に昇っていく――
『成仏した』
晴れ渡った秋空を仰ぎ見て、先生が呟いた。
『あるべき場所に還るべきなのか』
その綺麗な横顔を見て、茜は猛烈な胸の苦しさを感じた。
(――この感情は何?)
輿で帰っていく御方を見送り、茜はどうしても聞かずにはいられなくて、先生に訊ねる。
「先生は、私が結婚したらどうするの?」
『私が己を保てるのは、お前の陽の気のお陰。お前が私の依り代である硯箱を持つ限りは、近くにいよう』
それを聞いて、茜は少し安心するも、どうにも胸のつかえが取れずにいた。
気持ちの整理がつかないまま、日にちを重ね、とうとう明日が婚儀という日を迎えてしまった。
季継が仕事の終わりに桐壺に顔を出し、茉莉子と今後の話を詳しくし始めた。
「我が邸宅の北の館を、茜の住まいにしようと、準備をさせています」
「まぁ。それでは名実共に北の方になるのですね」
そして、季継を見送る為、茜は桐壺の庭に出た。
「明日が楽しみで仕方がない。こんなに待ち遠しいことはない」
「そうなんだ……」
茜は生返事で、心ここにあらずといった具合だった。
「生涯大切にする」
そうして、強く抱き締められた。
茜の胸の奥で、何かが強く騒めいた――
季継は機嫌良く帰っていき、茜はその場で呆然と立ち尽くしていた。
『どうした? 明日ここを離れるのが寂しいのか?』
『もう代筆屋や、厄介ごとに首を突っ込む必要もなくなるんだぞ?』
茜は茶々を入れてくる先生を振り返りもせずに、一言だけ発した。
「先生に私の気持ちなんか分からない」
『……』
そうして茜は部屋の中へさっさと入ってしまった。
その晩、忽然と先生の姿が消えた。
茜は、宮中を離れるのは先生も同じなので、自分の正体の手掛かりでも、最後に探しているのかと思っていた。
しかし、朝になっても先生は戻らなかった。
朝餉を済まし、輿入れの為に用意された衣装に袖を通しても、茜は先生の行方が気になって、準備に全く身が入らなかった。
前日に纏められた自分の荷物は既に葛篭に収められている。
(――まさか)
嫌な予感がして、硯箱を探すも、確かにしまった筈のそれは、どこにも見つからなかった。
「硯箱がない」
「えっ?」
茉莉子も一緒に葛篭の中を探してくれた。
「おかしいわね、どこにもないわ」
「先生が、昨夜から帰ってきてないの」
「何ですって?」
ただならぬ事態に、茉莉子は機敏に動いた。
「すぐ検非違使を呼びなさい」
硯箱は、何者かに持ち出されたとしか考えられなかった。
そして、それに伴い消えてしまった先生――
「ごめんなさい、姫さま」
茜はその場から走り出していた。
唐衣裳の裳を投げ捨てるように外し、草履も履かずに外に飛び出した。
先生が立ち寄りそうな場所を、息を切らしながら走り回った。
鷹棚の白雪のところ、図書寮、宴の松原、そして最後に梨壺の御方の三毛のところまで――
「先生! 先生!」
どれだけ呼んでも先生の反応はなかった。
「先生、一体どこへ行ったの……?」
すっかり唐衣は土や泥で汚れてしまっていた。
検非違使による厳しい捜査が行われたが、硯箱は結局見つからなかった。
――あるべき場所に還るべきなのか。
先生が呟いていた言葉を思い出す。
「あるべき場所ってどこ? 先生はひょっとして、自分が何者か思い出したの……?」
日が暮れる頃に、桐壺へ戻ってきた茜を、茉莉子は一言も責めなかった。
盥にお湯を張り、汚れた茜の足を丁寧に洗ってくれた。
「姫さま、私……」
「先生をお慕いしているのでしょう?」
茉莉子が優しい口調で言う。
「いや、だって先生は怨霊なんだよ?」
「それでも、気持ちに嘘はつけないのよ」
茜自身も、すぐ納得がいかなかった。
しかし、はっきり言えることがある。
「季継とは結婚出来ない」
「……そう。分かったわ」
茉莉子はその場で茜に向かって頭を下げた。
「あなたの気持ちも考えずに、強引に結婚の話を進めてしまって、本当にごめんなさい」
「姫さまそんな! はっきり断らなかった私が悪いのよ」
「季継殿には、私から破談にすると伝えます」
「……はい」
茉莉子はそれ以上は何も言わなかった。

