「本当にありがとうございました!」
鷹狩りを終え、無事に帰還した茜たちは、蔵人所の南庭にいた。
鷹飼が何度も頭を下げる。
鷹狩りでの活躍が認められ、白雪は正式に帝の所有である御鷹となった。これで、白雪にかかる費用の不安は一切なくなった。
「右大臣さまが、本来は自分の鷹だと悔しがっていましたけど、御鷹となった白雪を返せとは流石に言えませんもんね」
「おーい、ちょっと来てくれよ」
他の鷹飼が、鷹飼を呼んでいるようだ。
「あっ、ちょっと失礼しますね」
小さくお辞儀をすると、仲間の方へ駆けていった。
「随分と忙しそう。ね? 先生」
茜の隣に立つ先生は、じっと鷹棚で休む白雪を見つめている。
「先生は、白雪が本当に可愛いみたいね」
『こいつらは絶対裏切らないからな……』
(裏切らない? 先生は裏切られたことがあるのかな?)
茜はふと思い出した。図書寮で調べたら、先生の何かが分かるかもしれないことを。
(鷹狩りの名手で、皇族の可能性が高い人……)
「図書寮に寄って行こう」
そうして、そのまま武徳門に向かおうとすると、校書殿へ続く渡殿から、馴染みの蔵人が、茜の顔を見て声を掛けてきた。
「鷹狩りの件、聞いたぞ。大活躍だったらしいな。一体、どこで覚えたんだ?」
「ハハハ、昔ちょっとね。それより、聞きたいことがあるんだけど?」
「聞きたいこと?」
「図書寮で調べ物をしたいんだけど、ちょっと面倒なのよ。良かったら手伝ってくれない?」
馴染みの蔵人は、首を傾げ、少し考えてから答えた。
「一体、何を調べたらいいんだい?」
「手伝ってくれるの?」
「あぁ、少し待ってろ」
馴染みの蔵人が少しして、すぐこちらへやってきた。
「今日はもう仕事はほぼ終わりだから。で、何を調べる?」
「ちょっと系譜を調べたいんだ。宮様の」
「宮様? どちらの宮様だ?」
「それが分からないから、調べるのよ」
そうして、茜は馴染みの蔵人と共に、武徳門を潜ろうとした。
「あれ? また掃部寮へでも行くのか?」
門衛が声を掛け、茜たちは立ち止まった。
「いや、ちょっと調べ物で図書寮へ。そういやあんた、今日はこっちの門担当なのね」
「そうなんだ。遊義門の方が暇で楽なんだけどな。それより聞いたよ、鷹狩りのこと。活躍したんだって?」
「えへへ……」
(私じゃなくて、先生なんだけどなぁ……)
「それで、そちらの蔵人殿も一緒に?」
「あぁ、そうなの。手伝って貰おうと思って」
門衛は馴染みの蔵人と目を合わせ、軽く会釈をした。
なんとなく、二人の間にギクシャクした空気が流れる。
「さ、そろそろ行かないと時間がなくなっちゃう」
「お、おう……」
『……』
茜たちはそれから急いで図書寮へと向かう。
宴の松原を通る頃には、日が沈みかけていた。
校倉造の高い位置にある入り口に入るため、ギシギシと音を響かせて階段を登った。
重い扉の鍵を開けて中に入ると、ぷんと鼻につく独特の匂い――古い和紙の匂い、防虫のための樟脳の匂いなどで充満していた。
「火気厳禁の場所なのに、中が薄暗いってどうなの……」
行灯を手に中を照らすが、視界は悪かった。
「ここから探すのって、ちょいと難儀だなぁ」
馴染みの蔵人は、膨大な書物を目の前に、どこから手を付けるべきか悩んでいるようだった。
「その宮様の、何か情報はないのかい?」
すると書棚の上の木箱が突然、蔵人の上に落ちた。
「えっ?」
その場にドサッと倒れた蔵人に、慌てて茜は駆け寄った。
「ちょっと、大丈夫?」
「……大丈夫だ。加減はした」
うつ伏せに倒れていた蔵人は、なんでもなかったかのように立ち上がる。
「加減はしたって、どういう……」
起き上がった蔵人の額からは血が滴っていた。
「ちょっと! 血が出てるじゃない!」
茜は懐から手拭いを取り出すと、蔵人の額に当てた。
密室の薄暗い中、馴染みの蔵人と二人きり。歳も近く、気安い間柄だが、これだけ距離が近いと意識しない訳にもいかない。
(べ、別に、蔵人はただの知り合いだし……)
「少しやり過ぎたか、頭がクラクラする」
「一体、何を言ってるの?」
「さっさと調べるぞ。お前はそっちの棚を見ろ。私はこっちを見る」
やたら偉そうな態度に、茜は違和感を覚える。
「……何なのあの態度、先生どう思う?」
振り返った先に先生の姿はない。
――まさか。
茜は、別の棚を調べている蔵人を呼んだ。
「あんたちょっと、まさか」
「何をしてるんだ? さっさとそっちの棚を調べろと言っただろう?」
「あんた先生でしょ? なんでそいつの中に入ってんの?」
すると、蔵人は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なんでって、私が探した方が早いからだ」
「だからって、人の身体を勝手に……」
「使えるものは使う」
そう言いながら、先生は棚から木箱を下ろして、中の巻物を引っ張り出しては、巻いて戻している。
その真剣な様子を見て、茜は軽く溜め息を吐くと、自分も別の棚を調べ始めた。
「あれ、これは何だろう?」
どの木箱にも、分類の札が貼られていたがその箱には何も貼られていない。
試しに取り出して開けようと思ったのだが、意外にも重量があり、上手くいかない。
「ちょっと、先生!」
「何だ?」
「変な箱があるけど、重くて」
すぐに先生はこちらへやってくると、箱を下ろしてくれた。
行灯の明かりの下、木箱の蓋を開けると、カビ臭さと共にツーンとした匂いが広がる。
「どこにも分類出来ないような物を、とりあえず入れている感じだな……」
納められていたものはさまざまで、書画が多かった。元は貴重なものなのだろうが、ところどころ焼け焦げたものなどが多い。
「処分し切れずにいた感じか……」
一枚の巻物を広げかけると、文がひらりと一枚落ちた。
「ん?」
先生がそれを拾い、読み上げた。
「松風に 君待つことも あらじとぞ 思ひ定めて 袖を濡らしぬ」
「……ふむ。別れの歌だな」
「あっ、まだ何か挟まってない?」
先生が持つ巻物に、まだ和紙の切れ端が見える。
「もう一枚あるな」
「松風に 別れ告ぐるは なにゆゑぞ 逢ひて聞かまし 君が心を」
「この手、見たことがある」
茜は、もう一首の方を見て言った。
「これは先帝の更衣で、梨壺の御方の手だと思う」
「男の方は別れを切り出しているが、女の方が納得していない感じだな」
「梨壺の御方は、確か元尚侍。先帝に望まれて后になられた」
「まぁ、私の身元が分かる手立てにはならなさそうだ」
そう言って、先生は巻物と文を箱に戻してしまった。
先生は、まるで興味がなさそうだった。
「さぁ、さっさと仕事に戻れ」
「棚の上の箱を開けるのは、私にはちょっと……」
「ならば、お前は向こうの唐櫃の方をあたれ」
「はーい」
帝系図を片っ端から調べるも、先生の名も分からないので、茜が探すのは困難を極めた。
結局、埒が明かずに早々に調べることを諦め、先生のところへ戻ってきた。
真剣な表情で、書物に目を落としている先生に向かって尋ねる。
「先生! 何か分かった?」
先生は少し動きを止め、呟いた。
「……いや。何でもない」
「?」
(何か気になることでも、あったのかな?)
「もう日が暮れたし、流石に今日は引き上げて帰ろうよ」
外に出ると、辺りは真っ暗闇だった。
鬱蒼と生い茂る松林は、どこか得体の知れない不気味な雰囲気を醸し出している。
「うん、暗いな。そしてちょっと寒い」
行灯の火と先生が頼りだった。
物の怪の類が怖いというより、ただ暗闇というだけで心細い。そして、日が落ちて強くなった風もなぜかそれを助長する。
茜は先生の腕にしがみつき、冷たい秋風に身を縮こませた。
「おい、しがみつくな」
「別にいいでしょ、寒いんだし」
すると先生がポツリと呟いた。
「……この男は私ではない。お前はもう少し、慎みを持て」
「あっ、ごめん」
馴染みの蔵人の身体だったことを思い出し、茜はすぐに腕から手を離した。
「蔵人所までは、この身体で送っていく」
先生はそうして歩く速度を速め、茜の前を歩く。
「そういや額の傷は大丈夫?」
「さぁ?」
「……んもう」
ドン! と突然、背中にぶつかり、先生が足を止めたのだと知る。
「ちょっと! 急に止まらないでよ!」
「あそこに」
先生は、松林の方へ向かって指を差す。
ぶつけた鼻をさすりながら、何事かと目を凝らして見ても、残念ながらここからは何も見えなかった。
「ここからでは、人の目では厳しいか」
「なになに、幽霊でもいた?」
「まさにその通りだ」
幽霊がいると言われたところで、茜が動じる必要などまるでない。
――先生が傍にいる限り。
「宴の松原に、今さら幽霊や物の怪がいたって、別に驚かないよ」
「男の幽霊だ。未練があるようだな」
「ちょっと先生、話を聞いてきて」
「は?」
「未練があって、その人困ってるんでしょ? 先生がとりあえず話を聞いてあげたらいいじゃない」
先生は半眼になって、長い溜め息を吐いた。
「お前なぁ……私が怨霊だということを忘れてないか?」
「じゃあ、私が直接幽霊に聞く?」
「それは、あまり好ましいものではない」
「どうして?」
「……」
先生が返答に困っているのを見て、茜はより勢いに乗る。
「話が出来るなら、話はすべきでしょ?」
「怨霊だろうがなんだろうが、人を救える力があるんだから、いいじゃない?」
「話が通じない相手もいる。お前が闇雲に怨霊と話すのは危険だ」
「私には先生がいるじゃない」
「……」
先生は仕方なく、男の幽霊の元へ足を向け、茜もそれに付いていく。
大きな黒い松の前で、男の幽霊が俯いて佇んでいた。
「いいか? 私がとりあえず話をするから、お前はおとなしくしておけ」
「分かった」
茜は先生の背後にぴったりと張り付いて、様子を窺うことにした。
そして、先生が満を持して口を開いた。
「そこの者、何をそんなに憂いておる?」
先生が男の幽霊と話す様子を、茜は黙って見守っていた。
男の声は思ったより小さく、茜には上手く聞き取れなかった。
「恋人に真実を言えず、出せなかった文をここに埋めたのだと……」
「どういうこと?」
「男は生前、結婚を約束していた女がいたが、自分が重い肺病に罹り、先が長くないことを知った。女の将来を思って、別れの手紙を出したのだと……」
「それで?」
「女から会いたいという返事が来たが、男はもうその時には、起き上がることも出来なくなっていた。文はそのまま女に返したのだと」
そこまで話を聞いて、茜はふと思った。
「ねえ、どこかで聞いたことのあるような内容じゃない?」
「お前もやはり、そう思うか?」
あの図書寮で見た別れの歌の差出人なのかもしれないと、二人とも思ったのだ。
「松風に 君待つことも あらじとぞ 思ひ定めて 袖を濡らしぬ」
すると、ずっと俯いていた男が顔を上げた。
その顔色は目が落ち込んでいて、痩せて顔色が酷く悪かった。
『どうしてそれを……?』
(ていうか、先生よくあの歌を暗記してたな)
「やはり、お前が送った歌なのだな?」
『はい』
「さぁ、あとはお前の領分なのだろう?」
先生にそう言われ、茜は一つしかすることが思い浮かばなかった。
「明日、梨壺の御方に話をしに行こうと思う」
鷹狩りを終え、無事に帰還した茜たちは、蔵人所の南庭にいた。
鷹飼が何度も頭を下げる。
鷹狩りでの活躍が認められ、白雪は正式に帝の所有である御鷹となった。これで、白雪にかかる費用の不安は一切なくなった。
「右大臣さまが、本来は自分の鷹だと悔しがっていましたけど、御鷹となった白雪を返せとは流石に言えませんもんね」
「おーい、ちょっと来てくれよ」
他の鷹飼が、鷹飼を呼んでいるようだ。
「あっ、ちょっと失礼しますね」
小さくお辞儀をすると、仲間の方へ駆けていった。
「随分と忙しそう。ね? 先生」
茜の隣に立つ先生は、じっと鷹棚で休む白雪を見つめている。
「先生は、白雪が本当に可愛いみたいね」
『こいつらは絶対裏切らないからな……』
(裏切らない? 先生は裏切られたことがあるのかな?)
茜はふと思い出した。図書寮で調べたら、先生の何かが分かるかもしれないことを。
(鷹狩りの名手で、皇族の可能性が高い人……)
「図書寮に寄って行こう」
そうして、そのまま武徳門に向かおうとすると、校書殿へ続く渡殿から、馴染みの蔵人が、茜の顔を見て声を掛けてきた。
「鷹狩りの件、聞いたぞ。大活躍だったらしいな。一体、どこで覚えたんだ?」
「ハハハ、昔ちょっとね。それより、聞きたいことがあるんだけど?」
「聞きたいこと?」
「図書寮で調べ物をしたいんだけど、ちょっと面倒なのよ。良かったら手伝ってくれない?」
馴染みの蔵人は、首を傾げ、少し考えてから答えた。
「一体、何を調べたらいいんだい?」
「手伝ってくれるの?」
「あぁ、少し待ってろ」
馴染みの蔵人が少しして、すぐこちらへやってきた。
「今日はもう仕事はほぼ終わりだから。で、何を調べる?」
「ちょっと系譜を調べたいんだ。宮様の」
「宮様? どちらの宮様だ?」
「それが分からないから、調べるのよ」
そうして、茜は馴染みの蔵人と共に、武徳門を潜ろうとした。
「あれ? また掃部寮へでも行くのか?」
門衛が声を掛け、茜たちは立ち止まった。
「いや、ちょっと調べ物で図書寮へ。そういやあんた、今日はこっちの門担当なのね」
「そうなんだ。遊義門の方が暇で楽なんだけどな。それより聞いたよ、鷹狩りのこと。活躍したんだって?」
「えへへ……」
(私じゃなくて、先生なんだけどなぁ……)
「それで、そちらの蔵人殿も一緒に?」
「あぁ、そうなの。手伝って貰おうと思って」
門衛は馴染みの蔵人と目を合わせ、軽く会釈をした。
なんとなく、二人の間にギクシャクした空気が流れる。
「さ、そろそろ行かないと時間がなくなっちゃう」
「お、おう……」
『……』
茜たちはそれから急いで図書寮へと向かう。
宴の松原を通る頃には、日が沈みかけていた。
校倉造の高い位置にある入り口に入るため、ギシギシと音を響かせて階段を登った。
重い扉の鍵を開けて中に入ると、ぷんと鼻につく独特の匂い――古い和紙の匂い、防虫のための樟脳の匂いなどで充満していた。
「火気厳禁の場所なのに、中が薄暗いってどうなの……」
行灯を手に中を照らすが、視界は悪かった。
「ここから探すのって、ちょいと難儀だなぁ」
馴染みの蔵人は、膨大な書物を目の前に、どこから手を付けるべきか悩んでいるようだった。
「その宮様の、何か情報はないのかい?」
すると書棚の上の木箱が突然、蔵人の上に落ちた。
「えっ?」
その場にドサッと倒れた蔵人に、慌てて茜は駆け寄った。
「ちょっと、大丈夫?」
「……大丈夫だ。加減はした」
うつ伏せに倒れていた蔵人は、なんでもなかったかのように立ち上がる。
「加減はしたって、どういう……」
起き上がった蔵人の額からは血が滴っていた。
「ちょっと! 血が出てるじゃない!」
茜は懐から手拭いを取り出すと、蔵人の額に当てた。
密室の薄暗い中、馴染みの蔵人と二人きり。歳も近く、気安い間柄だが、これだけ距離が近いと意識しない訳にもいかない。
(べ、別に、蔵人はただの知り合いだし……)
「少しやり過ぎたか、頭がクラクラする」
「一体、何を言ってるの?」
「さっさと調べるぞ。お前はそっちの棚を見ろ。私はこっちを見る」
やたら偉そうな態度に、茜は違和感を覚える。
「……何なのあの態度、先生どう思う?」
振り返った先に先生の姿はない。
――まさか。
茜は、別の棚を調べている蔵人を呼んだ。
「あんたちょっと、まさか」
「何をしてるんだ? さっさとそっちの棚を調べろと言っただろう?」
「あんた先生でしょ? なんでそいつの中に入ってんの?」
すると、蔵人は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なんでって、私が探した方が早いからだ」
「だからって、人の身体を勝手に……」
「使えるものは使う」
そう言いながら、先生は棚から木箱を下ろして、中の巻物を引っ張り出しては、巻いて戻している。
その真剣な様子を見て、茜は軽く溜め息を吐くと、自分も別の棚を調べ始めた。
「あれ、これは何だろう?」
どの木箱にも、分類の札が貼られていたがその箱には何も貼られていない。
試しに取り出して開けようと思ったのだが、意外にも重量があり、上手くいかない。
「ちょっと、先生!」
「何だ?」
「変な箱があるけど、重くて」
すぐに先生はこちらへやってくると、箱を下ろしてくれた。
行灯の明かりの下、木箱の蓋を開けると、カビ臭さと共にツーンとした匂いが広がる。
「どこにも分類出来ないような物を、とりあえず入れている感じだな……」
納められていたものはさまざまで、書画が多かった。元は貴重なものなのだろうが、ところどころ焼け焦げたものなどが多い。
「処分し切れずにいた感じか……」
一枚の巻物を広げかけると、文がひらりと一枚落ちた。
「ん?」
先生がそれを拾い、読み上げた。
「松風に 君待つことも あらじとぞ 思ひ定めて 袖を濡らしぬ」
「……ふむ。別れの歌だな」
「あっ、まだ何か挟まってない?」
先生が持つ巻物に、まだ和紙の切れ端が見える。
「もう一枚あるな」
「松風に 別れ告ぐるは なにゆゑぞ 逢ひて聞かまし 君が心を」
「この手、見たことがある」
茜は、もう一首の方を見て言った。
「これは先帝の更衣で、梨壺の御方の手だと思う」
「男の方は別れを切り出しているが、女の方が納得していない感じだな」
「梨壺の御方は、確か元尚侍。先帝に望まれて后になられた」
「まぁ、私の身元が分かる手立てにはならなさそうだ」
そう言って、先生は巻物と文を箱に戻してしまった。
先生は、まるで興味がなさそうだった。
「さぁ、さっさと仕事に戻れ」
「棚の上の箱を開けるのは、私にはちょっと……」
「ならば、お前は向こうの唐櫃の方をあたれ」
「はーい」
帝系図を片っ端から調べるも、先生の名も分からないので、茜が探すのは困難を極めた。
結局、埒が明かずに早々に調べることを諦め、先生のところへ戻ってきた。
真剣な表情で、書物に目を落としている先生に向かって尋ねる。
「先生! 何か分かった?」
先生は少し動きを止め、呟いた。
「……いや。何でもない」
「?」
(何か気になることでも、あったのかな?)
「もう日が暮れたし、流石に今日は引き上げて帰ろうよ」
外に出ると、辺りは真っ暗闇だった。
鬱蒼と生い茂る松林は、どこか得体の知れない不気味な雰囲気を醸し出している。
「うん、暗いな。そしてちょっと寒い」
行灯の火と先生が頼りだった。
物の怪の類が怖いというより、ただ暗闇というだけで心細い。そして、日が落ちて強くなった風もなぜかそれを助長する。
茜は先生の腕にしがみつき、冷たい秋風に身を縮こませた。
「おい、しがみつくな」
「別にいいでしょ、寒いんだし」
すると先生がポツリと呟いた。
「……この男は私ではない。お前はもう少し、慎みを持て」
「あっ、ごめん」
馴染みの蔵人の身体だったことを思い出し、茜はすぐに腕から手を離した。
「蔵人所までは、この身体で送っていく」
先生はそうして歩く速度を速め、茜の前を歩く。
「そういや額の傷は大丈夫?」
「さぁ?」
「……んもう」
ドン! と突然、背中にぶつかり、先生が足を止めたのだと知る。
「ちょっと! 急に止まらないでよ!」
「あそこに」
先生は、松林の方へ向かって指を差す。
ぶつけた鼻をさすりながら、何事かと目を凝らして見ても、残念ながらここからは何も見えなかった。
「ここからでは、人の目では厳しいか」
「なになに、幽霊でもいた?」
「まさにその通りだ」
幽霊がいると言われたところで、茜が動じる必要などまるでない。
――先生が傍にいる限り。
「宴の松原に、今さら幽霊や物の怪がいたって、別に驚かないよ」
「男の幽霊だ。未練があるようだな」
「ちょっと先生、話を聞いてきて」
「は?」
「未練があって、その人困ってるんでしょ? 先生がとりあえず話を聞いてあげたらいいじゃない」
先生は半眼になって、長い溜め息を吐いた。
「お前なぁ……私が怨霊だということを忘れてないか?」
「じゃあ、私が直接幽霊に聞く?」
「それは、あまり好ましいものではない」
「どうして?」
「……」
先生が返答に困っているのを見て、茜はより勢いに乗る。
「話が出来るなら、話はすべきでしょ?」
「怨霊だろうがなんだろうが、人を救える力があるんだから、いいじゃない?」
「話が通じない相手もいる。お前が闇雲に怨霊と話すのは危険だ」
「私には先生がいるじゃない」
「……」
先生は仕方なく、男の幽霊の元へ足を向け、茜もそれに付いていく。
大きな黒い松の前で、男の幽霊が俯いて佇んでいた。
「いいか? 私がとりあえず話をするから、お前はおとなしくしておけ」
「分かった」
茜は先生の背後にぴったりと張り付いて、様子を窺うことにした。
そして、先生が満を持して口を開いた。
「そこの者、何をそんなに憂いておる?」
先生が男の幽霊と話す様子を、茜は黙って見守っていた。
男の声は思ったより小さく、茜には上手く聞き取れなかった。
「恋人に真実を言えず、出せなかった文をここに埋めたのだと……」
「どういうこと?」
「男は生前、結婚を約束していた女がいたが、自分が重い肺病に罹り、先が長くないことを知った。女の将来を思って、別れの手紙を出したのだと……」
「それで?」
「女から会いたいという返事が来たが、男はもうその時には、起き上がることも出来なくなっていた。文はそのまま女に返したのだと」
そこまで話を聞いて、茜はふと思った。
「ねえ、どこかで聞いたことのあるような内容じゃない?」
「お前もやはり、そう思うか?」
あの図書寮で見た別れの歌の差出人なのかもしれないと、二人とも思ったのだ。
「松風に 君待つことも あらじとぞ 思ひ定めて 袖を濡らしぬ」
すると、ずっと俯いていた男が顔を上げた。
その顔色は目が落ち込んでいて、痩せて顔色が酷く悪かった。
『どうしてそれを……?』
(ていうか、先生よくあの歌を暗記してたな)
「やはり、お前が送った歌なのだな?」
『はい』
「さぁ、あとはお前の領分なのだろう?」
先生にそう言われ、茜は一つしかすることが思い浮かばなかった。
「明日、梨壺の御方に話をしに行こうと思う」

