宮中あやかし草紙

宮中、内裏(だいり)の朝は早い。

暗がりの中、一人の女房(にょうぼう)がのろのろと起き、枕元の燈台(とうだい)の明かりを頼りに、朝の支度を始めた。

明け方の空気は、秋が深まるにつれ、近頃はかなり冷え込むようになってきた。女房(にょうぼう)は夜着(よぎ)にくるまりながら、つま先立ちで御帳台に向かって声を掛けた。

「……姫さま、そろそろ」

「……」

「姫さま!」

「……」

(こりゃ、ダメだ……)

ここは内裏(だいり)の中でも、帝のおわす清涼殿(せいりょうでん)からは最も遠い場所、淑景舎(しげいしゃ)。別名を桐壺と呼ぶ。

つまり、この御帳台(みちょうだい)の中で眠る姫は、桐壺の女御(にょうご)、茉莉子(まりこ)。先の式部卿宮(しきぶきょうのみや)の姫であられる。

「茜」

小声で呼ばれ、女房(にょうぼう)の茜は振り向いた。
手燭(てしょく)に照らされた女の顔は相変わらず丸く腫れ、浮腫(むく)んでいた。

「プッ」

茜が思わず吹き出すと、笑われた丸顔の女房(にょうぼう)はムッとした顔をした。

「ちょっと、いい加減にしてよ!」

「だって、朝からパンパンなんだもん。どうせ、昨夜遅くまで飲んでたんでしょ?」

「……ぐっ、中納言(ちゅうなごん)さまのお土産のお酒がやたらおいしくて」

「ほどほどにしないと。まだお酒臭いよ?」

「それより、姫さまは?」

「ダメ。まるで起きない」

茜は御帳台(みちょうだい)を振り返った。
まるで起きてくる様子がない姫は、放っておけば昼まで平気で寝るような人だ。

「もういいんじゃない。寝かせといても」

「御上(おかみ)からも全く顧(かえり)みられないし……」

「うーん……」

父君の式部卿宮(しきぶきょうのみや)を亡くされ早数年。何の後ろ盾もない姫を、入内(じゅだい)させたのは、ただ食いっぱぐれさせない為――

「当初の目的は達成してるし、別にいいかな?」

「あんたねぇ……。入内(じゅだい)したからには、上を目指さないと」

「姫さまは別に、そんなこと望んでないし」

茜が仕える姫は、美貌だけなら、他の女御(にょうご)に引けを取らない。しかし、姫を後押しする後ろ盾がない以上、どうしても他の后に一歩、いやそれ以上に劣るのだ。

今をときめく右大臣の娘である弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご)は、帝の覚えがめでたく、左大臣の娘である承香殿(しょうきょうでん)の女御(にょうご)は、帝の初めての御子(みこ)である姫が生まれたばかり。

「どなたか有力な方が、姫さまの後ろ盾になって下さるといいんだけど」

「父君の式部卿宮(しきぶきょうのみや)は変わり者で、人付き合いは苦手な感じだったからなぁ……」

茜がそう言うと、丸顔の女房(にょうぼう)は、不満そうにぼやいた。

「姫さま自身がやる気がないのが一番困るのよ……」

丸顔の女房(にょうぼう)が、諦めて出て行くと、だだっ広い部屋に、茜は取り残された。

すると、暗がりの中から、突然くぐもった声が響く。

『おい、あの女房(にょうぼう)、酒は一切やめさせたほうがいいぞ……』

「どうして?」

『……酒乱の霊が憑いてる』

声の方へ手燭(てしょく)を向けると、ぼんやりとした黒い影が浮かび上がった。

『私に明かりを向けてどうする?』

澱んだ黒い影の正体は、何と怨霊だった。

夏に都の骨董市で、無料で貰った硯箱(すずりばこ)に取り憑いていた。

「あの女房(にょうぼう)に憑いてる霊ね。一応、あれでも彼女の父親なんだ」

『……ふむ。父ならば致し方あるまい』

「それであんたさ、掃部寮(かもんのりょう)の異変、調べてくれた?」

『あんたとは何だ? あんたとは……』

「あー、はいはい先生、これでいい?」

『……掃部寮(かもんのりょう)の異変はやはり、怨霊の仕業だった』

「やっぱり? で、どうなった?」

『少し睨みを利かせたら消えた』

「それならいいんだけどさ。掃部属(かもんのさかん)が困ってた。褥(しとね)が、毎度毎度濡れてるって苦情が絶えないって。取り替えようとしたものまで濡れているから」

すると、怨霊が少し間を置いてから言った。

『女の怨霊が、褥(しとね)の上で泣いていた。だから褥(しとね)が濡れるんだ』

「どうして泣いてたの?」

『そんなこと、私が知るか』

「そこは聞きなさいよ。理由があるから泣いてるんでしょうが!」

『消えたのならそれで良いではないか? なぜ私がそのような面倒なことを』

しかし、茜はこの怨霊に対して全く怯(ひる)まなかった。

「あんた、女を泣かせたままにしていいの?」

『ぐっ……』

(毎度褥(しとね)を濡らすほど泣くなんて、よっぽどだけど)

『……ったく、人使いが荒過ぎる』

そうして、怨霊はその場から煙のように掻(が)き消えた。

茜はそれを見て、軽く溜め息を吐(つ)いて、呟いた。

「とりあえず掃部寮(かもんのりょう)の異変が片付いたら、それに見合った報酬は貰わなくちゃ」

怨霊が戻って来たのは昼頃だった。

流石(さすが)に女御(にょうご)も起きてきて、遅い朝餉(あさげ)を食べた後だった。

「先生! 随分と遅かったじゃない」

突然、宙に現れた黒い影は、その場を揺蕩(たゆた)いながら、不満そうな声を漏らす。

『お前なぁ……』

『あの女、自分の身の上話を延々と続けるんだぞ? どうして私がこんな真似を……』

「そこ、詳しく!」

怨霊の影が少し揺れる。

『どうやら、掃部寮(かもんのりょう)に、あの女の元恋人がいるらしい』

「おお、それで?」

先生の話はこうだった。

泣く女には生前、結婚を約束した男がいた。しかし、他の良家の姫との縁談が上がった途端、男は女を捨てた。泣く女はその後、傷心のあまり病死――男は良家の姫の実家の後押しを得て、出世を果たす。

「で、その元恋人は掃部助(かもんのすけ)あたり?」

『ご名答。よく分かったな』

「そりゃあ、私に恋文を依頼してくる掃部属(かもんのさかん)と愛妻家で有名な掃部頭(かもんのかみ)、そしてまだ独身の掃部允(かもんのじょう)を除外したら、掃部助(かもんのすけ)しかいないもの」

『いやぁ。お前、随分とアホなのにな……』

人を小馬鹿にしたような言い方をする怨霊に向かって、茜は噛み付いた。

「誰がアホですって? ちょっと失礼じゃない?」

そのやり取りを一部始終見ていた桐壺の女御(にょうご)が呟いた。

「茜はアホじゃないわ」

「姫さま……」

「私の為に、色々世話を焼いてくれてるの。茜がいなかったら、私はとっくに飢え死にしてたと思うわ」

そうして、のんびりお茶を飲み始めた。
そんな女御(にょうご)の様子に呆れつつも、怨霊は茜に確認する。

『……おいおい、こいつ仮にも親王家の姫だったんだろう?』

「そうだよ? 亡くなった父君は式部卿宮(しきぶきょうのみや)だもん」

『じゃあお前は? いつからこいつに付いてるんだ?』

「私? 私は小さい頃に茉莉子(まりこ)に拾われたのよ。私はこんな髪色のせいで『鬼子』と呼ばれ、邪険にされていたから」

怨霊は、改めて茜の髪を見る。
普段は魂の色で人の判別をしているので、本当の色を見るに、少し切り替えが必要だった。影の目には陽の気の輝きとしてしか映っていなかった。

見方を切り替え、目をゆっくりと開けた。

真っ先に飛び込んだのは、その髪色だった。

その髪は赤銅色に近く、くるくると巻いていた。陽の光を浴びれば、さらに輝きそうな色をしている。

新緑を思わせる黄緑の袿(うちき)を羽織り、驚いた様子でこちらを見ている。

「ちょ、ちょっと!!」

茜が腰を抜かしそうな勢いで声を上げた。

「その姿、どうしたの?」

その姿と言われ、怨霊は自分の体を見下ろした。揃った両腕、広げた掌(てのひら)――なんてことはない、人であった頃の姿を象《かたど》っただけ――

『この姿は久しいな。……はて? 私はどうしてこの姿を失っていたのだ?』

そうして首を傾げる様は、どこか愛嬌すらある。

茜は、改めて先生の姿を凝視した。

黒紫の直衣(のうし)に、腰まで伸びる長い黒髪――
異様とも呼べる退廃的な美がそこにあった。怨霊ゆえか、紅い双眸(そうぼう)が煌(きら)めく。


「茜、どうしたの?」

こんな風にはっきり顕現(けんげん)しても、茉莉子(まりこ)には全く見えていないようだった。

「怨霊先生が、絶世の美男子の姿になりました……」

「な、何ですって?」

途端に茉莉子(まりこ)の目の色が変わった。

「どんな麗しいお姿なの? あぁ拝見したい!」

「黒っぽい直衣を着てる。髪は黒くて長い。顔立ちは切長の目、うーわ……睫毛長い。鼻筋は通ってて、上唇は薄め」

『……』

「待ってて!」

茉莉子(まりこ)は紙と筆を引っ張り出してくると、物凄い勢いで絵を描き始めた。

サラサラと筆を走らせ、あっという間に人物画を完成させる。

「あっ、いい感じかも」

「あ、そう?」

(『私は見世物じゃないんだが。……いや、なかなか上手いではないか?』)

怨霊は呆れつつも、悪い気はしなかった。

「いいなぁ。茜はそんな麗しい方に守っていただけて」

すると、茜は即座に否定する。

「違うよ。先生は守護霊じゃなくて怨霊だから、本当は呪われてるんだけど。先生! そこの違いがよく分かりません!」

『私は怨念の塊だ。生前、よほど苦しい思いをしたのは間違いない。その硯箱(すずりばこ)に宿り、その持ち主となったお前に取り憑いたが、普通は三日と持たずに持ち主は死んでいくのに、お前は死ぬどころか、元気そのもの……』

心なしか、茜には先生が落ち込んでいるように見えた。

「呪い、私に効かなくてなんかごめん……」

『いや、呪詛対象者に謝られる方が情けないんだが?』

微妙な空気が一瞬流れる。

「いやぁ、先生が来てから仕事が捗るようになった。むしろめちゃくちゃ助かってる」

『お前の場合、こき使ってるの間違いだろ……』

「ちょっと、助けて貰ってるだけだよ。そういや先生て、生前の記憶ないんだもんね」

『……ない。だから、分からない。私がどこの誰なのか』

「でも直衣(のうし)を着てらっしゃるなら、貴族なのは間違いないのでは? それにこの硯箱(すずりばこ)が怨霊さまの持ち物なら、相当な身分の方かと」

茉莉子(まりこ)の言う通りだった。

「あ、それ盲点だったかも」

ふと口に出して、話が逸(そ)れていたことを茜は思い出した。

「……っと、その前に忘れてた。このままだと私の仕事が滞(とどこお)ってしまうから、先に掃部寮(かもんのりょう)に行こう」

掃部寮(かもんのりょう)はここ桐壺から見て、西側大内裏にある。

渡殿を通り、茜は内裏(だいり)側の遊義門(ゆうぎもん)を抜けようとした。

陽の光を浴びて、茜の赤みがかった髪が、さらに明るく輝く。

ほぼ出歩かない貴族の子女は、大概色白なのだが、この娘の肌の白さは次元が違った。

(『この娘は、一体何者なのだろう?』)

「その赤い髪は、桐壺の女房(にょうぼう)か」

「女御(にょうご)さまの言いつけで掃部寮(かもんのりょう)へ行くの」

「そうか。今度、お前にまた文の代筆を頼みたいんだが」

「どんな文?」

「国の母親に、元気にしてると」

「そのくらいお安い御用よ」

門衛は暇らしく、門を通る度にこんな軽いやり取りをする。

門を抜けると、すぐ大内裏(だいだいり)の掃部寮(かもんのりょう)などが立ち並ぶ区画に出た。

『掃部助(かもんのすけ)に直接言うのか?』

「その方が早いでしょ?」

適当に、掃部寮(かもんのりょう)の敷地内にいた雑色(ぞうしき)を捕まえて声を掛けた。

「ちょっと。掃部助(かもんのすけ)殿を呼んできて」

雑色が突然のことに唖然としていると、茜は厳しい口調でせっついた。

「早く!」

「……あっ、はい」

茜の強い口調のせいか、雑色はやや気圧された様子で、慌てて寮内へ入っていった。

『あやつは何も悪いことはしておらぬのに……』

「そんなの知らないわよ。私はさっさと話を進めたいだけ」

『ふむ』

するとまもなく掃部助(かもんのすけ)が駆けつけた。

「これは桐壺の……何の御用でしょうか?」

「あんた、結婚前に捨てた女性がいるでしょう?」

(『こやつ、直接問い質(ただ)しおった……』)

「不躾(ぶしつけ)にも程がありませぬか? 桐壺の女房(にょうぼう)殿」

訝(いぶか)しげに、茜を見る掃部助(かもんのすけ)は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。

「褥(しとね)が濡れる怪異といえば分かるのかしら? この怪異の原因が、あんたが捨てた元婚約者にあると言ったら、どうするの?」

すると、掃部助(かもんのすけ)の表情がサーッと青ざめた。

「……な、何を根拠に?」

「私の背後にいる人が、全部本人から聞いてきたから」

掃部助(かもんのすけ)は首を伸ばして、茜の背後を見た。

「な、何もおらぬではないか」

「普通の人間には見えないお方なの」

「!」

「出鱈目(でたらめ)を……」

「知らない? 私の噂を。『宮中に巣食う赤い鬼子』って……」

茜が目を大きく見開いて、掃部助(かもんのすけ)に詰め寄る。

「ヒィッ!!」

情けない声を上げて、掃部助(かもんのすけ)はじりじりと後退する。

「先生さ、女の人の名前って聞いた?」

『あぁ。確か露(つゆ)と言っていた』

「露(つゆ)って名前に聞き覚えは?」

掃部助(かもんのすけ)は、もう完全に取り乱していた。茜は止(とど)めを刺さんとばかりににじり寄る。

「お、お主は何者なんだ? どうしてそこまで知っておる?」

「だから、鬼子だと言ったでしょう? 私は死んだ者たちと会話が出来るのよ」

掃部助(かもんのすけ)の背後に、すうっと浮き上がるように、泣いている女性が突如として現れた。

「話を聞いていたでしょう?」

俯いていた女は顔をゆっくりと上げた。

「こんな男の為に、流す涙なんか勿体ないよ。この人は、最初からあなたに相応しくなかった」

女の泣き腫らした目から、さらに涙が溢れた。

「さっさと成仏して生まれ変わって、あなたに相応しい男を捕まえるべきだよ。せっかく美人なんだから」

「おおおおい、そなたは誰と話しておるんだ?」

掃部助(かもんのすけ)は突如として起こった寒気に、ガタガタ震え始めていた。

「あんたの元婚約者に決まってるじゃない」

茜がそう言うと、掃部助(かもんのすけ)の肩に女の右手が掛けられる。

女は何かを耳元で囁いたようだった。

掃部助(かもんのすけ)は恐怖のあまり失禁した。

「あらあら」

「ゆ、許してくれ……仕方がなかったんだ」

失禁した掃部助(かもんのすけ)に女は幻滅したようで、少し苦笑いをするとそのままスッと天に昇って消えた。

泣き崩れる掃部助(かもんのすけ)を置いて、成仏したようだった。

「彼女の墓を見舞って、ちゃんとお供えをし、許しを請(こ)いなさい。そして、命日は毎年必ず墓に行くこと」

「わ、分かった……」

「これにて一件落着〜〜」

茜がそう言うと、背後で見守っていた先生は大きく溜め息を吐(つ)いた。

『お前の言う、解決の仕方とはこれか』

「そう。私は人だろうが、死者だろうが、理不尽な真似を受けている者を黙って見てられないんだよ」

『理不尽な真似を受けていたのは、あの女ではなく、掃部属(かもんのさかん)ではないのか?』

「だから、私は掃部属(かもんのさかん)の為に、解決を目指したんだけど?」

茜はそうして、遠巻きに事態を見ていた雑色(ぞうしき)たちに向かって言った。

「掃部属(かもんのさかん)を呼んできてちょうだい」