宮中、内裏の朝は早い。
暗がりの中、一人の女房がのろのろと起き、枕元の燈台の明かりを頼りに、朝の支度を始めた。
明け方の空気は、秋が深まるにつれ、近頃はかなり冷え込むようになってきた。女房は夜着にくるまりながら、つま先立ちで御帳台に向かって声を掛けた。
「……姫さま、そろそろ」
「……」
「姫さま!」
「……」
(こりゃ、ダメだ……)
ここは内裏の中でも、帝のおわす清涼殿からは最も遠い場所、淑景舎。別名を桐壺と呼ぶ。
つまり、この御帳台の中で眠る姫は、桐壺の女御、茉莉子。先の式部卿宮の姫であられる。
「茜」
小声で呼ばれ、女房の茜は振り向いた。
手燭に照らされた女の顔は相変わらず丸く腫れ、浮腫んでいた。
「プッ」
茜が思わず吹き出すと、笑われた丸顔の女房はムッとした顔をした。
「ちょっと、いい加減にしてよ!」
「だって、朝からパンパンなんだもん。どうせ、昨夜遅くまで飲んでたんでしょ?」
「……ぐっ、中納言さまのお土産のお酒がやたらおいしくて」
「ほどほどにしないと。まだお酒臭いよ?」
「それより、姫さまは?」
「ダメ。まるで起きない」
茜は御帳台を振り返った。
まるで起きてくる様子がない姫は、放っておけば昼まで平気で寝るような人だ。
「もういいんじゃない。寝かせといても」
「御上からも全く顧みられないし……」
「うーん……」
父君の式部卿宮を亡くされ早数年。何の後ろ盾もない姫を、入内させたのは、ただ食いっぱぐれさせない為――
「当初の目的は達成してるし、別にいいかな?」
「あんたねぇ……。入内したからには、上を目指さないと」
「姫さまは別に、そんなこと望んでないし」
茜が仕える姫は、美貌だけなら、他の女御に引けを取らない。しかし、姫を後押しする後ろ盾がない以上、どうしても他の后に一歩、いやそれ以上に劣るのだ。
今をときめく右大臣の娘である弘徽殿の女御は、帝の覚えがめでたく、左大臣の娘である承香殿の女御は、帝の初めての御子である姫が生まれたばかり。
「どなたか有力な方が、姫さまの後ろ盾になって下さるといいんだけど」
「父君の式部卿宮は変わり者で、人付き合いは苦手な感じだったからなぁ……」
茜がそう言うと、丸顔の女房は、不満そうにぼやいた。
「姫さま自身がやる気がないのが一番困るのよ……」
丸顔の女房が、諦めて出て行くと、だだっ広い部屋に、茜は取り残された。
すると、暗がりの中から、突然くぐもった声が響く。
『おい、あの女房、酒は一切やめさせたほうがいいぞ……』
「どうして?」
『……酒乱の霊が憑いてる』
声の方へ手燭を向けると、ぼんやりとした黒い影が浮かび上がった。
『私に明かりを向けてどうする?』
澱んだ黒い影の正体は、何と怨霊だった。
夏に都の骨董市で、無料で貰った硯箱に取り憑いていた。
「あの女房に憑いてる霊ね。一応、あれでも彼女の父親なんだ」
『……ふむ。父ならば致し方あるまい』
「それであんたさ、掃部寮の異変、調べてくれた?」
『あんたとは何だ? あんたとは……』
「あー、はいはい先生、これでいい?」
『……掃部寮の異変はやはり、怨霊の仕業だった』
「やっぱり? で、どうなった?」
『少し睨みを利かせたら消えた』
「それならいいんだけどさ。掃部属が困ってた。褥が、毎度毎度濡れてるって苦情が絶えないって。取り替えようとしたものまで濡れているから」
すると、怨霊が少し間を置いてから言った。
『女の怨霊が、褥の上で泣いていた。だから褥が濡れるんだ』
「どうして泣いてたの?」
『そんなこと、私が知るか』
「そこは聞きなさいよ。理由があるから泣いてるんでしょうが!」
『消えたのならそれで良いではないか? なぜ私がそのような面倒なことを』
しかし、茜はこの怨霊に対して全く怯まなかった。
「あんた、女を泣かせたままにしていいの?」
『ぐっ……』
(毎度褥を濡らすほど泣くなんて、よっぽどだけど)
『……ったく、人使いが荒過ぎる』
そうして、怨霊はその場から煙のように掻き消えた。
茜はそれを見て、軽く溜め息を吐いて、呟いた。
「とりあえず掃部寮の異変が片付いたら、それに見合った報酬は貰わなくちゃ」
怨霊が戻って来たのは昼頃だった。
流石に女御も起きてきて、遅い朝餉を食べた後だった。
「先生! 随分と遅かったじゃない」
突然、宙に現れた黒い影は、その場を揺蕩いながら、不満そうな声を漏らす。
『お前なぁ……』
『あの女、自分の身の上話を延々と続けるんだぞ? どうして私がこんな真似を……』
「そこ、詳しく!」
怨霊の影が少し揺れる。
『どうやら、掃部寮に、あの女の元恋人がいるらしい』
「おお、それで?」
先生の話はこうだった。
泣く女には生前、結婚を約束した男がいた。しかし、他の良家の姫との縁談が上がった途端、男は女を捨てた。泣く女はその後、傷心のあまり病死――男は良家の姫の実家の後押しを得て、出世を果たす。
「で、その元恋人は掃部助あたり?」
『ご名答。よく分かったな』
「そりゃあ、私に恋文を依頼してくる掃部属と愛妻家で有名な掃部頭、そしてまだ独身の掃部允を除外したら、掃部助しかいないもの」
『いやぁ。お前、随分とアホなのにな……』
人を小馬鹿にしたような言い方をする怨霊に向かって、茜は噛み付いた。
「誰がアホですって? ちょっと失礼じゃない?」
そのやり取りを一部始終見ていた桐壺の女御が呟いた。
「茜はアホじゃないわ」
「姫さま……」
「私の為に、色々世話を焼いてくれてるの。茜がいなかったら、私はとっくに飢え死にしてたと思うわ」
そうして、のんびりお茶を飲み始めた。
そんな女御の様子に呆れつつも、怨霊は茜に確認する。
『……おいおい、こいつ仮にも親王家の姫だったんだろう?』
「そうだよ? 亡くなった父君は式部卿宮だもん」
『じゃあお前は? いつからこいつに付いてるんだ?』
「私? 私は小さい頃に茉莉子に拾われたのよ。私はこんな髪色のせいで『鬼子』と呼ばれ、邪険にされていたから」
怨霊は、改めて茜の髪を見る。
普段は魂の色で人の判別をしているので、本当の色を見るに、少し切り替えが必要だった。影の目には陽の気の輝きとしてしか映っていなかった。
見方を切り替え、目をゆっくりと開けた。
真っ先に飛び込んだのは、その髪色だった。
その髪は赤銅色に近く、くるくると巻いていた。陽の光を浴びれば、さらに輝きそうな色をしている。
新緑を思わせる黄緑の袿を羽織り、驚いた様子でこちらを見ている。
「ちょ、ちょっと!!」
茜が腰を抜かしそうな勢いで声を上げた。
「その姿、どうしたの?」
その姿と言われ、怨霊は自分の体を見下ろした。揃った両腕、広げた掌――なんてことはない、人であった頃の姿を象《かたど》っただけ――
『この姿は久しいな。……はて? 私はどうしてこの姿を失っていたのだ?』
そうして首を傾げる様は、どこか愛嬌すらある。
茜は、改めて先生の姿を凝視した。
黒紫の直衣に、腰まで伸びる長い黒髪――
異様とも呼べる退廃的な美がそこにあった。怨霊ゆえか、紅い双眸が煌めく。
「茜、どうしたの?」
こんな風にはっきり顕現しても、茉莉子には全く見えていないようだった。
「怨霊先生が、絶世の美男子の姿になりました……」
「な、何ですって?」
途端に茉莉子の目の色が変わった。
「どんな麗しいお姿なの? あぁ拝見したい!」
「黒っぽい直衣を着てる。髪は黒くて長い。顔立ちは切長の目、うーわ……睫毛長い。鼻筋は通ってて、上唇は薄め」
『……』
「待ってて!」
茉莉子は紙と筆を引っ張り出してくると、物凄い勢いで絵を描き始めた。
サラサラと筆を走らせ、あっという間に人物画を完成させる。
「あっ、いい感じかも」
「あ、そう?」
(『私は見世物じゃないんだが。……いや、なかなか上手いではないか?』)
怨霊は呆れつつも、悪い気はしなかった。
「いいなぁ。茜はそんな麗しい方に守っていただけて」
すると、茜は即座に否定する。
「違うよ。先生は守護霊じゃなくて怨霊だから、本当は呪われてるんだけど。先生! そこの違いがよく分かりません!」
『私は怨念の塊だ。生前、よほど苦しい思いをしたのは間違いない。その硯箱に宿り、その持ち主となったお前に取り憑いたが、普通は三日と持たずに持ち主は死んでいくのに、お前は死ぬどころか、元気そのもの……』
心なしか、茜には先生が落ち込んでいるように見えた。
「呪い、私に効かなくてなんかごめん……」
『いや、呪詛対象者に謝られる方が情けないんだが?』
微妙な空気が一瞬流れる。
「いやぁ、先生が来てから仕事が捗るようになった。むしろめちゃくちゃ助かってる」
『お前の場合、こき使ってるの間違いだろ……』
「ちょっと、助けて貰ってるだけだよ。そういや先生て、生前の記憶ないんだもんね」
『……ない。だから、分からない。私がどこの誰なのか』
「でも直衣を着てらっしゃるなら、貴族なのは間違いないのでは? それにこの硯箱が怨霊さまの持ち物なら、相当な身分の方かと」
茉莉子の言う通りだった。
「あ、それ盲点だったかも」
ふと口に出して、話が逸れていたことを茜は思い出した。
「……っと、その前に忘れてた。このままだと私の仕事が滞ってしまうから、先に掃部寮に行こう」
掃部寮はここ桐壺から見て、西側大内裏にある。
渡殿を通り、茜は内裏側の遊義門を抜けようとした。
陽の光を浴びて、茜の赤みがかった髪が、さらに明るく輝く。
ほぼ出歩かない貴族の子女は、大概色白なのだが、この娘の肌の白さは次元が違った。
(『この娘は、一体何者なのだろう?』)
「その赤い髪は、桐壺の女房か」
「女御さまの言いつけで掃部寮へ行くの」
「そうか。今度、お前にまた文の代筆を頼みたいんだが」
「どんな文?」
「国の母親に、元気にしてると」
「そのくらいお安い御用よ」
門衛は暇らしく、門を通る度にこんな軽いやり取りをする。
門を抜けると、すぐ大内裏の掃部寮などが立ち並ぶ区画に出た。
『掃部助に直接言うのか?』
「その方が早いでしょ?」
適当に、掃部寮の敷地内にいた雑色を捕まえて声を掛けた。
「ちょっと。掃部助殿を呼んできて」
雑色が突然のことに唖然としていると、茜は厳しい口調でせっついた。
「早く!」
「……あっ、はい」
茜の強い口調のせいか、雑色はやや気圧された様子で、慌てて寮内へ入っていった。
『あやつは何も悪いことはしておらぬのに……』
「そんなの知らないわよ。私はさっさと話を進めたいだけ」
『ふむ』
するとまもなく掃部助が駆けつけた。
「これは桐壺の……何の御用でしょうか?」
「あんた、結婚前に捨てた女性がいるでしょう?」
(『こやつ、直接問い質しおった……』)
「不躾にも程がありませぬか? 桐壺の女房殿」
訝しげに、茜を見る掃部助は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「褥が濡れる怪異といえば分かるのかしら? この怪異の原因が、あんたが捨てた元婚約者にあると言ったら、どうするの?」
すると、掃部助の表情がサーッと青ざめた。
「……な、何を根拠に?」
「私の背後にいる人が、全部本人から聞いてきたから」
掃部助は首を伸ばして、茜の背後を見た。
「な、何もおらぬではないか」
「普通の人間には見えないお方なの」
「!」
「出鱈目を……」
「知らない? 私の噂を。『宮中に巣食う赤い鬼子』って……」
茜が目を大きく見開いて、掃部助に詰め寄る。
「ヒィッ!!」
情けない声を上げて、掃部助はじりじりと後退する。
「先生さ、女の人の名前って聞いた?」
『あぁ。確か露と言っていた』
「露って名前に聞き覚えは?」
掃部助は、もう完全に取り乱していた。茜は止めを刺さんとばかりににじり寄る。
「お、お主は何者なんだ? どうしてそこまで知っておる?」
「だから、鬼子だと言ったでしょう? 私は死んだ者たちと会話が出来るのよ」
掃部助の背後に、すうっと浮き上がるように、泣いている女性が突如として現れた。
「話を聞いていたでしょう?」
俯いていた女は顔をゆっくりと上げた。
「こんな男の為に、流す涙なんか勿体ないよ。この人は、最初からあなたに相応しくなかった」
女の泣き腫らした目から、さらに涙が溢れた。
「さっさと成仏して生まれ変わって、あなたに相応しい男を捕まえるべきだよ。せっかく美人なんだから」
「おおおおい、そなたは誰と話しておるんだ?」
掃部助は突如として起こった寒気に、ガタガタ震え始めていた。
「あんたの元婚約者に決まってるじゃない」
茜がそう言うと、掃部助の肩に女の右手が掛けられる。
女は何かを耳元で囁いたようだった。
掃部助は恐怖のあまり失禁した。
「あらあら」
「ゆ、許してくれ……仕方がなかったんだ」
失禁した掃部助に女は幻滅したようで、少し苦笑いをするとそのままスッと天に昇って消えた。
泣き崩れる掃部助を置いて、成仏したようだった。
「彼女の墓を見舞って、ちゃんとお供えをし、許しを請いなさい。そして、命日は毎年必ず墓に行くこと」
「わ、分かった……」
「これにて一件落着〜〜」
茜がそう言うと、背後で見守っていた先生は大きく溜め息を吐いた。
『お前の言う、解決の仕方とはこれか』
「そう。私は人だろうが、死者だろうが、理不尽な真似を受けている者を黙って見てられないんだよ」
『理不尽な真似を受けていたのは、あの女ではなく、掃部属ではないのか?』
「だから、私は掃部属の為に、解決を目指したんだけど?」
茜はそうして、遠巻きに事態を見ていた雑色たちに向かって言った。
「掃部属を呼んできてちょうだい」
暗がりの中、一人の女房がのろのろと起き、枕元の燈台の明かりを頼りに、朝の支度を始めた。
明け方の空気は、秋が深まるにつれ、近頃はかなり冷え込むようになってきた。女房は夜着にくるまりながら、つま先立ちで御帳台に向かって声を掛けた。
「……姫さま、そろそろ」
「……」
「姫さま!」
「……」
(こりゃ、ダメだ……)
ここは内裏の中でも、帝のおわす清涼殿からは最も遠い場所、淑景舎。別名を桐壺と呼ぶ。
つまり、この御帳台の中で眠る姫は、桐壺の女御、茉莉子。先の式部卿宮の姫であられる。
「茜」
小声で呼ばれ、女房の茜は振り向いた。
手燭に照らされた女の顔は相変わらず丸く腫れ、浮腫んでいた。
「プッ」
茜が思わず吹き出すと、笑われた丸顔の女房はムッとした顔をした。
「ちょっと、いい加減にしてよ!」
「だって、朝からパンパンなんだもん。どうせ、昨夜遅くまで飲んでたんでしょ?」
「……ぐっ、中納言さまのお土産のお酒がやたらおいしくて」
「ほどほどにしないと。まだお酒臭いよ?」
「それより、姫さまは?」
「ダメ。まるで起きない」
茜は御帳台を振り返った。
まるで起きてくる様子がない姫は、放っておけば昼まで平気で寝るような人だ。
「もういいんじゃない。寝かせといても」
「御上からも全く顧みられないし……」
「うーん……」
父君の式部卿宮を亡くされ早数年。何の後ろ盾もない姫を、入内させたのは、ただ食いっぱぐれさせない為――
「当初の目的は達成してるし、別にいいかな?」
「あんたねぇ……。入内したからには、上を目指さないと」
「姫さまは別に、そんなこと望んでないし」
茜が仕える姫は、美貌だけなら、他の女御に引けを取らない。しかし、姫を後押しする後ろ盾がない以上、どうしても他の后に一歩、いやそれ以上に劣るのだ。
今をときめく右大臣の娘である弘徽殿の女御は、帝の覚えがめでたく、左大臣の娘である承香殿の女御は、帝の初めての御子である姫が生まれたばかり。
「どなたか有力な方が、姫さまの後ろ盾になって下さるといいんだけど」
「父君の式部卿宮は変わり者で、人付き合いは苦手な感じだったからなぁ……」
茜がそう言うと、丸顔の女房は、不満そうにぼやいた。
「姫さま自身がやる気がないのが一番困るのよ……」
丸顔の女房が、諦めて出て行くと、だだっ広い部屋に、茜は取り残された。
すると、暗がりの中から、突然くぐもった声が響く。
『おい、あの女房、酒は一切やめさせたほうがいいぞ……』
「どうして?」
『……酒乱の霊が憑いてる』
声の方へ手燭を向けると、ぼんやりとした黒い影が浮かび上がった。
『私に明かりを向けてどうする?』
澱んだ黒い影の正体は、何と怨霊だった。
夏に都の骨董市で、無料で貰った硯箱に取り憑いていた。
「あの女房に憑いてる霊ね。一応、あれでも彼女の父親なんだ」
『……ふむ。父ならば致し方あるまい』
「それであんたさ、掃部寮の異変、調べてくれた?」
『あんたとは何だ? あんたとは……』
「あー、はいはい先生、これでいい?」
『……掃部寮の異変はやはり、怨霊の仕業だった』
「やっぱり? で、どうなった?」
『少し睨みを利かせたら消えた』
「それならいいんだけどさ。掃部属が困ってた。褥が、毎度毎度濡れてるって苦情が絶えないって。取り替えようとしたものまで濡れているから」
すると、怨霊が少し間を置いてから言った。
『女の怨霊が、褥の上で泣いていた。だから褥が濡れるんだ』
「どうして泣いてたの?」
『そんなこと、私が知るか』
「そこは聞きなさいよ。理由があるから泣いてるんでしょうが!」
『消えたのならそれで良いではないか? なぜ私がそのような面倒なことを』
しかし、茜はこの怨霊に対して全く怯まなかった。
「あんた、女を泣かせたままにしていいの?」
『ぐっ……』
(毎度褥を濡らすほど泣くなんて、よっぽどだけど)
『……ったく、人使いが荒過ぎる』
そうして、怨霊はその場から煙のように掻き消えた。
茜はそれを見て、軽く溜め息を吐いて、呟いた。
「とりあえず掃部寮の異変が片付いたら、それに見合った報酬は貰わなくちゃ」
怨霊が戻って来たのは昼頃だった。
流石に女御も起きてきて、遅い朝餉を食べた後だった。
「先生! 随分と遅かったじゃない」
突然、宙に現れた黒い影は、その場を揺蕩いながら、不満そうな声を漏らす。
『お前なぁ……』
『あの女、自分の身の上話を延々と続けるんだぞ? どうして私がこんな真似を……』
「そこ、詳しく!」
怨霊の影が少し揺れる。
『どうやら、掃部寮に、あの女の元恋人がいるらしい』
「おお、それで?」
先生の話はこうだった。
泣く女には生前、結婚を約束した男がいた。しかし、他の良家の姫との縁談が上がった途端、男は女を捨てた。泣く女はその後、傷心のあまり病死――男は良家の姫の実家の後押しを得て、出世を果たす。
「で、その元恋人は掃部助あたり?」
『ご名答。よく分かったな』
「そりゃあ、私に恋文を依頼してくる掃部属と愛妻家で有名な掃部頭、そしてまだ独身の掃部允を除外したら、掃部助しかいないもの」
『いやぁ。お前、随分とアホなのにな……』
人を小馬鹿にしたような言い方をする怨霊に向かって、茜は噛み付いた。
「誰がアホですって? ちょっと失礼じゃない?」
そのやり取りを一部始終見ていた桐壺の女御が呟いた。
「茜はアホじゃないわ」
「姫さま……」
「私の為に、色々世話を焼いてくれてるの。茜がいなかったら、私はとっくに飢え死にしてたと思うわ」
そうして、のんびりお茶を飲み始めた。
そんな女御の様子に呆れつつも、怨霊は茜に確認する。
『……おいおい、こいつ仮にも親王家の姫だったんだろう?』
「そうだよ? 亡くなった父君は式部卿宮だもん」
『じゃあお前は? いつからこいつに付いてるんだ?』
「私? 私は小さい頃に茉莉子に拾われたのよ。私はこんな髪色のせいで『鬼子』と呼ばれ、邪険にされていたから」
怨霊は、改めて茜の髪を見る。
普段は魂の色で人の判別をしているので、本当の色を見るに、少し切り替えが必要だった。影の目には陽の気の輝きとしてしか映っていなかった。
見方を切り替え、目をゆっくりと開けた。
真っ先に飛び込んだのは、その髪色だった。
その髪は赤銅色に近く、くるくると巻いていた。陽の光を浴びれば、さらに輝きそうな色をしている。
新緑を思わせる黄緑の袿を羽織り、驚いた様子でこちらを見ている。
「ちょ、ちょっと!!」
茜が腰を抜かしそうな勢いで声を上げた。
「その姿、どうしたの?」
その姿と言われ、怨霊は自分の体を見下ろした。揃った両腕、広げた掌――なんてことはない、人であった頃の姿を象《かたど》っただけ――
『この姿は久しいな。……はて? 私はどうしてこの姿を失っていたのだ?』
そうして首を傾げる様は、どこか愛嬌すらある。
茜は、改めて先生の姿を凝視した。
黒紫の直衣に、腰まで伸びる長い黒髪――
異様とも呼べる退廃的な美がそこにあった。怨霊ゆえか、紅い双眸が煌めく。
「茜、どうしたの?」
こんな風にはっきり顕現しても、茉莉子には全く見えていないようだった。
「怨霊先生が、絶世の美男子の姿になりました……」
「な、何ですって?」
途端に茉莉子の目の色が変わった。
「どんな麗しいお姿なの? あぁ拝見したい!」
「黒っぽい直衣を着てる。髪は黒くて長い。顔立ちは切長の目、うーわ……睫毛長い。鼻筋は通ってて、上唇は薄め」
『……』
「待ってて!」
茉莉子は紙と筆を引っ張り出してくると、物凄い勢いで絵を描き始めた。
サラサラと筆を走らせ、あっという間に人物画を完成させる。
「あっ、いい感じかも」
「あ、そう?」
(『私は見世物じゃないんだが。……いや、なかなか上手いではないか?』)
怨霊は呆れつつも、悪い気はしなかった。
「いいなぁ。茜はそんな麗しい方に守っていただけて」
すると、茜は即座に否定する。
「違うよ。先生は守護霊じゃなくて怨霊だから、本当は呪われてるんだけど。先生! そこの違いがよく分かりません!」
『私は怨念の塊だ。生前、よほど苦しい思いをしたのは間違いない。その硯箱に宿り、その持ち主となったお前に取り憑いたが、普通は三日と持たずに持ち主は死んでいくのに、お前は死ぬどころか、元気そのもの……』
心なしか、茜には先生が落ち込んでいるように見えた。
「呪い、私に効かなくてなんかごめん……」
『いや、呪詛対象者に謝られる方が情けないんだが?』
微妙な空気が一瞬流れる。
「いやぁ、先生が来てから仕事が捗るようになった。むしろめちゃくちゃ助かってる」
『お前の場合、こき使ってるの間違いだろ……』
「ちょっと、助けて貰ってるだけだよ。そういや先生て、生前の記憶ないんだもんね」
『……ない。だから、分からない。私がどこの誰なのか』
「でも直衣を着てらっしゃるなら、貴族なのは間違いないのでは? それにこの硯箱が怨霊さまの持ち物なら、相当な身分の方かと」
茉莉子の言う通りだった。
「あ、それ盲点だったかも」
ふと口に出して、話が逸れていたことを茜は思い出した。
「……っと、その前に忘れてた。このままだと私の仕事が滞ってしまうから、先に掃部寮に行こう」
掃部寮はここ桐壺から見て、西側大内裏にある。
渡殿を通り、茜は内裏側の遊義門を抜けようとした。
陽の光を浴びて、茜の赤みがかった髪が、さらに明るく輝く。
ほぼ出歩かない貴族の子女は、大概色白なのだが、この娘の肌の白さは次元が違った。
(『この娘は、一体何者なのだろう?』)
「その赤い髪は、桐壺の女房か」
「女御さまの言いつけで掃部寮へ行くの」
「そうか。今度、お前にまた文の代筆を頼みたいんだが」
「どんな文?」
「国の母親に、元気にしてると」
「そのくらいお安い御用よ」
門衛は暇らしく、門を通る度にこんな軽いやり取りをする。
門を抜けると、すぐ大内裏の掃部寮などが立ち並ぶ区画に出た。
『掃部助に直接言うのか?』
「その方が早いでしょ?」
適当に、掃部寮の敷地内にいた雑色を捕まえて声を掛けた。
「ちょっと。掃部助殿を呼んできて」
雑色が突然のことに唖然としていると、茜は厳しい口調でせっついた。
「早く!」
「……あっ、はい」
茜の強い口調のせいか、雑色はやや気圧された様子で、慌てて寮内へ入っていった。
『あやつは何も悪いことはしておらぬのに……』
「そんなの知らないわよ。私はさっさと話を進めたいだけ」
『ふむ』
するとまもなく掃部助が駆けつけた。
「これは桐壺の……何の御用でしょうか?」
「あんた、結婚前に捨てた女性がいるでしょう?」
(『こやつ、直接問い質しおった……』)
「不躾にも程がありませぬか? 桐壺の女房殿」
訝しげに、茜を見る掃部助は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「褥が濡れる怪異といえば分かるのかしら? この怪異の原因が、あんたが捨てた元婚約者にあると言ったら、どうするの?」
すると、掃部助の表情がサーッと青ざめた。
「……な、何を根拠に?」
「私の背後にいる人が、全部本人から聞いてきたから」
掃部助は首を伸ばして、茜の背後を見た。
「な、何もおらぬではないか」
「普通の人間には見えないお方なの」
「!」
「出鱈目を……」
「知らない? 私の噂を。『宮中に巣食う赤い鬼子』って……」
茜が目を大きく見開いて、掃部助に詰め寄る。
「ヒィッ!!」
情けない声を上げて、掃部助はじりじりと後退する。
「先生さ、女の人の名前って聞いた?」
『あぁ。確か露と言っていた』
「露って名前に聞き覚えは?」
掃部助は、もう完全に取り乱していた。茜は止めを刺さんとばかりににじり寄る。
「お、お主は何者なんだ? どうしてそこまで知っておる?」
「だから、鬼子だと言ったでしょう? 私は死んだ者たちと会話が出来るのよ」
掃部助の背後に、すうっと浮き上がるように、泣いている女性が突如として現れた。
「話を聞いていたでしょう?」
俯いていた女は顔をゆっくりと上げた。
「こんな男の為に、流す涙なんか勿体ないよ。この人は、最初からあなたに相応しくなかった」
女の泣き腫らした目から、さらに涙が溢れた。
「さっさと成仏して生まれ変わって、あなたに相応しい男を捕まえるべきだよ。せっかく美人なんだから」
「おおおおい、そなたは誰と話しておるんだ?」
掃部助は突如として起こった寒気に、ガタガタ震え始めていた。
「あんたの元婚約者に決まってるじゃない」
茜がそう言うと、掃部助の肩に女の右手が掛けられる。
女は何かを耳元で囁いたようだった。
掃部助は恐怖のあまり失禁した。
「あらあら」
「ゆ、許してくれ……仕方がなかったんだ」
失禁した掃部助に女は幻滅したようで、少し苦笑いをするとそのままスッと天に昇って消えた。
泣き崩れる掃部助を置いて、成仏したようだった。
「彼女の墓を見舞って、ちゃんとお供えをし、許しを請いなさい。そして、命日は毎年必ず墓に行くこと」
「わ、分かった……」
「これにて一件落着〜〜」
茜がそう言うと、背後で見守っていた先生は大きく溜め息を吐いた。
『お前の言う、解決の仕方とはこれか』
「そう。私は人だろうが、死者だろうが、理不尽な真似を受けている者を黙って見てられないんだよ」
『理不尽な真似を受けていたのは、あの女ではなく、掃部属ではないのか?』
「だから、私は掃部属の為に、解決を目指したんだけど?」
茜はそうして、遠巻きに事態を見ていた雑色たちに向かって言った。
「掃部属を呼んできてちょうだい」

