宮中あやかし草紙

都を南北に走る朱雀大路を、少女はひたすら南へ向かって歩いた。

「牛車(ぎっしゃ)を頼んだところで、遅いし酔うし、お金ももったいないし……」

ぶつぶつと呟きながら、少女は笠の垂れ衣(ぎぬ)の隙間から抜けるような青空を仰いだ。

「それにしても暑い……」

汗で着物が肌に張り付く。夏だからといって、重ね着をしない訳にはいかない。

「もっと、簡素な着物にならんのかしら」

「が、頑張るのよ、茜。やっと五条まで来たじゃない」

茜は東市(ひがしのいち)を目指していた。

急に思い立ったわけではなく、夢に後光の差した観音様が現れ、東市(ひがしのいち)に行けと言ったのだ。

観音様にそう言われたら、無視するわけにもいかず、こうして暑いのを我慢しながら、東市(ひがしのいち)へと向かう羽目になったのだ。

かれこれ一時(いっとき)は歩いただろうか。

すでに足は棒のようで、足元の草履は泥と汗に塗れていた。

どうにか東市(ひがしのいち)に到着し、その整然としながらも雑多な雰囲気に圧倒された。

ドンドンと市が開くことを知らせる大太鼓の音が鳴り響き、商人たちの呼び込みの声も、あちこち飛び交っている。

左右どちらを見ても人で溢れ、あらゆる匂いが混ざっていた。魚の生臭さ、獣の匂い、そして人の汗や体臭――

(く、臭い)

路面には牛車(ぎっしゃ)の車輪の跡が残り、牛や馬の糞もそこらに落ちている。

背中に荷を担いだ雑色(ぞうしき)たちは、それらをものともせず、活力みなぎる足取りで人混みをすり抜けていく。

「み、水……喉が渇いた」

茜は角地で水物露店を見つけると、真っ先に冷やし水を買った。

「ふーっ、生き返る……あ、おじさん、冷やし瓜もちょうだい」

井戸水でキンキンに冷やした瓜をシャクシャク食べていると、ただならぬ気配を感じた。

「……ん?」

直感的にあまり良くないものだと思ったが、どうしても気になってそちらへ足を向ける。

市の最奥の区画には、古物が多く並んでいた。

地べたに筵(むしろ)を広げ、怪しい雰囲気の男たちが怪しげな品を売っていた。

その一角に、顔に大きく傷のある店主がいた。欠けた壺や古い調度品に紛れ、螺鈿(らでん)の凝った造りの硯箱(すずりばこ)が置かれていた。

どんよりと重く暗い気配が濃くなり、茜はその硯箱(すずりばこ)に引き寄せられた。

「その硯箱(すずりばこ)を見せて」

「これは曰(いわく)く付きだよ。物は良いが……」

店主の歯切れが悪い言い方にも、茜は迷わなかった。

硯箱(すずりばこ)を手に取って蓋を開けた瞬間――

何かが解き放たれたのが分かった。

晴天だった空が、突如として黒い雲に覆われ、辺りは一気に暗くなる。

そして気温が、急激に下がっていく――

硯箱(すずりばこ)から解き放たれた黒く蠢(うごめ)く影は、角地の日陰をさらに暗く澱(よど)ませた。

周りの店主たちは、ただならぬ気配に慌てて筵(むしろ)を片付け始めた。

「あらま」

蓋を開けた張本人の茜は、全く動じずに硯箱(すずりばこ)の品定めを続けた。

唐の端渓(たんけい)産と思われる極上の硯(すずり)をはじめ、墨や筆なども揃っていた。

「これ、とんでもない極上品じゃない!」

「確かに極上品なんだよ。でもそいつは悪いことは言わねぇ。やめといた方が……」

店主は寒さにガタガタと震えている。

「何で? 呪われてるから?」

「野暮(やぼ)なことを聞きなさんな」

「……決めた。これ、貰うわ。いくら?」

「お代なんか要らないよ、持ってけよ」

店主はそう言うと、そそくさと店の片付けを始めた。

(まさか観音様のお導きって、これのことなのかなぁ?)

自分の背後に集まった影に向かって、茜は声を掛けた。

「で、どんな無念があって、この世に残ってんの?」

『……!』

「あ、話せます? 話ができないと、ちょっと困るんだけど」

『わ、私は……』

蠢(うごめ)く黒い影から、低く、くぐもった声がした。

「あっ、男の人なんだ」

『その硯箱(すずりばこ)は私の物だ』

「でしょうね。これに取り憑いてたんだから」

硯箱(すずりばこ)を大事そうに抱える娘に、怨霊は怪訝(けげん)そうに尋ねた。

『お前は一体何なのだ?』

「私が先にあんたに聞いてるんだけど?」

『私は……私は誰なんだ? 思い出せない』

黒い影が大きく揺らめき、動揺を隠せない。

「ちょ、ちょっと、もしかして記憶喪失なの?」

「生前、どんな悔しさや無念を抱えて死んだのかも覚えてない?」

『……覚えてない』

「じゃ、どこの誰なのかも分からないんだ……」

『そもそも怨霊になった時点で、そんなこと普通は気にしないだろう?……』

「確かに?」

ぽつぽつと雨が降り出し、たちまち土砂降りになった。

「ちょっと! これどうにかならないの?」

雨音に負けじと叫ぶように文句を言うと、怨霊が小さく呟いた。

『……雨など』

すると徐々に雨足が弱まり、やがて雨は上がって、再び青空が広がった。

「すごい、すごい、すごーい!!」

茜はその場で飛び跳ねて喜び、黒い影に向かって尋ねた。

「あんたがやったんでしょ?」

『私の水の気に引き寄せられた雨雲だ。散らすことなど造作もない』

「先生、先生と呼ばせていただきます!」

『……は?』

「名前、思い出せないんでしょ? 雨雲(あまぐも)の大王とかの呼び名の方がいい?」

『……先生でよい』

「それじゃ先生、局(つぼね)に戻るよ」

『局(つぼね)? お前は内裏(だいり)の女房(にょうぼう)なのか?』

茜は壺装束(つぼしょうぞく)を見せつけるように、その場でくるりと回って言った。

「そうだよ。私は桐壺の女御(にょうご)さまに仕えてる、茜よ。これから、よろしくね!」

『怨霊によろしくとかいう人間は初めてなんだが……』

「ハハハ、そういう物の怪に抵抗がないというか、身近な存在だったというか……」

濡れた市女笠を外すと、日の光を受けて赤銅色の髪が輝いた。

その輝きを目にし、黒い影は今の己の状況を理解した。

『お前から溢れ出る尋常ではない気は、紛れもなく陽の気』

きょとんとする茜に、先生は静かな口調で告げた。

『お前の傍なれば、我らのような陰の気の塊である怨霊も、負の感情に支配されることはないということか……』

「そういえば、先生の傍って涼しいね」

『……全く。稀有(けう)な娘だな』

そうして再び市女笠を被ると、娘は足取りも軽やかに歩き出す。

その影は、夏の京の大路に、より深い影を落としていった。