花の御所で、あなたを知りなおす



 澄江は、数日の養生のあと、退宮の支度を再開した。衣を畳み、箱に詰め、母への土産に干した薬草を選ぶ。
 その傍らで、朱音姫はもう席を立たなかった。新しく付く世話役の女房と、自分から言葉を交わしている。ぎこちない挨拶と、少しの笑い。
 離れていく人を、引き留めるのではなく。離れても、続いていく糸を結んでいく。姫は、そのやり方を、選びはじめていた。

「小夜殿」

 見送りの支度が整った日の夕暮れ、澄江が私を呼び止めた。

「あの夢の中で、あなたのお声が聞こえたような気がするのです。『今の姫さまが、お話ししたがっておいでです』と」
「……聞こえて、いましたか」
「ええ。おかげで、ちゃんと、お別れが言えました」

 澄江は、深々と頭を下げた。その手には、朱音姫から贈られた小さな守り袋が、握られていた。



  ***


 怪異が鎮まってから、私と千景の仕事には、少しずつ変化が生まれた。


「小夜殿、少し、いいですか」

 朝の結界の間で、千景が文机から顔を上げる。以前なら、考えをすっかりまとめてからでなければ口にしなかった人が、まだ形になっていない迷いを、そのまま私に差し出してくれる。

「この札の配置なのですが、東の廊下側が、まだ心許なくて。うまく言えないのですが」
「感じを、教えてください。結論じゃなくていいです」
「……空気が、薄い、というか。人の気配が、通り抜けていく気がして」
「見てみましょう」

 私が廊下の壁に手をかざし、感じたことを伝える。千景が、それを元に札を打ち直す。互いの手が、自然に噛み合う。私のほうも、変わった。困ったとき、一人で抱えこまなくなった。古い文書の読みで行き詰まれば、千景に尋ねる。感応で疲れた夜は、「少し休みます」と言える。千景は、それを聞いて、黙って白湯を差し出してくれる。

 任せることが、頼ることが、当たり前になっていく。

 ――それなのに。

 二人きりになると、前よりかえって、言葉を選んでしまう。仕事の話をしているうちはいい。けれど、話が途切れた拍子に、ふっと静かな間が落ちる。その間が、昔の沈黙とは、まるで違うものだった。胸がそわそわして、目のやり場に困る。千景のほうも、同じらしい。

 ときどき、何か言いかけて、やめる。
 その左手が、袖口を、つまんでは離している。



 ある夜、記録を整理し終えて、二人きりの結界の間に、灯りの音だけが残った。


「千景殿」
「はい」

 
 私は、ずっと胸にしまっていた問いを、静かに置いた。

「あの救出の夜。……怖かったですか」

 千景は、筆を止めた。しばらくして、彼は、小さく息を吐いた。

「怖かった」

 取り繕う様子は、少しもなかった。

「あなたの意識が、夢の奥へ沈んでいくのが、綱を通して分かりました。名前を呼んでも、返事がなくて、あの数瞬が、とても長かった。手が、震えました」
「……知っています。目覚めたとき、気づきました」
「見られて、いましたか」

 千景は、少しだけ苦笑した。頼もしい上司の顔ではなく、年相応の、どこか心許ない青年の顔だった。私は、膝の上で指を組んだ。

「私も、怖かったです」
「……そう、ですか」
「夢の中で、昔の千景に、袖をつかまれて。あのまま、そこにいてしまいたい気持ちが、本当に、ありました」

 千景が、息を呑む。

「でも、あなたの声が聞こえました。名前を、呼んでくださったでしょう。それで、帰れる、と思ったのです。この声のほうへ行けば、必ず、帰れる、と」

 言葉にしながら、胸の奥が熱くなった。

「だから、頼もしいところばかり、見せようとしなくても、いいのですよ。怖かったと言ってくださって、私は、嬉しかったです」

 千景は、しばらく何も言わなかった。やがて、ほっと肩の力を抜くのが分かった。

「……よかった」

 低く落ちた声に、深い安堵が滲んでいた。

「頼りない姿を見せたら、あなたに、幻滅されるのではと、思っていたので」
「しませんよ」
「……ええ。今、分かりました」

 千景が、柔らかく笑った。昔の少年の面影が、その笑顔の奥で、ふわりと揺れた。


「では、今夜は、これで」

 私が立ち上がって、戸のほうへ歩き出したとき、背中に声がかかった。

「小夜」

 足が、止まる。呼び捨てだった。あの救出の夜以来、仕事の場では、一度も呼ばれていない名前。振り返ると、千景は、文机の前から立ち上がっていた。その右手が、何かを求めるように、私の袖のほうへ伸びかけて、途中で止まった。
昔、彼が不安なとき、必ず私の袖をつかんでいた手だった。

 千景は、その手を見下ろして、ゆっくりと握りしめた。そして、改めて、私の目を見る。

「再会の挨拶を、まだ、していませんでした」
「……え」
「あのとき、『後ほど』と言ったきり、ずっと、言いそびれていました」

 彼は、ひとつ、深く息を吸った。

「お久しぶりです、小夜。……おかえりなさい」

 胸の奥が、きゅっと鳴った。八年。長い、長い時間のあと、ようやく届いた、挨拶だった。

「……ただいま、千景」

 声が、少し、震えた。千景は、柔らかく目を細めた。

「それと、もうひとつ、お尋ねしたいことが」
「はい」
「次の、非番の日の予定は、おありですか」

 予想外の問いに、私は瞬いた。

「非番……ですか。特には、ありませんが。何か、御用が?」

 千景は、少し、視線をさまよわせた。耳の端が、はっきりと赤い。けれど、今夜は、そらさなかった。

「用は、ありません」
「え?」
「用がなくても、あなたに、会いたいのです」
 
 時間が、止まった。灯りの揺れる音だけが、静かな部屋に響いている。

「再会してから、ずっと、考えていました。昔のあなたに、また会えたことが、嬉しいのだと、最初は思っていました。けれど、違った」

 千景は、言葉を探しながら、一つずつ、ゆっくりと続けた。

「知らなかったあなたを、知っていくことが、嬉しい。書付を整えるときの、真剣な顔や、困ったときに、唇を噛む癖や。……そういう、昔のあなたの中になかったものを、見つけるたびに、もっと知りたくなる」

 胸が、いっぱいになった。

「これからも、もっと、知りたいのです。仕事の合間ではなく、仕事を離れて、あなたのことを」

 私は、何か言おうとして、うまく言葉にならず、一度、唇を結んだ。昔の私が、どれほど、彼のことを知っているつもりでいたか。あの頃の千景は、ただ、手を引かれるだけの少年ではなかったのかもしれない。見えていなかったものが、たくさんあったのかもしれない。そして今、同じように。私も、知らない彼を、知っていくことが、嬉しかった。

「……私も、です」

 声は小さかったけれど、まっすぐに届いたはずだった。

「私も、同じ気持ちです。知らない千景を、知っていくのが、嬉しくて。もっと、知りたいです」

 千景の顔が、ゆっくりと、ほころんでいく。

「……そう、ですか」
「はい」
「では、次の、非番の日に」
「はい。ぜひ」

 小さく頷き合って、私たちは、しばらく、そのまま、向かい合っていた。何も言わなくても、何も、足りなくなかった。


  ***

 
 翌日の昼下がり、御所の門の前に、先に着いたのは千景だった。普段の直衣ではなく、淡い色の水干。いつもきちんと整えている髪が、少しだけ、風にほつれている。何度も、袖口を気にして、触れては離している。私は、物陰から、そっとその姿を見つめた。仕事ではない、初めての待ち合わせ。

 心臓が、うるさいほど鳴っている。けれど、不思議と、足は迷わなかった。

「お待たせしました」

 声をかけると、千景は、弾かれたように振り向いた。

「いえ、今、来たところです」

 嘘が下手な人だ。袖が、またしわになっている。

「……その、何を、召し上がりたいですか」

 千景は、少し緊張した面持ちで、私を見た。

「市に、いくつか、評判の店があると聞いて。あなたの好きなもので、いいので」

 私は、思わず、笑ってしまった。

「千景。昔は、私が、あなたに、何を食べさせようかと、毎日考えていたのですよ」
「……そうでした」
「食事を、すぐ忘れる子でしたから」
「それは、もう」

 千景も、照れたように笑った。あの頃、私たちは、食事を忘れる彼の世話をする、姉と弟のようだった。今日は、ただ、一緒に食事を楽しむために、会っている。そんな小さな違いが、胸に、じんわりと沁みた。

「では、千景のおすすめを、教えてください」
「私の、ですか」
「はい。あなたの好きなものを、知りたいので」

 千景は一瞬、目を見開いてから、ふわりと笑った。

「……こちらです」

 歩き出した彼の隣へ、私は、自然に並んだ。昔は、私が前を歩いて、彼が後ろをついてきた。後ろから、私が、彼を見ていた。
けれど今日は、同じ高さで、同じ歩幅で、並んで歩いている。千景の歩幅は、さりげなく、私に合わせられていた。袖と袖が、触れそうで、触れない。その距離が、くすぐったくて、愛おしい。秋の風が、花の御所の長い築地塀を、さらさらと渡っていく。私は、隣を歩く人の横顔を、そっと見上げた。

 知っているところも、知らないところも、これから少しずつ知りなおしていこう。昔へ戻るのではなく、今のあなたと、新しく。

 二人は、新しい一日を、歩き始めた。



         終