花の御所で、あなたを知りなおす



 翌朝、私は重い足取りで結界の間へ向かった。戸の前で、一度、息を整える。謝るべきなのか、もう一度主張するべきなのか、夜通し考えても、答えは出なかった。

「入ってください」

 声をかける前に、中から千景の声がした。文机の前に、彼がいた。目の下に影が落ちている。やはり、一睡もしていないのだ。机の上には、細かな文字と図で埋めつくされた紙が、何枚も広げられていた。

「小夜殿。先に、言わせてください」

 千景は、私の前で背筋を伸ばした。

「昨日、私はあなたの案を退けました。危険だから、と言って。……けれど、本当の理由は、それではありませんでした」

 私は、息を止めた。

「不安だったのです。あなたに何かあったらと考えると、他のことが、何も見えなくなった。それを、あなたの力量の問題にすり替えました」

 千景は、そこで深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」
「千景殿、顔を上げてください」
「いえ。昨夜、あなたの書付を、何度も読み返しました。危険の見積もりも、合図の取り決めも、撤退の条件も、すべて書いてある。あなたは、無謀に飛び込もうとしているわけではなかった。任せるに足る根拠は、全部、そろっていた」
 
 声が、少しだけ掠れていた。

「それを認められなかったのは、私の側の問題です」

 胸の奥で、固く結ばれていたものが、ゆっくりほどけていく。

「……私も、です」

 気づけば、私も頭を下げていた。

「認めてほしい気持ちが先に立って、千景殿が何を案じておられるのか、聞こうとしませんでした。昨日は、言い方も、きつかったと思います」
「いえ、あれは、当然の怒りです」
「それでも、です」

 顔を上げると、千景と目が合った。どちらからともなく、少しだけ笑った。固くなっていた空気が、ふわりと緩む。

「それで」

 千景が、机の上の紙を、私のほうへ押しやった。

「夜のうちに、補助の術式を組みました。あなたの感応が、一定の深さを超えたときに、自動で引き戻す綱をかける。もちろん、あなたの計画を前提にした、補助に過ぎません。……ご意見を、聞かせてもらえませんか。あなたの案を、より安全に実行するために」

 私は紙を手に取った。複雑な図の中に、細い線が一本、私の名を示す印から、千景の印へ、まっすぐ伸びている。

「……引き戻すのは、六割のところで」

「えぇ。ただ、あなたの合図が優先です。あなたが続けると言えば、私は続けさせる。止めるのは、あなた自身が危ういと判断したときと、六割を超えたときだけ」
「七割に、できますか。結び目の見分けに、深さが必要になる場面があります」
「……六割五分、では」
「それなら」

 私が頷くと、千景も頷いた。互いの意見を確かめながら、手順を一つひとつ、紙の上へ書き足していく。私の筆と、彼の筆が、同じ紙の上で交わった。昔、算木の問題を二人で解いたときも、こんなふうに、頭を寄せ合ったのだった。あのときと違うのは、隣にいる人が、私と同じ高さで、同じ責任を持ってくれていることだった。



 夕刻、朱音姫が結界の間に現れた。

「私にも、できることを、手伝わせてください」

 姫は、昨日とは違う、まっすぐな目をしていた。澄江の寝所の隣に座り、あの桃色の小袖を膝の上に置く。私が小袖に手を添え、千景が結界を張る。

「姫さまは、澄江殿に、今のお気持ちを、そのまま話しかけてください。私が、声を届けます」
「……分かりました」
「では、始めます」

 私は目を閉じ、小袖に指を沈めた。背後で、千景の術が、静かに立ち上がる。腰のあたりに、細い綱が結ばれる感覚。これが、あの人の、夜通しの答えなのだと思うと、不思議と怖くなかった。そして、世界が反転した。




 淡い光に満ちた、小さな部屋だった。縁側から日が差し込み、畳の上に、幼い子が座っている。その子の髪を、若い頃の澄江が、丁寧に梳いていた。

「姫さま、じっとしていてくださいね」
「いやー」
「ふふ、しょうがないお方」

 同じ光景が、何度も繰り返されている。髪を梳き、笑い、また梳き、また笑う。澄江の顔には、一点の曇りもない。

 ――ここに、閉じ込められていたのね。

 私は、澄江の傍へ近づき、そっと呼びかけた。

「澄江殿。今の朱音姫さまが、お話ししたがっておいでです」

 澄江は、私を見なかった。梳く手が止まらない。

「澄江殿」

 もう一歩、近づこうとしたとき、足元の畳が、ふっとたわんだ。部屋の景色が揺れる。縁側の光が、少しずつ色を変える。そこに、見覚えのある、山の社の庭が重なった。

 ――私の、記憶。

 怪異が、私の中の思い出を、掬い上げているのだ。気づいたときには、もう遅かった。縁側の端に、小さな男の子が座っていた。
 八年前の、千景だった。痩せた肩、大きすぎる着物、そして、泣き腫らした目をしている。

「……小夜」

 少年が立ち上がり、よろよろと私に駆け寄ってきた。そして、私の袖を、ぎゅっとつかんだ。

「行かないで」

 袖の端が、小さな手の中で、しわになる。胸が、きゅうっと痛んだ。懐かしい。この小さな手のひらが、必要としてくれた温もり。私がいなければ、この子は生きていけない、と思えた日々の、甘やかな重み。

 ――このままここにいたら。

 昔のままの千景を、ずっと守っていられる。誰にも置いていかれない。必要とされ続ける。そんな囁きが、胸の奥で、柔らかく広がっていく。私は少年の頭に、手を伸ばしかけた。そのとき、ふと、思った。

 ――でも、この子は、昨日、私を信じてくれた千景では、ない。

 昨夜、紙が擦り切れるほど私の書付を読み返した人。不安を抱えたまま、それでも「任せます」と言ってくれた人。腰に結ばれた綱の、その先にいる人。今の千景は、私を引き留めなかった。怖くてたまらなかったはずなのに、送り出してくれた。私は、少年の手を、そっと袖から外した。

「ごめんね」

 少年が、不思議そうに私を見上げる。

「私は、今の千景に、会いに戻るの」

 少年の姿が、光の粒になって、ほどけていく。その瞬間、遠くから、声が届いた。

「小夜!」

 腰の綱が、ぐん、と引かれる。違う。引かれたのではない。呼ばれたのだ。私が、自分の足で戻れるように。私は、その声のほうへ、意識を結び直した。
 景色が定まる。梳き櫛の音。縁側の光。笑う澄江。そして、その目の前に、いつの間にか、光の道が一本、伸びていた。私が作った道を、小さな声が、駆けてくる。

「澄江」

 朱音姫の声だった。澄江の手が、止まった。


  
「姫さま……? いえ、姫さまは、ここに」

 梳いていた幼い姫の姿が、ふっと薄れる。代わりに、光の道の向こうから、十四の姫が、小袖を抱いて現れた。

「澄江。私よ。朱音よ」
「……姫さま。こんなに、大きくなられて」

 澄江の目が、潤んだ。

「あのね、私、ずっと言えなかったの。澄江がいなくなるのが、怖かった。捨てられるんだって、思ってた」
「捨てるなんて、そんな」
「うん。違うの、分かってる。本当は、ただ、寂しかっただけ。離れるのが、寂しかっただけなの」

 姫の頬を、涙が伝っていく。澄江は、少し迷ってから、そっと姫の手を取った。

「私も、お伝えしなければいけませんでした。姫さまを、心から大切に思っています。これまでも、これからも。……けれど、故郷で、自分の務めを持ちたいという願いも、私の中には、あるのです。小さな薬草畑を、母と守っていきたい」
「……うん」
「どちらかを選んだわけでは、ないのです。両方、私の本当の気持ちです」

 姫は、しばらく黙って、それから、小さく笑った。

「手紙、書いてもいい?」
「もちろんです。毎月、お待ちしております」
「澄江も、返事、書いてね」
「ええ、きっと」

 約束が結ばれた瞬間、部屋の空気が、ほどけた。固く絡まっていた思いの結び目が、一筋ずつ緩んでいく。私にはそれが、手に取るように見えた。幼い日の願いと、今の気持ち。ふたつの糸が、あるべき場所へ解けていく。

 ――ここ。

 私は、結び目の位置を、はっきりと掴んだ。腰の綱を通じて、千景へ、その位置を伝える。

 ――千景殿。今です。

 返事は、言葉ではなかった。ただ、綱の向こうで、あの人が静かに頷く気配がした。私は感応を、手放した。最後を、あの人に託して。


  
 目を開けたとき、最初に見えたのは、結界の間の天井ではなく、千景の顔だった。

「……小夜」

 呼び捨てだった。私は、自分の手が、何かを握っていることに気づいた。大きな、あたたかい手。千景の手だった。いつからか、強く、強く握り返していた。


「……澄江殿は」
「目を覚まされました。記憶も、損なわれていません。朱音姫と、手を取り合って、泣いておられます」
「よかった……」

 安堵で、全身の力が抜けた。千景は、私の顔を、じっと見つめていた。まるで、確かに生きていると、確かめるように。やがて、彼は、静かに私の手を離した。

「無事で、何よりです。しばらく、休んでください」

 いつもの、落ち着いた上司の声だった。けれど、離れていく指が、小さく、震えていた。私は、それを見逃さなかった。冷静な顔の奥に、押し込めた何かがある。仕事の責任だけでは、説明のつかない何かが。

 手のひらに、まだ、彼の体温が残っている。私は、その手をそっと胸に当てて、目を閉じた。この人は、私を、どう思っているのだろう。

 そして、私は、この人のことを……