朱音姫が結界の間を訪ねてきたのは、卯の刻を少し過ぎた頃だった。侍女も連れず、袖をきつく握りしめて、戸口に立っている。千景が立ち上がり、私は急いで円座を勧めた。
「……澄江は、どうなりましたか」
「眠りは、まだ深いままです。ですが、原因の手がかりは見えてきました」
千景が答えると、姫は唇を噛んで、うつむいた。しばらく、誰も口を開かなかった。
「あの小袖」
小さな声だった。
「衣庫の、桃色の。……あれ、私が、持ち出したんです」
私は千景と目を見合わせた。千景は静かに頷いて、先を促す。
「澄江が、衣を整理している夜でした。箱の底から、あの小袖が出てきて。『姫さまが三つの頃のものですよ』って、澄江が笑って。……故郷へ帰る支度なんだって、そのとき初めて、はっきり分かりました」
姫の指が、袖の布をよじる。
「澄江が眠ったあと、こっそり衣庫へ行って、あの小袖を抱いたんです。そして、願いました。昔みたいに、ずっとそばにいてほしいって」
部屋の空気が、ひやりと沈んだ。
「澄江は、故郷へ帰って、自分の暮らしをしたいって、嬉しそうに話すんです。それを聞くたびに、私は、……私はもう、澄江に要らないんだって」
声が、そこで途切れた。
「違う、と言えたら、よかったのに」
私は、思わず姫の肩へ手を伸ばしかけて、やめた。代わりに、言葉を選んだ。
「姫さまは、澄江殿を、とても大切に思っていらしたのですね」
「……うん」
小さな、小さな頷きだった。姫が部屋を出ていったあと、千景が静かに言った。
「小袖に残る幼い日の記憶と、姫の願いが結びついたのでしょう。その結びつきが、澄江殿の意識を、過去へ閉じ込めている」
「眠りが深くなるほど、近い記憶から順に失われていくのも、そのせいですね。意識が、小袖の時間へ、引き戻されているから」
「えぇ」
私は、息を吸った。ここまで来たら、言わなくてはいけない。
「千景殿。私に、道を作らせてください」
千景の眉が、わずかに動いた。
***
私は昨夜のうちに書いておいた書付を、千景の前へ広げた。
「小袖を通じて、私が澄江殿の意識へ入ります。そこで、今の姫さまの声を届ける道を作ります。姫さまと澄江殿が、今の言葉で話せるように」
「その間、あなたは感応を保ったままに」
「はい。思いの結び目は、私が見分けます。結び目が緩んだところで、千景殿に術を断っていただければ、記憶を損なわずに、澄江殿をお救いできるはずです」
千景は、書付に目を落としたまま、黙っていた。沈黙のあとで、彼は静かに言った。
「危険です」
「承知しています。感応する私自身も、夢に取り込まれるおそれがある」
「分かっているなら、なぜ」
「他に、方法がないからです」
「あります。私が、結界の側から」
「結界の術では、結び目の向きは分かりません。人の気持ちの、細かいところを読み分けられるのは、私の力です」
千景が顔を上げた。その視線が、まっすぐ私を貫く。
「……別の方法を、探します」
「探している間に、澄江殿の記憶は、日ごとに失われます」
「それでも、です」
「千景殿」
「あなたに、何かあったら――」
言葉が、そこで切れた。彼は唇を結び、視線をそらした。その左手が、また袖口を強くつまんでいる。あなたに何かあったら、困る。上司として。仕事の責任として。
そう続くのだと、私は思った。思おうとした。
「……代案を、探します。それまで、待ってください」
胸の中で、何かがすとんと落ちた。
八年……八年かけて、私は私なりに、力をつけてきた。
読み分ける目を磨いて、手順を書く習慣をつけて、危険の見極めも覚えた。昨日の書付も、一昨日の報告も、彼は認めてくれたはずだった。
それでも、まだ、この人にとって私は、危なっかしくて、手を引いておかなければいけない相手のままなのだ。
「……どれだけ仕事を重ねても、信用して、いただけないのですね」
声が、思ったより小さく出た。
「そういうことでは」
「今の私を、見てください」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「昔の、小夜じゃなくて。今の私を見て、判断してください」
千景は何も言わなかった。ただ、袖口をつまむ指先が、白くなっていた。沈黙が耳に刺さる。私は書付を畳んで立ち上がった。
「失礼します」
戸を閉めるとき、彼が何か言おうとしたのが、気配で分かった。けれど私は、振り返らなかった。
局へ戻っても、何も手につかなかった。火桶の炭が、ぱちぱちと小さな音を立てている。誰が起こしてくれたのかも、今日は考えたくなかった。私はもう一度、書付を広げた。小袖へ触れる手順、感応の深さの目安に千景への合図の取り決めて引き返す条件。
危険を感じたら、どの段階で何を捨てて撤退するか。私は、自分の力の限りを、紙一枚に込めたつもりだった。それでも、あの人には、無謀な飛び込みに見えたのだろうか。
悔しい。腹も立つ。けれど、それと同じくらい悲しかった。昔、私の背中を追いかけて、泣きそうな顔で「待って」と言っていた少年が、今は私を、待たせる側にいる。置いていかれたような寂しさに、私は膝を抱えた。結局、眠れないまま、夜が更けた。厠へ立った帰り、渡殿の先に、ぽつりと明かりが見えた。
結界の間だった。障子に、人影が映っている。文机に向かって、じっと何かを読んでいる。その影が、ふと、右の袖口へ手を伸ばした。私は、足を止めた。
一枚の紙を、何度も、何度も読み返しているらしい。影は、動かない。ときどき、袖をつまんで、離して、またつまむ。
声をかけようか、と思った。けれど、昼間のことを思うと、足が前へ出なかった。
私はそっと踵を返し、局へ戻った。明かりは、夜が明けるまで、消えなかった。



