花の御所で、あなたを知りなおす



 その日の昼、女房たちのあいだで小さな騒ぎがあった。
 目覚めた澄江が自分の部屋を見回して、「私は、いつ御所へ上がったのでしたか」と尋ねたのだという。

 入内した年はおろか二、三年前の出来事まで、ごっそり抜け落ちていた。

「時間がありません」

 結界の間で、千景が言った。声はいつもどおり静かだけれど、文机に置かれた指先が白い。

「今夜、寝所と衣庫を続けて調べます。結界は私が張る。あなたは感応の状態を、そのつど報告してください。少しでも深く入りそうなら、その場で言うこと。いいですね」
「はい。……共同で、ということですね」
「ええ。昨日のあなたの書付を読んで、そのほうが確実だと判断しました」


 私は小さく頷いた。禁じられるのではなく、手順を分け合う。それだけのことが、胸に沁みた。


  
 そして寝所に入ると、千景が短い言葉を唱えて畳の四隅に札を置いた。空気が張りつめ、薄い膜のような結界が私と澄江をふわりと包む。

「どうですか」
「今は、何も。……膝をつきます。触れても?」
「どうぞ。何かあれば、すぐに」

 枕元の布に指先を置くと、昨夜と同じ温もりが流れ込んだ。けれど今夜は、千景の結界が背中を支えているのが分かる。深く落ちすぎないよう、綱をつけてもらっているような感覚だった。

「幼い子の笑い声。昨日と同じです。それから、干した布の匂い。深さは、一割ほど」
「了解。そのまま」

 声が、すぐ後ろにある。それだけで、足元が確かになった。寝所では、新しい手がかりは出なかった。私たちは衣庫へ移ると、衣庫は、古い衣の匂いが何層にも積もった場所だった。

 澄江が整理した衣類が、箱ごとに並んでいる。千景が結界を張り直し、私は一箱ずつ、蓋に手をかざして気配を探っていった。


「ここは何も。……これも違います。……あ」

 奥の箱で、手が止まった。

「強い気配があります。この中の、小さな着物です」

 開けてみると、淡い桃色の小袖が出てきた。幼い子の背丈にあつらえたもので、袖口に小さな花の刺繍がある。裏地に【あかね】と縫い取りがあった。

「朱音姫の、幼い頃のものですね」
「ええ。触れます。深さは、報告します」
「待ってください」

 千景が、私の肩に手を置いた。

「今度は、先に合図を決めておきましょう。私が名前を呼んだら、すぐに離す。約束してください」
「……はい」

 手を置かれた肩が、ほんのり熱を持った。私はそれに気づかないふりをして、小袖へ指を伸ばした。触れた瞬間、世界が変わった。
温かい腕の中だった。胸に顔を埋めると、お日さまの匂いがする。眠くてまぶたが重くて……でも、この人の腕から出たくなくて、小さな手で襟をぎゅっと握りしめている。

 ――ずっと、そばにいてね。
 幼い声が、胸の奥で震えた。安心と、同じだけの怯え。この腕がいつか離れていくかもしれないという、言葉にならない予感。

「深さ、三割……四割……」

 自分の声が、遠くに聞こえる。行かないで。置いていかないで。お願い、まだ……。

「小夜!」

 名前が、世界を引き裂いた。視界が戻る。床に膝をついた私を、千景が両腕で抱えていた。

「……大丈夫、です。切ってくださったので」
「立てますか」
「はい」
 
 だが立とうとして、脚に力が入らなかった。ぐらりと傾いた体を、千景の腕が受け止める。

「失礼」

 短くそう言って、彼は私の腕を自分の肩に回し、ゆっくり歩き出した。感覚が乱れて、床がやわらかく揺れているようだった。足を出すたび、千景の歩幅がそっと私に合わせられる。速すぎず、遅すぎず。昔は、手を引いていたのは私だった。山道で転んだ彼を起こして、背中を叩いて、先に立って歩いた。今は、私が引かれている。腕に添えられた手は、大きくて、あたたかくて、少しも揺らがなかった。

「……さっき、小夜、と」

 歩きながら、口が勝手に動いていた。

「呼びました。緊急でしたので」
「そう、ですか」
「……不快でしたか」
「いえ」

 それきり、どちらも黙った。局へ向かう廊下が、いつもより短い気がした。

  
 回復するまで、結界の間で休ませてもらった。白湯を飲んで、目を閉じて、しばらくして目を開けたとき、千景が文机の前で、ほんのわずかに肩を落としていることに気づいた。

「千景殿」
「はい」
「お疲れ、ですよね」
「……いえ、問題ありません」
「ありますよね」

 嘘が下手になった人だ、と思った。昔から、強がるときは視線が左へ流れる。今もそうだった。休んでください、と言いかけて、口を閉じた。一方的に命じても、この人は聞かない。昔から、そうだった。

「記録は、私がつけます。今夜の調査をまとめるだけです。だから、少し座って、目を閉じていただけませんか」

 千景は、驚いたようにこちらを見た。迷うように指が袖口へ伸び、止まり、また伸びる。

「……任せて、いいのですか」
「はい。私の、仕事ですから」

 長い間があった。それから彼は、書きかけの帳面をそっと私の前へ滑らせた。

「お願いします。……明朝は、卯の刻に、ここで」

 帳面を受け取りながら、私は気づいた。千景は、何でも一人でできる人になったのではない。一人で引き受けることに、慣れてしまっただけなのだ。八年のあいだ、誰も彼の肩から荷を預かってやらなかったのだろう。
筆を走らせる私の隣で、千景は目を閉じて、静かに座っていた。灯りが彼の睫毛に影を落として、揺れていた。

  
 記録が終わる頃、千景がふと袖を見て「あ」と声を上げた。

「ほつれていますね」

 見れば、直衣の右袖の縫い目が、指の幅ほど裂けていた。札を張るとき、どこかに引っかけたのだろう。

「貸してください。繕います」
「いえ、そこまでは」
「すぐ終わります。針は、持っていますから」

 私が手を差し出すと、千景は渋々、腕を出した。昔と同じ要領で、彼の肘を片手で支え、もう片方の手で針を運ぶ。けれど、昔と何かが違った。

 支えている腕が、重い。
 大きくて硬くて、体温がまっすぐ掌へ届く。子どもだった頃は、ちょうど私の掌に収まった腕が今は手を回しても余ってしまう。
 
 針先がぶれた。慌てて持ち直すと、顔を上げた拍子に、千景の顔がすぐ近くにあった。近い。息がかかるほど、というわけではないけれど、近い。昔なら何でもなかった距離が、急に息苦しい。

「……すみません、動かないで」
「動いて、いません」

 声が、少し掠れていた。私は急いで糸を留め、鋏で切った。切ったとたん、手を離すきっかけが分からなくなって、結局、肘をそっと放した。

「できました」
「……ありがとうございます」

 千景は袖口を見下ろしたまま、いつものように言葉を続けなかった。私も、何も出てこない。沈黙が耳に痛くて、私は立ち上がった。

「では、今夜はこれで失礼します。お休みください」
「はい。……ああ、小夜殿」
「はい?」

 呼び止められて振り返ると、千景は、何かを探すように視線をさまよわせていた。

「……明日の、朝の刻限なのですが」
「卯の刻に、こちらで、と。先ほど」
「そう、でしたね」
「はい」
「……そうでした」

 千景は、小さく頷いた。それなのに、まだ何か言いたそうに口を開いて、結局、閉じた。

「いえ。何でもありません。お休みなさい」

 戸を閉めた廊下で、私はしばらく立ち尽くした。自分で伝えたばかりの刻限を、あの人が聞き返すだろうか。胸の奥で、細い糸がきゅっと引かれる。

 もしかして……と思いかけて、慌てて頭を振った。まさか、お疲れなのよ。
 それでも、袖を縫った指先に、まだ彼の体温が残っているような気がして、私はその手を、しばらく握りしめていた。