翌朝、結界の間へ呼ばれた私に、千景は文机越しに告げた。
「澄江殿との再接触は、しばらく控えてください」
「どうしてですか。昨日の感応で、手がかりはつかめました。幼い子の声と、引き留める言葉が……」
「それが危ないのです。あなたの感応は、深く入るほど相手の思いに寄り添いすぎる。戻れなくなる前に止めるのが、私の務めです」
言葉は丁寧で、理屈も通っていた。けれど私は、膝の上で拳を握った。
――昔から、人のために無理をする人ですから。
声には出されなかった一言が、聞こえた気がした。社にいた頃の私は、熱を出した子を夜通し看病して倒れたり、他人の荷を背負って山道で足を挫いたりした。千景はそれを覚えているのだ。覚えているからこそ、止めようとしている。
分かっている。それでも、八年のあいだに私が積んできたものは、見てもらえないのだろうか。
「……では、聞き取りをさせてください。感応は使いません。女房たちの話を集めます」
「それも、慎重に」
「慎重に、やります」
千景は何か言いかけて、結局「検討します」とだけ言った。私は反発する代わりに、局へ戻って筆を取った。調査の目的、聞き取る相手、順番、危険が生じたときの切り上げの条件。紙一枚に収まるように整理して、昼前にそれを千景の机へ置いた。千景は黙って読んだ。長いあいだ、読んでいた。その左手が、袖口をつまんでいる。
「……手順に無駄がありません」
やがて顔を上げた彼が言った。
「許可します。ただし、危うい話題が出たら、その場で引いてください」
「はい」
声が弾みそうになるのを、私は膝の上で抑えた。ほんの少しだけ、認められた気がした。
***
女房たちの話は、思ったより多く集まった。澄江は、近く後宮を辞すつもりだったらしい。故郷に年老いた母がいて、残りの歳月は静かに暮らしたいと、数か月前から周りに話していた。
「それで、身の回りの整理をなさっていたのよ。古い衣類を出して、仕分けして」
「異変が始まった夜も、そうだったわ。お衣装を片づけた晩から、急に眠りが深くなって」
聞くほどに、時間の筋が見えてくる。退宮の準備。古い衣類の整理。そして、その夜から始まった眠りと忘却。
もう一つ、気にかかる話があった。
「朱音姫さまは、澄江のことを一番慕っておいででしょう? 幼い頃から、お世話はほとんど澄江が」
「でも最近、姫さまは退宮のお話になると、お席を立たれるの」
朱音姫。幼い子の笑い声と、まだ行かないでという声。寝具から感じ取った断片が、ひとつの像を結びはじめる。けれど、まだ確かめたわけではない。私は筆を止め、聞いたことと、推し量ったことを、紙の上で別の行に書き分けた。
帰り道、庭の渡殿で、小さな人影に出くわした。朱音姫だった。十四ほどの姫君が、侍女も連れず、欄干に身を預けている。
「姫さま。鎮めの女房の、小夜と申します」
「……知っています。澄江を調べているのでしょう」
視線は庭へ向けたまま、固い声だった。
「澄江殿は、もうすぐ故郷へ帰られるとか」
姫の肩が、かすかに跳ねた。
「そんな話、聞きたくない」
それだけ言って、姫は袖をひるがえして行ってしまった。残された私の胸の中で、触れてもいないのに、あの小さな声が蘇る。
――まだ、行かないで……と。
***
日暮れ前、私は結界の間へ報告に戻った。千景は報告を聞きながら、ときどき短く質問を挟んだ。
「その話は、誰から聞いたものですか」
「お二人の女房からです。ただ、姫さまのお気持ちは私の推測で、確かめが必要です」
「……なるほど」
書き留めた紙を渡すと、千景はしばらく目を落としていた。
「親切心だけで動いているわけではないのですね」
不意の言葉に、私は瞬いた。
「感情と事実を分けて、調べている。昔のあなたなら、聞いた話に胸を痛めて、そのまま姫さまのところへ駆けていったでしょう」
「……それは、褒めていただいているのですか」
「報告です」
そう言いながら、彼は少しだけ視線をそらした。耳の端が、また赤い。夕日のせいにするには、もう日が傾きすぎているのだけれど。そのとき、結界の間の奥で、ぱち、と小さな音がした。千景が立ち上がる。壁際に張られた細い札が、一枚、黒ずんでいた。彼は無言でそれに指をかざし、低く何かを唱える。空気がすっと澄んだ。
あっという間のことだった。けれど私は、その背中から目が離せなかった。迷いのない動きだった。誰に頼ることもなく、淡々と、けれど確かに、この御所の見えない安全を守っている。
あの厳しさは、冷たさではない。誰かを守る責任と、ひとつに結びついているのだ。
「……何か、ついていますか」
振り返った千景に、私は慌てて首を振った。
その夜、私は台所の女房に頼んで、握り飯と汁物を分けてもらった。結界の間をのぞくと、案の定、灯りがともっている。文机の脇には、昼に運ばれたらしい膳が、手つかずのまま冷えていた。
「……食べていないでしょう」
敬語を忘れた。言ってから、はっとする。千景が顔を上げた。しばらく私と膳を見比べて、それから、ふっと息を漏らした。
「また叱られますね」
「叱ります。上司でも」
私が盆を置くと、彼は観念したように握り飯を手に取った。かぶりつく。咀嚼する。昔は私が口元へ運んでやらなければ、ほとんど食べなかった子が、今は自分の手で食べている。それだけのことが、少し不思議だった。
「……昼間は、すみませんでした」
不意に、彼が言った。
「再接触を禁じたこと。あなたの力量を軽く見ていたわけではないのですが、結果として、そう受け取られても仕方のない言い方でした」
「いえ。私こそ」
私は両手を膝の上で握った。
「昔の感覚のまま、接していました。千景は、私が手を引く子だと、どこかで思っていて。……それで、勝手に、見てもらえていないと思って」
「見ていますよ」
即答だった。
「だから、止めたんです」
それ以上は、言葉が続かなかった。彼は握り飯の残りを見つめ、私は汁物の湯気を見つめた。静かな時間が流れたけれど、昼間のような居心地の悪さはなかった。やがて千景が、膳を空にした。
「ごちそうさまでした。……ありがとうございます」
「どういたしまして」
私が立ち上がると、彼の指が、一瞬、袖口へ伸びかけた。それから、何事もなかったように引っ込む。
「……小夜殿」
「はい?」
「いえ……」
彼は言いよどんで、結局こう言った。
「明日も、よろしくお願いします」
「はい。こちらこそ」
戸を閉めるとき、ちらりと振り返った。千景は空の膳を見つめたまま、何か言い忘れたことを探すような顔で座っていた。そういえば、再会の挨拶は「後ほど」のままだった。
その横顔が、廊下の先まで、なぜか私の胸に残っていた。



