八年ぶりに会う人の背は、私が思っていたよりずっと高かった。
御所の北の端、結界の間と呼ばれる板敷きの部屋で、その人は文机の前に立っていた。うす墨色の直衣に、きちんと整えた髪。几帳の影から差す光が肩の線をなぞって、そこだけ知らない人のかたちをしている。
案内された局には、私が着く前から火桶に炭が入っていた。山の社より、都の秋は冷えるのだろう。気の利く御所だと感心しながら、荷も解かずにここへ来たのだ。
「鎮めの女房、小夜殿ですね」
低く落ち着いた声だった。私は平伏しかけて、途中で動きを止めた。
「今日からあなたの教育係の千景です。後宮の結界を預かっています」
千景。その名を、私は八年のあいだ、胸のどこかにしまっていた。同じ社で暮らしていた頃、私の袖の端をいつもつまんで、食事を忘れては叱られていた、二つ年下の少年。背丈は私の肩にも届かなかったはずだ。
「……千景、なの?」
思わずこぼれた声にも、彼は表情を変えなかった。
「はい。再会の挨拶は、後ほど。先に、今回の件を説明します」
後ほど……その一言に、胸の奥が小さくしぼんだ。懐かしがっていたのは、私だけだったのかもしれない。
彼は文机から書付を取り、淡々と話し始めた。
女房の澄江が、ここ半月ほど、夜ごと深い眠りに落ちる。目覚めるたびに、近い時期の記憶がひとつずつ抜け落ちていく。昨日は先月の出来事を、今朝は先週の出来事を、思い出せなくなっていた。
「医師にも診せましたが、身体に異状はありません。物に残った思いを読むあなたの力が必要です」
「わかりました。すぐに寝所を拝見します」
「ええ。案内は私が」
書付を持つ彼の指に、ふと目が行った。紙の端が強く握られて、細かな皺が寄っている。上等な料紙のはずなのに、質が悪いのだろうか。この落ち着きようで、緊張しているはずもない。私はそれ以上考えなかった。
***
歩き出した千景の後ろを、私は少し離れてついていった。廊下を行き交う女房たちは、彼に気づくたび道をあけて頭を下げる。千景は短く頷き「奥の衣庫の鍵を」「今夜は見回りをひとり増やして」と迷いなく言葉を継いでいく。誰もが当たり前のように、彼の指示で動いた。
昔は、私が手を引かなければ廊下の端で立ち尽くしていた子なのに。誇らしいと思うはずだった。けれど実際に胸へ浮かんだのは、置いていかれたような心細さだった。この人にとって私は、懐かしい誰かではなく、新しく配属された部下のひとりでしかないのかもしれない。
「こちらです」
澄江の寝所は、几帳で仕切られた静かな一角にあった。当の澄江は奥で眠っている。呼吸は穏やかで、顔色も悪くない。ただ、眠りがあまりに深く、声をかけても睫毛ひとつ動かなかった。
「眠っている間は、触れても反応がありません。寝具は昨夜から替えていません」
「拝見します」
私は枕元に膝をつき、掛け布の端にそっと手を置いた。指先から、ぬくもりに似たものが流れ込んでくる。最初に届いたのは音だった。幼い子の、はじけるような笑い声。続いて、陽に干した布の匂い。誰かの腕に抱かれて、とろりとまぶたが重くなっていく安心。
——まだ、行かないで。
小さな声だった。眠りの縁で、袖にすがるような。この声の主を、もっと知りたい。私はさらに深く、思いの底へ手を伸ばした。
「そこまでです」
手首を、強い力が掴んだ。視界が一気に御所の寝所へ戻る。顔を上げると、千景が私の手首を握ったまま、まっすぐこちらを見ていた。思ったより、指が熱かった。
「安全を確かめないまま、感応を深めましたね」
「でも、手がかりが……」
「手がかりより、あなたの身体が先です。引き込まれて戻れなくなれば、そのときは私にも止められません」
叱る声は静かで、だからこそ反論できなかった。彼は私の手首を離し、一歩下がって「失礼しました」と短く言った。私は、自分の手を見下ろした。昔なら、私のほうがこうして彼を叱っていた。
勝手に結界の端へ近づいてはいけない、と。立場が入れ替わったのだと、このとき初めて、身体で理解した。
「……申し訳ありません。以後、先に合図をいたします」
「お願いします」
千景は頷いて、きびすを返した。その耳の端が、ほんのり赤く見えたのは、夕刻の日の色のせいだろう。
***
日が落ちて、私は結界の間へ戻った。感応のあとは、身体の芯が冷える。局へ引き上げようとしたところへ、年若い下仕えが盆を抱えてやってきた。
「小夜さまに、白湯をと」
「どなたから?」
「上のお方から、と」
上のお方。つまり千景だ。部下の体調管理も、上役の務めのうちなのだろうか。
私は両手で椀を包んで、ほうっと息をついた。熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうど喉を通る温度だった。
そのとき、几帳の向こうから紙をめくる音が聞こえた。千景は文机に向かって、澄江の記録を読んでいた。灯りの下で、彼は眉を寄せ、考え込んでいる。その左手が、無意識のように、右の袖口をつまんでいた。あ、と思った。
難しいことを考えるとき、千景は必ず袖口をつまむ。社にいた頃、算木の問題が解けなかった夜、彼はこうして袖を揉みながら、答えが出るまで夜更けまで動かなかった。背も声も変わったのに、その癖だけが、八年も経っても、ここにある。
「……袖」
気づけば、声に出していた。千景が顔を上げる。
「え?」
「袖を、つまんでいます。考え事をしているとき」
彼は自分の手元に目を落とした。しばらく、袖をつまんだ指を見つめて、それから、ほんの少し、息を抜くように笑った。
「……まだ、直っていませんでしたか」
冷たい上司の仮面が、その一瞬だけ、すこしほどけた。見慣れた子どもの顔が、大人の輪郭の中から覗いたのだ。
「覚えているんですか」
「忘れるわけ、ないでしょう」
言ってから、千景は慌てたように袖から手を離し、記録に目を戻した。「続けましょう。澄江殿の件です」と、いつもの落ち着いた声で言う。私は椀を持ったまま、小さく頷いた。
遠くなったと思っていた人の中に、知っている面影があった。それだけで、不思議なほど胸の奥があたたかい。この人を、私はまだ何も知らない。けれど、全部が知らない人でもないのだ。
白湯の最後のひと口を飲み干して、私は千景の隣へ、記録を覗きこむために腰を下ろした。



