翌週、十八になった誕生日の朝。
いつもと変わらず早朝に身体を起こした澪里は、一言ぽつりと呟いた。
「誕生日おめでとう、澪里」
他人から言われなくなって久しいその言葉。だがそれに大した感情も抱かなくなっているほどに、澪里は慣れきってしまっていた。
顔をあげると、花瓶に生けられた花たちが、まだ薄暗い朝の中で輝いている。まるで励ましているかのように美しく咲いている花たちに、思わず頬が緩んでしまった。
「ありがとう。あなたたちがいるから、寂しくないわ」
布団から出て着替えると、その日に売る花たちを選んでいく。昨日咲かせた待宵草に、売れ残っていた薔薇と水仙。かすみ草や鈴蘭などを見繕い、一本ずつ丁寧に紙を巻いていく。
澪里からすればどの花もとても愛おしいのだが、客商売ともなれば見栄えや開き具合で売れるかどうかが決まってしまう。
花売りの準備をした後、朝食の準備で厨房に向かう。いつもならその流れで朝を過ごしているのだが、この日にそれは叶わなかった。
「うわああああ! なんでよ、なんでよぉ!!」
屋敷中に金切り声が響き渡った。反射的に身体が動き、廊下に出る。
今のは天音の声だった。彼女とは屋敷の端と端ほど部屋が離れているはずなのに、それでもはっきりとわめき声が聞こえる。
なにかあったのだろうか。澪里は廊下の向こうを見つめて戸惑った。無視して朝食の準備に行くこともできたが、その場合来なかったからと後で揶揄される可能性もある。迷った末に、澪里は天音の声がする方へと走った。
彼女は自室から広間に移動しており、そこには既に和代と数人の使用人が集まっていた。中央では天音が髪を振り乱しながら涙を流している。
「なんで私に魂印が出ないのよぉ! 私は桜羽の娘なのに、おかしいじゃないの!」
彼女の言葉を聞いて、ああ、と状況を把握した。つまり彼女は、期待していた「魂印」が出なかったのだ。
だがそれは、さほどおかしいことではない。魂印はいわば特定の妖怪の番になる資格のようなもので、相手の妖怪に番が現れたことを知らせるものでもある。十八になった霊力の高い人間の身体に現れるのだが、その数は霊力の高い人間千人に対し、一人にも満たないとも言われていた。故に天音に魂印が現れなくても不思議ではない。むしろ今までの桜羽が、運がよすぎただけだ。
ここにいても自分にできることは何もない。声を心配して様子を見に来るという行為は達成したし、早く戻った方がいいかもしれない。長居して朝食の準備が疎かになれば、また怒鳴られる。
そう思って踵を返そうとした時、天音の目がふとこちらを向いた。
直後、彼女の顔が大きく歪む。恨みと、妬みと、絶望が混じったような喰らい瞳で睨みつけ、澪里を指さしながら叫んだ。
「なんで――なんであんたみたいな出来損ないに!」
「え……?」
何を言われているかわからなかった。戸惑い周囲を見回すと、鏡台の鏡が目に入る。その中に映っている自分の姿を見たとき――大きく目を見開いた。
澪里の首筋に、昨日にはなかった模様があった。
魂印。それは髪の間からでもわかるほどに、印を押したように赤くくっきりと浮かび上がっている。模様は花を模していて、形から恐らく種類は福寿草だろう。けれども形を気にする以前に、澪里の頭は疑問符でいっぱいになっていた。
「なんで、私に……?」
首筋をなぞり、鏡を見て、そこに存在するものを確かめる。花を咲かせることしかできない弱い自分に、どうして魂印が。だが自問すると同時に、猛烈な既視感に襲われた。
――これと似たものを、私はどこかで見たことがある。
だが探ろうとした記憶は、激しい振動で霧散していった。
「返しなさいよ! それは私の『魂印』よ!!」
「きゃっ――!」
天音に襟首を掴まれ、激しく揺さぶられる。
「はな、して……あまね、さん……」
「なら魂印を渡しなさいよ!」
そんなことできるはずがない。そう言おうと思っても、首を絞められ声にすることは叶わなかった。呼吸が奪われ、頭の中がぼうっとしてくる。
その時、ばしんと音を立て、部屋の襖が開かれた。
「やめなさい、天音。見苦しい」
薄目を開けると、宗治が部屋の中に入ってきていた。
天音は涙をうかべて叫んでいる。
「でもお父様……!」
「いいから澪里を離せ。今すぐに」
父には逆らえなかったのか、天音はゆっくり腕の力を抜いていった。急に空気が肺の中に入り込み、澪里は何度か咳き込み顔をあげる。
――助けてくれた。
だがそう思ったのも束の間。宗治が澪里を見て不気味に口角を釣り上げた。後ろから黒装束を着た不気味な老人が現れた。
「伯父様、その方は……」
「桜羽家お抱えの呪術師の先生だ。先生は詐称の術が得意でな。ある人間の魂印と同じ物を他者に作ることができる。万が一天音に魂印が現れなかった時のために呼んでおいたのだ」
澪里は大きく目を見張る。魂印の詐称。それは月城ノ国の中でも重罪にあたる。宗治は澪里の長い黒髪をぐいと引っ張り、獲物を見るかのような目でこちらを見てきた。
「先祖たちの様に魂印持ちを探すのに苦労するかと思ったが……偶然側にいてよかった。桜羽家の繁栄のための礎になれ」
だん、と身体が畳の上に押しつけられ、半身に強い痛みが走った。黒装束の呪術師が近づいてくる恐怖に、心の中が埋め尽くされる。
「ああ、お父様! 私の為にありがとう!」
「嫌、やめて……っ!」
歓喜の声を上げる天音の横で、澪里は激しくもがいて抵抗する。
だが宗治に強い力で押さえつけられ、逃れる事は叶わない。呪術師の手が首筋に触れ――雷に打たれたような衝撃が首筋に走った。
「ああああっ!」
強い痛みに絶叫する。だが天音も宗治も周りのほかの人間も、誰一人として止めることはしない。全員笑みをうかべて、これが正解とでも言いたげな顔をしていた。
やがて痛みは治まり、澪里の身体は脱力した。首筋を中心に、強い喪失感に襲われる。目線を上に向けると、天音の首に福寿草の魂印が刻まれていた。
「ああ、私の魂印! やっと戻ってきたわ!」
天音は鏡を見ながらうっとりとした声を上げる。そして勝ち誇ったように口角を上げ、澪里を見下ろした。
「いい気味ね。あなたは一生役立たずのまま、這いつくばって生きていなさい」
もはや悲しむ気も起きなくて、澪里はそっと目を伏せる。
その時、玄関の方から使用人が慌てた様子で走ってきた。
「だ、旦那様、お客様です! 自分の魂印の気配を感じ取られたと……!」
魂印の気配、と聞いて天音の目が輝いた。
「あら、さっそくね。誰がいらっしゃったの」
「それが……それが、月楼閣の楼主様なのです!」
名が出た瞬間、場に居た全員がどよめいた。
楼主様――それはこの都の中心にある、月城ノ国の政府機関・月楼閣の主のこと。つまりはかつてあまたの邪悪な妖怪を排除し、この国を平定した大妖怪その人だ。長らく番を持っておらず、結婚する気がないのだと噂されていたその人が、桜羽家に現れたのだ。
「楼主様が私のお相手なの!? ああ、やっぱり私は選ばれた人間だったのよ! さあ早く、お迎えする準備をして!」
天音はいそいそと髪を整え始め、使用人たちは慌ただしく働き始める。呪術師は裏口から、屋敷の外に出されていった。畳の上に横たわっていた澪里は、宗治に猿ぐつわをはめられ、後ろ手に縛られた。
「連れ出す時間もない。お前はこの中に入っておけ。絶対に出るんじゃないぞ!」
物置の中に押し込まれ、ぴしゃりと戸を閉められる。しばらくして、厳かな足音が廊下から聞こえてきた。
「お前らが桜羽か。俺の番はどこだ」
現れたのは、夜闇のような深い黒の着物を纏った、白い肌に薄い唇。黒髪の美しい男だった。切れ長の瞳から覗く瞳は赤く、背中からは烏のように艶のある大きな黒い翼が生えている。
圧倒的な美貌を持つ妖怪に、その場に居た全員が息を呑む。
「お初にお目に掛かります、楼主様。貴方様のお相手は、娘の天音。首の印をご覧ください」
頭を下げた宗治に続き、天音も首を見せつけるように挨拶する。
「初めまして、楼主様。天音と申します」
楼主の瞳が天音の首筋を捕らえる。その目がすっと細められた。
澪里はその光景を、開いた襖の端から全て見ていた。
これでよかったのだ。妖怪が苦手な自分は、番になってもあの人に迷惑をかけるだけ。だから天音に譲ってよかった。
そう言って自分を納得させるが、心には靄がかかっていた。
あの魂印は、忘れている何かに繋がっている。魂印を見た時に覚えた既視感はそういうことだろう。大事な過去の思い出に繋がりそうなあの印を、他人に奪われたままでいいのか。
――そんなの、いいわけがないわ。
狭い物置の中で、縛られた身体をなんとか動かした。
自分は大した力も持たない役立たず。けれど自分の日々を変えてくれるかも知れないあの思い出だけは、この手に取りもどしたかった。
かたかたと、物置の扉が小さく動く。だが狭い物置では動きづらく、それ以上の音は立てられなかった。それでもせめて楼主が気付いてくれればと、必死になって身体を動かす。
その時、楼主の赤い瞳と目が合った気がした。気付いてくれた。一瞬胸が浮き立ったが、すぐに彼の目は天音の方に戻ってしまう。
――やっぱり、駄目なのかしら。
心が絶望に染まっていく。嘲笑うように天音の甘ったるい声が響いた。
「貴方様の番として、どうか末永くよろしくお願い致します」
だが直後。楼主は刃のような視線で天音の身体を貫いた。
「黙れ、偽物が。その程度の誤魔化しで、俺を騙せると思ったか」
部屋の空気が凍りつく。言葉を失った天音を余所に、楼主は立ち上がって澪里のいる物置に迷いなく歩を進めてきた。
がらり、と扉が開く。温かな手に身体を抱かれて連れ出された。
「ああ……ようやく見つけた、俺のお嬢さん」
先ほどとはうって変わった優しい声色で、楼主は澪里のさるぐつわと縄を解いていく。
「すみません、魂印がないと存在を感知できなくて……あなたがこんな目に遭っているとは思いも寄りませんでした。でも、生きていてくれてよかった」
赤い瞳が慈しむように見下ろしてくる。美しい手が頬に触れた。温かくて、優しくて――どこか懐かしいその感触。なにより目の前の人は妖怪なのに、何故か怖いとは感じない。
「あなたは……」
「忘れてしまいましたか? 無理もありませんね。あなたにとっては、生まれる前の事ですから。でもきっと、番契約を完成させれば思い出せるでしょう」
楼主は穏やかに微笑んでいる。その横で、天音が金切り声を上げた。
「楼主様、あなたの番はこの私です! そんな出来損ないのことなんて――」
「出来損ないはお前だろう、この詐欺師め」
楼主は冷たく言い放ち、澪里を胸に抱き寄せながら軽く手を振った。
「きゃああああっ!!」
バチッと霊力が弾ける音がして、天音の身体が痙攣する。首に刻まれた偽りの魂印が、さらさらと消えてなくなっていった。同時に澪里の首元がほんのり熱を帯びた。直感的に、魂印が戻ったのだとわかる。
「お前の魂印は表面だけで中身が伴っていない。そこらの妖怪なら出し抜けるのかもしれないが、俺には通じない。俺がこの人を間違えるなどあり得ないからな」
楼主は宗治や天音、和代を睨み、冷たく言い放った。
「魂印の詐称は重罪。さらにお前たちは本物の番であるこの人に無体を働いていた。この扱い、一度や二度ではないだろう。よって桜羽家は爵位を剥奪、更には番を排出したことによる優遇措置も停止する」
「そ、そんな……!」
絶望した顔でうなだれる桜羽家の三人。だが楼主は興味を失ったように視線を逸らし、澪里に甘い笑みを見せる。
「これでもう安心ですよ、お嬢さん。さあ行きましょうか」
優しく肩を抱き寄せられるも、澪里の心は困惑でいっぱいだった。なぜこの国を統べる楼主が、自分だけに丁寧な言葉を使ってくるのだろう。しかも彼の言葉や接し方は、まるで古くから知る親しい人を相手にしているようだった。
「あなたは……私を知っているんですか?」
漏れ出た言葉に、楼主はふっと苦笑いした。
「やっぱり、先に儀式をした方がよさそうですね」
「儀式って……――っ!」
問い掛ける間もなく、楼主は澪里の首筋に唇を落とした。刻まれた魂印が強く熱を持つ。やがておもむろに唇が離され、彼が瞳をのぞき込んでくる。
「……これで、思い出しましたか?」
「――っ!」
途端に澪里の脳内へ、濁流の様に記憶が流れてくる。そして思いだした記憶と、目の前の楼主の姿を照らし合わせ、目を見張った。
ずっと懐かしさを覚えていた誰か。黒髪に、ぼろぼろの着物を着ていた、痩せた青年。背中に黒い烏の羽根を生やし、木の格子の外側で、大切そうに花を抱きながら不器用に笑っていたあの人。
衣服は違う。目つきも違う。けれども確かに覚えている。
「か……えで……?」
「四百年ぶりですね。ずっと待っていましたよ、俺のお嬢さん」
月城ノ国の主――鞍馬楓は、前世と同じ人懐こい笑みをうかべた。
いつもと変わらず早朝に身体を起こした澪里は、一言ぽつりと呟いた。
「誕生日おめでとう、澪里」
他人から言われなくなって久しいその言葉。だがそれに大した感情も抱かなくなっているほどに、澪里は慣れきってしまっていた。
顔をあげると、花瓶に生けられた花たちが、まだ薄暗い朝の中で輝いている。まるで励ましているかのように美しく咲いている花たちに、思わず頬が緩んでしまった。
「ありがとう。あなたたちがいるから、寂しくないわ」
布団から出て着替えると、その日に売る花たちを選んでいく。昨日咲かせた待宵草に、売れ残っていた薔薇と水仙。かすみ草や鈴蘭などを見繕い、一本ずつ丁寧に紙を巻いていく。
澪里からすればどの花もとても愛おしいのだが、客商売ともなれば見栄えや開き具合で売れるかどうかが決まってしまう。
花売りの準備をした後、朝食の準備で厨房に向かう。いつもならその流れで朝を過ごしているのだが、この日にそれは叶わなかった。
「うわああああ! なんでよ、なんでよぉ!!」
屋敷中に金切り声が響き渡った。反射的に身体が動き、廊下に出る。
今のは天音の声だった。彼女とは屋敷の端と端ほど部屋が離れているはずなのに、それでもはっきりとわめき声が聞こえる。
なにかあったのだろうか。澪里は廊下の向こうを見つめて戸惑った。無視して朝食の準備に行くこともできたが、その場合来なかったからと後で揶揄される可能性もある。迷った末に、澪里は天音の声がする方へと走った。
彼女は自室から広間に移動しており、そこには既に和代と数人の使用人が集まっていた。中央では天音が髪を振り乱しながら涙を流している。
「なんで私に魂印が出ないのよぉ! 私は桜羽の娘なのに、おかしいじゃないの!」
彼女の言葉を聞いて、ああ、と状況を把握した。つまり彼女は、期待していた「魂印」が出なかったのだ。
だがそれは、さほどおかしいことではない。魂印はいわば特定の妖怪の番になる資格のようなもので、相手の妖怪に番が現れたことを知らせるものでもある。十八になった霊力の高い人間の身体に現れるのだが、その数は霊力の高い人間千人に対し、一人にも満たないとも言われていた。故に天音に魂印が現れなくても不思議ではない。むしろ今までの桜羽が、運がよすぎただけだ。
ここにいても自分にできることは何もない。声を心配して様子を見に来るという行為は達成したし、早く戻った方がいいかもしれない。長居して朝食の準備が疎かになれば、また怒鳴られる。
そう思って踵を返そうとした時、天音の目がふとこちらを向いた。
直後、彼女の顔が大きく歪む。恨みと、妬みと、絶望が混じったような喰らい瞳で睨みつけ、澪里を指さしながら叫んだ。
「なんで――なんであんたみたいな出来損ないに!」
「え……?」
何を言われているかわからなかった。戸惑い周囲を見回すと、鏡台の鏡が目に入る。その中に映っている自分の姿を見たとき――大きく目を見開いた。
澪里の首筋に、昨日にはなかった模様があった。
魂印。それは髪の間からでもわかるほどに、印を押したように赤くくっきりと浮かび上がっている。模様は花を模していて、形から恐らく種類は福寿草だろう。けれども形を気にする以前に、澪里の頭は疑問符でいっぱいになっていた。
「なんで、私に……?」
首筋をなぞり、鏡を見て、そこに存在するものを確かめる。花を咲かせることしかできない弱い自分に、どうして魂印が。だが自問すると同時に、猛烈な既視感に襲われた。
――これと似たものを、私はどこかで見たことがある。
だが探ろうとした記憶は、激しい振動で霧散していった。
「返しなさいよ! それは私の『魂印』よ!!」
「きゃっ――!」
天音に襟首を掴まれ、激しく揺さぶられる。
「はな、して……あまね、さん……」
「なら魂印を渡しなさいよ!」
そんなことできるはずがない。そう言おうと思っても、首を絞められ声にすることは叶わなかった。呼吸が奪われ、頭の中がぼうっとしてくる。
その時、ばしんと音を立て、部屋の襖が開かれた。
「やめなさい、天音。見苦しい」
薄目を開けると、宗治が部屋の中に入ってきていた。
天音は涙をうかべて叫んでいる。
「でもお父様……!」
「いいから澪里を離せ。今すぐに」
父には逆らえなかったのか、天音はゆっくり腕の力を抜いていった。急に空気が肺の中に入り込み、澪里は何度か咳き込み顔をあげる。
――助けてくれた。
だがそう思ったのも束の間。宗治が澪里を見て不気味に口角を釣り上げた。後ろから黒装束を着た不気味な老人が現れた。
「伯父様、その方は……」
「桜羽家お抱えの呪術師の先生だ。先生は詐称の術が得意でな。ある人間の魂印と同じ物を他者に作ることができる。万が一天音に魂印が現れなかった時のために呼んでおいたのだ」
澪里は大きく目を見張る。魂印の詐称。それは月城ノ国の中でも重罪にあたる。宗治は澪里の長い黒髪をぐいと引っ張り、獲物を見るかのような目でこちらを見てきた。
「先祖たちの様に魂印持ちを探すのに苦労するかと思ったが……偶然側にいてよかった。桜羽家の繁栄のための礎になれ」
だん、と身体が畳の上に押しつけられ、半身に強い痛みが走った。黒装束の呪術師が近づいてくる恐怖に、心の中が埋め尽くされる。
「ああ、お父様! 私の為にありがとう!」
「嫌、やめて……っ!」
歓喜の声を上げる天音の横で、澪里は激しくもがいて抵抗する。
だが宗治に強い力で押さえつけられ、逃れる事は叶わない。呪術師の手が首筋に触れ――雷に打たれたような衝撃が首筋に走った。
「ああああっ!」
強い痛みに絶叫する。だが天音も宗治も周りのほかの人間も、誰一人として止めることはしない。全員笑みをうかべて、これが正解とでも言いたげな顔をしていた。
やがて痛みは治まり、澪里の身体は脱力した。首筋を中心に、強い喪失感に襲われる。目線を上に向けると、天音の首に福寿草の魂印が刻まれていた。
「ああ、私の魂印! やっと戻ってきたわ!」
天音は鏡を見ながらうっとりとした声を上げる。そして勝ち誇ったように口角を上げ、澪里を見下ろした。
「いい気味ね。あなたは一生役立たずのまま、這いつくばって生きていなさい」
もはや悲しむ気も起きなくて、澪里はそっと目を伏せる。
その時、玄関の方から使用人が慌てた様子で走ってきた。
「だ、旦那様、お客様です! 自分の魂印の気配を感じ取られたと……!」
魂印の気配、と聞いて天音の目が輝いた。
「あら、さっそくね。誰がいらっしゃったの」
「それが……それが、月楼閣の楼主様なのです!」
名が出た瞬間、場に居た全員がどよめいた。
楼主様――それはこの都の中心にある、月城ノ国の政府機関・月楼閣の主のこと。つまりはかつてあまたの邪悪な妖怪を排除し、この国を平定した大妖怪その人だ。長らく番を持っておらず、結婚する気がないのだと噂されていたその人が、桜羽家に現れたのだ。
「楼主様が私のお相手なの!? ああ、やっぱり私は選ばれた人間だったのよ! さあ早く、お迎えする準備をして!」
天音はいそいそと髪を整え始め、使用人たちは慌ただしく働き始める。呪術師は裏口から、屋敷の外に出されていった。畳の上に横たわっていた澪里は、宗治に猿ぐつわをはめられ、後ろ手に縛られた。
「連れ出す時間もない。お前はこの中に入っておけ。絶対に出るんじゃないぞ!」
物置の中に押し込まれ、ぴしゃりと戸を閉められる。しばらくして、厳かな足音が廊下から聞こえてきた。
「お前らが桜羽か。俺の番はどこだ」
現れたのは、夜闇のような深い黒の着物を纏った、白い肌に薄い唇。黒髪の美しい男だった。切れ長の瞳から覗く瞳は赤く、背中からは烏のように艶のある大きな黒い翼が生えている。
圧倒的な美貌を持つ妖怪に、その場に居た全員が息を呑む。
「お初にお目に掛かります、楼主様。貴方様のお相手は、娘の天音。首の印をご覧ください」
頭を下げた宗治に続き、天音も首を見せつけるように挨拶する。
「初めまして、楼主様。天音と申します」
楼主の瞳が天音の首筋を捕らえる。その目がすっと細められた。
澪里はその光景を、開いた襖の端から全て見ていた。
これでよかったのだ。妖怪が苦手な自分は、番になってもあの人に迷惑をかけるだけ。だから天音に譲ってよかった。
そう言って自分を納得させるが、心には靄がかかっていた。
あの魂印は、忘れている何かに繋がっている。魂印を見た時に覚えた既視感はそういうことだろう。大事な過去の思い出に繋がりそうなあの印を、他人に奪われたままでいいのか。
――そんなの、いいわけがないわ。
狭い物置の中で、縛られた身体をなんとか動かした。
自分は大した力も持たない役立たず。けれど自分の日々を変えてくれるかも知れないあの思い出だけは、この手に取りもどしたかった。
かたかたと、物置の扉が小さく動く。だが狭い物置では動きづらく、それ以上の音は立てられなかった。それでもせめて楼主が気付いてくれればと、必死になって身体を動かす。
その時、楼主の赤い瞳と目が合った気がした。気付いてくれた。一瞬胸が浮き立ったが、すぐに彼の目は天音の方に戻ってしまう。
――やっぱり、駄目なのかしら。
心が絶望に染まっていく。嘲笑うように天音の甘ったるい声が響いた。
「貴方様の番として、どうか末永くよろしくお願い致します」
だが直後。楼主は刃のような視線で天音の身体を貫いた。
「黙れ、偽物が。その程度の誤魔化しで、俺を騙せると思ったか」
部屋の空気が凍りつく。言葉を失った天音を余所に、楼主は立ち上がって澪里のいる物置に迷いなく歩を進めてきた。
がらり、と扉が開く。温かな手に身体を抱かれて連れ出された。
「ああ……ようやく見つけた、俺のお嬢さん」
先ほどとはうって変わった優しい声色で、楼主は澪里のさるぐつわと縄を解いていく。
「すみません、魂印がないと存在を感知できなくて……あなたがこんな目に遭っているとは思いも寄りませんでした。でも、生きていてくれてよかった」
赤い瞳が慈しむように見下ろしてくる。美しい手が頬に触れた。温かくて、優しくて――どこか懐かしいその感触。なにより目の前の人は妖怪なのに、何故か怖いとは感じない。
「あなたは……」
「忘れてしまいましたか? 無理もありませんね。あなたにとっては、生まれる前の事ですから。でもきっと、番契約を完成させれば思い出せるでしょう」
楼主は穏やかに微笑んでいる。その横で、天音が金切り声を上げた。
「楼主様、あなたの番はこの私です! そんな出来損ないのことなんて――」
「出来損ないはお前だろう、この詐欺師め」
楼主は冷たく言い放ち、澪里を胸に抱き寄せながら軽く手を振った。
「きゃああああっ!!」
バチッと霊力が弾ける音がして、天音の身体が痙攣する。首に刻まれた偽りの魂印が、さらさらと消えてなくなっていった。同時に澪里の首元がほんのり熱を帯びた。直感的に、魂印が戻ったのだとわかる。
「お前の魂印は表面だけで中身が伴っていない。そこらの妖怪なら出し抜けるのかもしれないが、俺には通じない。俺がこの人を間違えるなどあり得ないからな」
楼主は宗治や天音、和代を睨み、冷たく言い放った。
「魂印の詐称は重罪。さらにお前たちは本物の番であるこの人に無体を働いていた。この扱い、一度や二度ではないだろう。よって桜羽家は爵位を剥奪、更には番を排出したことによる優遇措置も停止する」
「そ、そんな……!」
絶望した顔でうなだれる桜羽家の三人。だが楼主は興味を失ったように視線を逸らし、澪里に甘い笑みを見せる。
「これでもう安心ですよ、お嬢さん。さあ行きましょうか」
優しく肩を抱き寄せられるも、澪里の心は困惑でいっぱいだった。なぜこの国を統べる楼主が、自分だけに丁寧な言葉を使ってくるのだろう。しかも彼の言葉や接し方は、まるで古くから知る親しい人を相手にしているようだった。
「あなたは……私を知っているんですか?」
漏れ出た言葉に、楼主はふっと苦笑いした。
「やっぱり、先に儀式をした方がよさそうですね」
「儀式って……――っ!」
問い掛ける間もなく、楼主は澪里の首筋に唇を落とした。刻まれた魂印が強く熱を持つ。やがておもむろに唇が離され、彼が瞳をのぞき込んでくる。
「……これで、思い出しましたか?」
「――っ!」
途端に澪里の脳内へ、濁流の様に記憶が流れてくる。そして思いだした記憶と、目の前の楼主の姿を照らし合わせ、目を見張った。
ずっと懐かしさを覚えていた誰か。黒髪に、ぼろぼろの着物を着ていた、痩せた青年。背中に黒い烏の羽根を生やし、木の格子の外側で、大切そうに花を抱きながら不器用に笑っていたあの人。
衣服は違う。目つきも違う。けれども確かに覚えている。
「か……えで……?」
「四百年ぶりですね。ずっと待っていましたよ、俺のお嬢さん」
月城ノ国の主――鞍馬楓は、前世と同じ人懐こい笑みをうかべた。



