変わり果てた世界で、親友に恋するまでの物語

颯真が診療内科に通うようになって、一ヶ月が過ぎた。恐怖心とか、まだなくならないけれど、前よりはマシになったと颯真も言っていた。

ある日の休日を挟んだ月曜日。俺は、授業が始まる八時四十五分を時計の針が刺した時、まだベッドの中にいた。決して寝坊したわけでも、サボったわけでもない。朝、なんとなく体が熱いような気がして軽いノリで体温計を手に取ったところ、熱が三十九度。

表示された数字を見た瞬間、一気に体がだるくなったのだから、人間というのは単純だ。

「お母さんは会社行ってくるから、安静にしてなさいねー」

母さんは俺の様子をチラリと見た。枕元に水とスポーツドリンクを置いて、バタバタと出かけていく。

「…⋯はぁ」

どうせ体に力も入んねえし、今日は一日中家にいるしかない。

颯真、一人で大丈夫かな。また、無理やり近づかれたりしてないかな。一人で怖がってないかな。

そんな不安ばかりが頭をよぎる。熱のせいで思考が鈍っているはずなのに、颯真のことだけは、嫌になるほどはっきり浮かんでくる。

そういえば、中学の時も、一度風邪を引いたことがある。中三の、ちょうど今日と同じくらいの日だった。あの時、颯真は家のことでいろいろ大変だったはずなのに、わざわざプリントを届けに来てくれた。

俺は、颯真と違って頭もあまり良くなかったため、熱でも勉強しないと受験に間に合わないと思って頑張って体を起こして問題集に手をつけてたような気がする。

『お前、風邪の時くらい休めば?』

プリントを届けにきたついでに部屋に上がって来た颯真は、テーブルの上にある参考書と問題集を見るなりそう言った。

『仕方ないじゃん、俺は颯真と違ってバカだから、勉強しないと志望校落ちるんだよ。颯真クンと一緒のとこ行くには、勉強しなきゃなんないの』

あの時は、同じ志望校先の颯真が俺とは違って模試の判定もA判定で、むしゃくしゃしていた。追いつきたいのに、背中がどんどん遠ざかっていくような気がして、焦っていたんだと思う。

『それで風邪拗らせたら元も子もないだろ。バカ』
『どうせ俺はバカだよ、颯真と違って模試もC判定止まりだし』

普段は余裕のない姿なんて人前で見せないのに、風邪を引いているからか、自分を抑えられなかった。

『…⋯なら、分からないとこがあれば俺が分かるまで教えてやるから、とりあえず今日は休め』

流石に根負けして、俺はベッドの中に入った。

『同情とかいらないし』
『はあ?お前何言ってんだよ。お前が落ちると俺が困るんだよ。どうせ高校も、お前いないとつまんないから』
『…⋯ばか』
『うわお前なぁ…⋯まぁいいや、とりあえず、ゼリーとか水とか冷えピタもここ置いとくから、寝とけよ。じゃーな』

それだけ言い残して、颯真はすぐに帰ったんだけど、コンビニで買ったらしい水とかが入った袋が颯真の不器用な優しさを物語っていて少しこそばかった。

次の日には俺は復帰して学校に行けるようになって、その日から颯真は自分の勉強もあるくせに、よく俺の勉強を見てくれた。
そのおかげで、晴れて今の学校に入学できたわけで。だから、口にはしないが颯真には感謝している。

ほんとに…⋯ただ、それだけのはずだったんだ。感謝が、いつから別の感情にすり替わっていったのか、自分でも正確な時期は分からない。

『自分の気持ち隠しながら過ごすの、辛くない?』

ふと、晴翔の言葉を思い出した。
俺は、はっきりと否定できなかった。全く辛くないわけじゃない。けれど、それ以上に…颯真と一緒にいるのが、楽しいから。だから、俺は自分の気持ちを明かさずに、これからも一緒にあいつとバカしたい。

———ピンポーン

インターホンの音に、ぼんやりしていた意識が引き戻される。宅配便だろうか。重たい体を引きずって、ふらふらと玄関に向かった。

「よお」

なんで…⋯

ドアを開けた先に立っていたのは、制服姿の颯真だった。

「何してんの、人気者の颯真クン」
「休みのお前にプリント届けるのは、俺の役目だかんな、ほら」

颯真はプリントを渡す。
中三の時と同じ状況。来てくれるんじゃないかな、とか思ってはいたけど、まさかほんとに来るとは。嬉しさと驚きで、熱とは別の理由で顔が熱くなる。

「お邪魔します」

颯真はお構いなしにズカズカと家に入った。

「てか、一人?」

颯真はまだ男が怖いはずだから、心配になった。俺がいくら安全でも、閉ざされた部屋に誰かと二人きりというのは、今の颯真にとっては簡単なことじゃないはずだ。

「ん?あー、そう。でも、別に大丈夫だから」

よいしょ、っと颯真は腰を下ろす。
嘘。本当は、不安だったくせに。平気なフリをする時、颯真はいつも乾いたように笑うから、すぐ分かる。それでも、わざわざ来てくれたことが、何よりも嬉しかった。

「今日、何もなかった?」

俺は颯真に聞いた。

「うん、大丈夫。急に来られるとまだちょっと怖いけどさ、前よりマシになった気がする」

それは多分ほんとなんだろう。少しだけ笑った颯真の笑顔が偽物じゃないから。

「あ、あとこれ」

颯真が差し出したのは、あの時と一緒で袋いっぱいに詰められた水やらゼリーやら。

「ありがとな」

こういうところ、変わってない。中三のあの日の光景と、目の前の景色が、重なって見えた。

「散らかってんな、お前の部屋」
「うっせー、優等生め。ゴホッゴホッ」

あーもう、熱上がるじゃん。
颯真は、背中を優しくさすってくれる。男に触るの、少しくらい抵抗があるはずなのに。その手つきは、ためらいがちで、それでも確かに温かかった。

「大丈夫か?わり、急に来て。俺帰るわ」

颯真はそう言って立ち上がった。自分が来たことで迷惑がかかっていると思ったらしい。

…⋯帰らなくていい。帰ってほしくない。

「早く治せよな、お前いないとつまんないし」

その言葉…⋯本当、なんなんだよ、お前…⋯
なんで、そんなこと言うんだよ。俺が、どんな気持ちで…⋯

「…⋯大丈夫だから、もう少し、一緒にいて」

俺は颯真の袖を引っ張った。熱のせいか、普段なら絶対に言わないようなわがままが、ぽろりと口から零れ落ちた。

「…⋯分かった」

困らせるって、分かってるのに。どうしよう、気持ちがバレたら。絶対知られちゃいけないのに。
どうしようもなく、言いたくなってしまう。
そんな思いを抱きながら、俺は、気づけば眠りについていた。颯真が隣にいるという安心感が、俺を深い眠りへと引きずり込んでいった。

*

目が覚めると、あれから二時間くらい経っていた。
颯真、さすがにもう帰ったよな…⋯
なんて思いながら体を起こすと、壁に寄りかかって寝ている颯真の姿が目に入った。

びっ、くりしたー…⋯

俺が、もう少し一緒にいて欲しいと言ったからだろうか。多分、俺が寝てからも付いていてくれたのだろう。無理に起こさないように、静かに待ってくれていたのかもしれない。
そういえば、額のタオルが新しくなっていることに気づいた。ひんやりとして気持ちいい。寝ている間に何度も取り替えてくれたのだと思うと、胸がいっぱいになった。

どうしてこんなに優しいんだろう。近くにいればいるほど、好きな気持ちが大きくなる。

「…⋯好きだ…⋯」

小さな声でつぶやく。言葉にして伝えることができたら、どれだけ楽なんだろうか。
俺は、ぐっすり寝ている颯真にそっと近づいた。足音を立てないように、息を殺して。

改めて見ると、やっぱりかっこいい。

髪も目も、すべてが美しい。寝ている時しか、こんなにじっと見れないから、できるだけ長く、颯真のことを目に焼き付けておきたかった。閉じられた睫毛の影が、頬に落ちている。

でも、見ているうちに、少しだけ、胸が苦しくなった。この気持ちは、颯真にとっては迷惑にしかならないんだ。伝わらないし、伝えることもできない。

「男同士とか無理でしょ」と言った時の颯真の、どこか乾いた笑い方を思い出す。あの言葉の裏にあるものを知っていて、それでも好きになってしまった。そのことが、一番苦しかった。

「…⋯ごめんな、颯真。好きだよ」

好きだ。大好きだ。君に触れたい。でも、怖がらせたくない。
俺は颯真の顔に手を伸ばした。この届かない告白で、最後にするつもりだった。こんな気持ちを持つのも、必要以上に近づくのも。だって、苦しいから。

「…⋯は?」

颯真は目を開いて信じられないとでも言うような顔をしている。

「わっ⋯…」

颯真は、とっさに俺と距離を取るように後ずさる。

「あ、ちが…⋯」

颯真は、距離をとったことを申し訳なく思ったのか、否定しようとする。

なん、で…⋯

心臓が止まりそうになる。全身の血が、一瞬で冷えていくのが分かった。

「いつから起きて…⋯」

冷や汗が止まらない。どうしよう。こんなはずじゃ、なかったのに。

「…⋯最初から」

挽回することもできなくて、俺は黙った。何を言っても、言い訳にしかならない。

「…⋯ごめん、俺、帰るね。急に押しかけて悪かった」

颯真はすぐに部屋を出て行った。ドアを開ける颯真の手は、かすかに震えていた。
前よりマシになった気がする、というさっきの言葉を思い出した。

どうしよう。颯真のこと、怖がらせた。颯真にあんな顔、させたくなくて、隠してたのに。少しずつ前に進めてる、って言ってたのに。どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。俺のせいで、颯真が今以上に苦しむことになったら。それに、これって、あいつの元再婚相手と、トラウマ作ったやつと、してること同じじゃん。颯真をこれ以上、傷つけたくなかったのに、俺が一番、あいつのこと傷つけてんじゃん。しかも、颯真は親切でずっといてくれたのに。

終わった…⋯もう、ダメだ。
それが分かったとたん、涙が溢れてやまなかった。

熱でぼんやりした頭の中で、玄関のドアが閉まる音だけが、いつまでも繰り返し響いていた。