変わり果てた世界で、親友に恋するまでの物語

「診療内科に行け、ってことですか?」

俺は保健室で、先生と話していた。窓の外では、体育の授業をしている生徒たちの声が遠く聞こえている。

「無理にとは言わないけど…⋯トラウマとかで苦しんでるんだったら、そういう専門機関に行くのもありだと思う」

先生は気を使って話してくれる。

「いや、俺は、別に…⋯そんな酷くないし、行くほどでもなくないですか…⋯?」

正直、そんなことを言われるまでとは思っていなかった。俺って、やっぱりおかしいのかな。心臓が、嫌な速さで脈打っている。

「…⋯この前も、寝れてないようだったし、授業中もよくぼーっとしてる」

心当たりしかなかった。夜中に何度も目が覚めて、そのたびに天井を見つめていることも、先生には見抜かれているのかもしれない。

「最近、無理しすぎてるんじゃないか?」

先生は、真剣な眼差しで言った。

「でも俺、別に平気です」

そんな、病院に行くほどでもないし、このくらい、慣れれば治るはず。そう思い込まないと、立っていられなかった。

「心療内科って、重症な人が行くだけじゃなくて、不安があったり、トラウマがあったりする時に、相談できる機関なんだ」

分かってる。でも、受け入れられない。

「僕たちは専門的な知識は持っていないから、分からないこともある。だから、そういう専門機関に行って適切な処置を受けるべきだと思う。こういう心理的なものは自分の努力で簡単に解決できるものではないから、医学的な治療を受けることで、今よりは楽になれるんじゃないかな」

考えたことが全くないわけではなかった。でもそういうのは、もっとひどい人が行くもんだって、心が壊れてたり、病んでたりする人が行くもんだって思ってた。でも、先生から見た俺は、そうなのだろうか。

自分では隠せているつもりだったのに、他人の目にはそう映っているのだと思うと、胸の奥が冷たくなった。

「…⋯俺は、そんなにおかしいですか」

つい声が震える。

「おかしくない。ただ、このままだと、これから先も苦しんで過ごさないといけないかもしれない。だから、少しでも生きやすくするために、相談してみるってだけ」
「でも、診療内科って…⋯」

正直、行きたくない。

「まぁ、親御さんとも相談してみるといい。」

相談できるはずがない。まともに会話すらしていないというのに。あの人に何て切り出せばいいのか、想像するだけで胃が重くなる。

*

教室に戻ると、碧たちが盛り上がっていた。適当に話に混ざる。でも、頭から先生との会話が離れなかった。

「わりーお前ら、俺、颯真に用があるからさ、先食っててよ」

碧は俺の袖を引っ張って教室から出る。
ほんと、よく気がつくな、碧は。どうして、俺が限界の時にだけ、こうやって連れ出してくれるんだろう。

「元気ないじゃん。どした?」

碧は、俺の顔をのぞき込む。碧になら、相談してもいいだろうか。でも、碧だってきっと変に思うよな…

「…⋯なんでもない」

こんなこと、碧に相談してなんて思われるか分からない。

「そっか。じゃ、俺の休憩に付き合ってよ」

碧は、それ以上何も聞かなかった。多分俺が、話したくないと思ったんだろう。
ほんと、優しい人。踏み込まない優しさというものがあるのだと、碧といると思い知らされる。

「…⋯やっぱ相談したい」

俺は、絞り出すような声で言った。

「うん」

話すのも話さないのも、俺の好きなようにして、ってそう言ってくれてるような目が優しくて、少しだけ、泣きそうになる。

「…⋯さっき、先生と話してて、診療内科勧められた」

俺の言葉に、碧は一瞬だけ驚いたような表情をするも、すぐにいつもの顔に戻って「そっか、話してくれてありがとう」と言う。

「…⋯俺ってさ、病気なのかな」

笑顔を作ろうとしても,上手く笑えない。そんな俺の様子を察したように碧は優しい顔をする。

「俺は、そういうのに詳しくないからその質問には答えられないけど…⋯先生は病気だと思ったから勧めたんじゃなくて、苦しみを抱え込まないで生きるための手段の一つとして提案したんじゃない?」

分かってる。分かってるけど…⋯ 頭では理解していても、心がついてこない。

「ま、たしかに、診療内科とか言われてもって感じだよなー」

碧は、おちゃらけた様子で壁に寄っかかる。わざと軽い空気を作ってくれているのが、痛いほど分かった。

「碧は、どう思う?」

碧が困るのをわかっていながら、俺は碧に意見を求めていた。俺は、碧になんて言って欲しいんだろう。それすらも自分ではわかっていなかった。

「ごめん、分かんねぇわ。でも、それは、颯真が決めるべきだと思うし、俺はどっちにしろ応援するよ」

それを聞いて、少しだけ、ホッとしてしまった。俺は、ダメだな…⋯

結局、誰かに背中を押してほしかったのか、止めてほしかったのか、それすら分からない。

「颯真はさ、やっぱり行きたくない?」

俺は、答えなかった。それが肯定を指すことくらい、分かっていながら。

「行った方がいいんだろうな、ってのは分かってるんだよ、でも…⋯行ったら、一線を越えるようなきがしてならないんだ」

俺は震える声で話す。

「そう?」
「え?」
「ようは今、颯真はトラウマのせいで苦しんでて、それを解決する方法を相談しに行くだけじゃん」

碧は軽い感じで言う。

「でも、精神科に行ってるとか誰かに知られたら、終わりだし」

軽蔑されて、病んでるって思われて、距離置かれる。今まで通りじゃいられなくなる。

「終わらないし終わらせねーよ」

俺の負の考えをぶった斬るように碧ははっきりとそう言い放った。

「もちろんバレたくないって気持ちは分かるから俺だって協力するよ。でも、颯真の周りにいる人は、お前が完璧だから好きなんじゃない。『中原颯真』っていう一人の人間として好きだから一緒にいるんだ。少なくとも、俺はそうだよ」
「碧…⋯」
「それに、もしバレてしまったとして、それだけで颯真のこと軽蔑するような奴がいたら、俺が殴ってやるから」

碧は、わざとらしく拳で殴るポーズをする。そんな姿に、思わず、ふっ、と笑ってしまう。

「先生に親と相談しろって言われたんだけどさ、俺、あれ以来まともに会話すらしてねーんだよな」

あれ以来、というのは、佐野のことがあった時のこと。碧は事情を知っているため、なんとなく察してくれる。

「優等生の颯真クンも、親子喧嘩はちゃんと長いよね〜」

そう言われて、俺は少しムッとする。

「分かってるよ、いつまでも許せない俺が悪いことくらい」

俺が不貞腐れた顔をすると、碧が笑ってきたので、「なんだよ」と聞くと、「可愛いなって」とニヤニヤする。

「優等生サマの裏の顔ってやつ?」
「うるさい」

からかわれているのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

「まぁでも、いーじゃん、許せないままで」

俺は碧の方を見る。

「無理に許す必要はないっしょ。それで颯真が悪になることなんてない。それほど傷つけられたってだけ。被害者側が、簡単に許す必要なんてないんだから」

碧は俺を責めない。俺の汚いところも、嫌な部分も、肯定してくれる。

「許せないままでいいから、言いたいことだけ言えばいいじゃん。不満とか、なんでも。診療内科のことも含めてさ」

『話す=許す』だと思っていた。でも、そっか、そういうわけではないのか。

「…⋯今日、帰ってから…⋯少しだけ、話してみようかな」

多分、碧以外にこんなこと言われても、響かなかったんだろうなぁ。碧だから、少しだけ頑張ってみようかな、って思えた。

*

家に帰ると、いつも通り気まづい雰囲気が漂っている。

「あ、おかえり…⋯」

普段なら無視して部屋に行くところ、今日は母さんの前で立ち止まった。

「ちょっといい?話があるんだけど…⋯」

突然話しかけられた母さんは動揺が隠せない様子であたふたとする。

「え、っと、どうしたの?」

俺はリビングにある机に座った。

「ごめん」

俺は冷たい口調で言った。母さんはわけが分からない様子で「何が…⋯?」と聞く。

「…⋯俺、優しいやつじゃないからさ、あの時からずっと母さんが許せなかったし、まだ許せてない。でも、何も言わずに避けるのは違うよな」

その言葉を聞いて、母さんは何も言わない。

「俺さ、あの日、佐野にキスされかけたことよりも、その後佐野が出て行ってから母さんに言われた言葉の方が、ずっと残ってたんだよ」

俺は続ける。

「あの時、母さんは、俺のせいでこうなった、って言った。でも、俺から言わせれば、母さんのせいでこうなったんだよ。俺は自分に非があったなんて、一ミリも思わない。」

母さんは俺をじっと見つめる。

「これが、俺の言いたかったこと。母さんも、言いたいことがあったら俺に言ってほしい」

母さんは、ゆっくりと口を開いた。

「ごめんなさい」

最初に出たのは、謝罪の言葉だった。

「私はあの時、何もしていない颯真のせいにした。自分が楽になるために。頭では分かってるのに、止められなかった。ごめんなさい、ほんとに、ごめんなさい…⋯」

母さんはポロポロと涙を流す。

「私、大好きだった佐野くんに裏切られて、ショックだった。だから、あなたは悪くないのに、あなたのせいにしないとやっていけなかった。颯真のことを産まなきゃ良かったなんて、思ってない。颯真を責めたこと、ずっと後悔してる。許さなくていいから、まだ私を、あなたの母親でいさせて欲しい⋯…」

それは、精一杯の彼女の言葉だった。

俺は感情に左右される方ではないから、それを聞いたところで、母さんのことを簡単には受け入れられないだろう。だけど、少しは考えてみてもいいのかもしれない。また、仲良い親子に戻れる日を。あの時から止まってしまった時計の針を動かすことができる日がくることを。

*

あの後、俺は精神科に行きたいことを、ぎこちない言葉で打ち明けた。母さんは驚いたように目を見開いたあと、何度も頷いて、「一緒に行こう」と言ってくれた。

「それで、結局行くことにしたんだ」

次の日の朝、俺は碧に昨日のことを話した。あの後、母さんは俺が精神科に行くことを認めてくれたので、今度の週末、一緒に行くことになった。

「碧のおかげかな」

母さんと話すことができたのも、精神科に行く決心ができたことも。

「え?いや、俺は何もしてねーけど…⋯」

碧がそう思うのは、碧の言葉が親切心ではなくて、本心だからなのだろう、と思う。それが俺にとっては嬉しかった。

「碧、あのさー」

俺は碧の方を見る。

「今度の週末、診療が終わったあとさ、クレープ奢ってよ」

本当は、クレープなんてどうでもよかった。ただ、診療が終わったあと、きっと、一番に顔を見たくなるような気がしたから。
碧は驚いた顔をして、すぐに優しい顔になる。

「いいよ、何個でも。一緒に食べよう」

誰になんと言われても、この人だけは、自分の味方でいてくれる、そんな気がしたんだ。