変わり果てた世界で、親友に恋するまでの物語

次の日も、俺は、変わらず学校に行った。学校に行かなかったら、事情を知っている碧に心配かけるって、分かってたから。

「よ、颯真」
「おはよう、碧」

碧と待ち合わせをして、朝早くに家を出たため、通学路に人はあまりいない。それでも、後ろから聞こえてくる足音とか、肩や腕がぶつかると、どうしても、あの時のことがフラッシュバックして、身体が少しだけ震えるし、足もすくんで歩幅も小さくなる。碧は、そんな俺に、何も言わずに合わせてくれた。

「おーっす、颯真!」

教室に入ろうとすると、クラスメイトが声をかけてきた。

「颯真、今日提出物あるらしいぞ」
「ああ、うん。知ってる。昨日急いでしたからね」
「まじ?写させてくれたりとか」
「自分でしなきゃダメだろ、それは」

変わらない。昨日のことは、碧以外、誰も知らない。

いつも通りのやり取りに、安心するのと同時に、自分だけが取り残されたような気分にもなった。

佐野はあの後逮捕された。今までのストーカーも佐野だったわけで、もう気にする必要はないのだ。

「ねー颯真くん、この前のテスト、一位だったんでしょ?良かったら、今度勉強教えて欲しいな」

クラスの女子は頬を赤く染めながら俺の方に来る。

「テストで分からないとこあってさ、今日とかどうかな」
「あー、ごめん。俺、今日用事があるから、今度でいい?」

本当は用事なんてない。でも、今日はそういう気にはなれなかった。

「え、颯真用事あんの!?サッカー誘おうと思ってたのに」

クラスのサッカー部の男子が残念そうにこっちを見る。
俺、サッカーそこまで得意じゃないんだけど…なんて、笑いながら、「ごめんごめん」とあやまる。

「じゃ、また今度しよーぜ!」

なんて言いながら、急に肩を組まれるので、思わず体がビクッと震えた。どう、しよう。体が上手く反応しない。大丈夫。この人は、アイツじゃない。こんなの、いつもの事だったのに。俺、おかしい。こんなに怖がるの、普通じゃない。

「ちょっとー、サッカーするなら俺も混ぜてよねー」

碧は、俺たちの間に入り、自然と俺と友達の距離を遠ざけるようにしてくれた。あまりにも自然な動きで、周りは誰も不審に思わなかったと思う。

「碧来たら女子みんなお前に行くんだよー」
「いやー、モテる男なんで」

碧は、笑ってるけど、笑ってない。

「颯真ー、飲み物奢って〜」

碧は、俺の袖を掴んだまま、教室から出す。教室では、碧と俺は仲良しコンビみたいなもんだから、「また碧がちょっかい出してるー」なんて笑い声が聞こえてくる。でも、碧が助けてくれたことは、分かってた。

「あんまり無理しすぎんなよ」

普段のチャラチャラした感じじゃなくて、少しだけ、真面目な様子で俺を見る。

「してないよ」

俺は、笑顔を作ってそう答えた。

「手。さっきからずっと震えてるけど?」

俺はバッと後ろに手を隠した。隠したところで、もう遅いのに。

「いつもの営業スマイルも、俺の前では崩していいから」

分かってるんだ、碧は。俺が、ずっと怯えていることに。
全員が全員、怖いわけではない。自分より大きい人とか、先生とかと廊下ですれ違う時、自然と体が強ばって心臓がキュッとなる。教室で急に大声を出されると、必要以上にビクってしてしまう。軽いノリで後ろから抱きつかれた時も、怖くて頭が真っ白になった。

昨日、怖いのは仕方がないと思っていた。けれど、次第に、自分は思っている以上に深刻なのかもしれないと分かってしまった。

俺は今、普通じゃない。こんな俺を知られたのが、情けなくて、苦しかった。誰にも気づかれないように振る舞うことが、こんなに疲れることだとは知らなかった。

「颯真!飯食おーぜ」
「あー悪い!俺、先生に呼ばれててさー」

本当は先生に呼ばれてなんかない。俺は、誰もいないところで一人で食べた。階段の踊り場に座って、パンを一口かじったけれど、味はほとんどしなかった。友達のことを怖いと思うわけではない。でも、ふいに何かが起きて、怯えたり、怖がったりしたら、異常だって、思われるかもしれない。

そうして、いつも通りの一日が過ぎて行った。
気がつけば窓の外はオレンジ色に染まっていて、陸上部の人たちが掛け声をしながらグラウンドを走り回ってるのが見える。
日差しが眩しく、日が当たっていない場所に移る。

「碧、ごめん。俺、今日先帰るわ」

俺は、碧にそう言って、急いで教室を出た。見られたくない。碧に、おかしいって、男のくせに怯えて気持ち悪いって、思われたくない。嫌われたくない。

もう外は暗い。

昨日もこのくらいの時間だったっけ…⋯

俺は早く帰ろうとスタスタと歩く。行きと同じ距離のはずなのに、一人だとこっちの方が遠く感じるのはなぜだろう。

俺は昨日のことを思い出した。

雨の匂い、足音、あの手の感触。

「…⋯ねえちょっと、君」

突然肩を叩かれたので、びっくりしてバッと振り返る。声が、なんとなく似ていた。背丈も。

まさか、あいつがまた、来たんじゃ───

「これ、落としたわよ」

ハンカチ…⋯

よく見ると、似てはいたが、アイツではなかった。当たり前だ、アイツは、捕まったんだから。

「…⋯すみません、ありがとうございます」

近所に住んでいるおじさんだったので、つい過剰に反応してしまったことを後悔した。

「ちょ、お前さん大丈夫か?すごく顔色悪いけど…⋯」

え⋯…?

「大丈夫です、すみません」
「そう⋯…?ならいいけど⋯…」

近所のおじさんは心配そうにしながら去っていった。

ほんとう、何やってんだ俺…⋯

俺は、その場に崩れ落ちた。あの時…⋯アイツに襲われそうになった時のことが、何度も頭をよぎる。膝から力が抜けて、アスファルトの冷たさが、手のひらにじわりと伝わってきた。

昨日のことなんてなんともないって、そう心に言い聞かせても、多分、ずっと怖いんだ。もう終わったんだ、って分かっていても、心の中では怖くて仕方がない。
俺は、誰もいない路上で、立ち上がれなくなって、上手く呼吸ができなくなる。

どうしよう、早く、立たなきゃ。こんなとこにいたら、邪魔になってしまう。
誰か、助けて…⋯

「…⋯颯真!」

暗闇から引きずりだすような、そんな声が聞こえて、俺は顔を上げた。

「あ、お⋯…?」

なんで…なんでお前は、いつも俺が来て欲しい時に、現れるんだろう。
なんか言わないと。でも、声がでない。

はぁ、はぁ…⋯

呼吸が浅い。軽く過呼吸状態になる。息が乱れて、治まらない。苦しい。

「落ち着け、大丈夫だから。いったんゆっくり息吐け」

碧は優しい声で言った。俺の前にしゃがみ込んで、目線を合わせてくれる。

「俺のこと見てろ」

なんで、碧は、こんなに優しいんだろう。俺が勝手に一人で帰って、一人でこんなふうになってるだけなのに。

「…⋯っ、はぁ、」

だんだんと落ち着いてくる。碧の声に合わせて息を吐くうちに、視界の端の暗闇が、少しずつ引いていった。

「そう、ここには敵はいない。もしいても俺が盾になる。だから、安心して」

優しい声が、胸に響く。怖くても、碧がいれば、大丈夫な気がしたんだ。

「碧、なんで⋯…俺、先帰るって、言ったのに」
「うん。走ってきた。連絡したのに既読つかないし、心配した」

スマホを見ると、俺を探すようなメールが来ていた。

「ごめん。ちょっと、取り乱しただけ。すぐよくなるから、もう行って、碧。バス来ちゃうよ」

俺は、精一杯平気なフリをしてそう言う。

「立ち上がれないくらい怖いくせに、平気なフリすんな、ばーか」

否定したいのに否定できない。これ以上、カッコ悪いところを見せたくないのに。

「颯真さ、今日ずっと避けてたろ」
「それ、は…⋯」

気づいてたんだ。いや、あんなあからさまにしてたら、そりゃ気づくか。

「俺、なんかした?」

碧は、傷ついたような表情をして言った。

「…⋯違う。碧は悪くない。俺がただ、嫌われたくなかったから…⋯」

碧は何も言わずに話を聞いてくれる。

「…⋯俺、怖いんだ。昨日から、ずっと。後ろから急に声かけられたり、自分より大きい人がぶつかったり触れられたりすると、アイツじゃないって、わかってるのに、どうしても、昨日のことを思い出してしまう。俺、おかしいんだよ。普通じゃない。碧だって、おかしいし気持ち悪いって思うだろ」

碧はうずくまった俺の背中をさすってくれる。大きな手のひらが、ゆっくりと、一定のリズムで動く。

「おかしいわけ、ないだろ」
「え?」

俺は碧の方に顔を向ける。碧は、苦しそうな、泣きそうな顔をしながら言った。

「あんな目にあって、怖くないわけがないんだよ。俺だって、襲われそうになってる颯真を見たら死ぬほど怖かったし、今でも少し怖い。それなのに、当事者の颯真が怖くないはずないよ。そこに男女なんて関係ない。怖くないとダメなんだ。怖くない方がおかしい」

その言葉が、胸に刺さる。

怖いのが、普通…⋯

ずっと「普通じゃない」と責め続けてきた自分に、初めて別の答えが与えられた気がした。

「…⋯昨日の夜、本当は怖くてずっと寝れなかったけど、碧のおかげで眠れたんだ」

気がつけば、勝手に話し始めていた。そんな俺の言葉を、碧は頷きながら聞いてくれる。

「学校行く時も、行ってからも、あいつはもういないって分かってるのに、ずっと、怖くて仕方なかった」

弱さを見せたくなかった。でも碧は、それが普通だって、言ってくれたから。弱音を吐いてもいいんだって思えたんだ。

「気づいてたよ、颯真、今日ずっと無理してること。本当、分かりやすいよな、お前。ま、クラスの奴らは気づいてなかったけど、俺にはバレバレ」

え…⋯?

「苦しい時は、苦しいって言ってよ。俺が助ける、なんて保証のない言葉は言えないけど、その代わり、気がすむまで一緒にいるから。」

自然と、肩の荷がおりたような気がした。

「立てるか、颯真」

碧に差し出された手を掴もうとするも、まだ少しだけ手が震えていた。恥ずかしくて手を隠そうとしたが、それに気づいた碧は自分から掴んで引っ張る。

怖がらせないように、触れられるのが怖かったらいつでも離していいと言うようにそっと触れるだけのような、優しい力で、それでも離さないように、ぎゅっと。

「行こ」

当たり前のように、家まで送ってくれる。碧とは手を繋いだまま。夜の道に、二人分の足音だけが響いている。昨日まで恐怖でしかなかった足音が、今は少しだけ心強かった。

歩いていると、喧嘩しているような怒声が聞こえてきて、それが、あの時のアイツの声に重なって、思わず繋いだ手をぎゅっと強く握る。

「あ、ごめん」

俺は、焦って手を緩める。

「だーいじょうぶ。怖くて当たり前なんだし」

そんな俺のことを察した碧は、いつものチャラい笑い方で、ぎゅっと握りしめてくれる。

「碧」

俺は、少しだけ震える声で碧の名前を呼んだ。

「んー?」

碧が俺に向ける顔は、どこまでも優しい。

「…⋯今日も、電話してもいい?」

多分まだ、夜はなかなか眠れないから。昨日みたいに、碧と話して気を紛らわせたい。
碧は一瞬目を見開いて、優しい顔で笑う。

「いいよ、いつでもかけて。絶対すぐ出るから」
「夜中でも?」
「当たり前じゃん。いつでもワンコールで出てやる」
「あはは、めっちゃ早いじゃん」

そんな俺の顔を、碧はじっと見る。

「え、何」
「いや?今日、初めて笑ってるとこ見たなー、って思っただけ」

碧はニヤッと笑う。

「いや、そんなこと…⋯」
「だって颯真、ずっと顔引きつってたし?俺、そういうのすぐ分かっちゃうからさ、俺といる時は、ほんとに笑いたいときだけ笑ってよ。今みたいに。」

どうしよう、顔、熱い。心臓の音だって、さっきよりもうるさくなっている。

繋いだ手から伝わる熱に、ギュッと締め付けられるこの胸の痛みに、気づかないふりをするなんて、できなかった。

そしてそれが恐怖とは違う種類の鼓動だということに、この時の俺は、まだ名前をつけられずにいた。