*
いまさら、その名前を聞いて動揺なんてしない。けど、お前がその名前を口にするなよ。誰のせいで、俺がこんなに…⋯
「ね、ねえ…⋯たまには夕飯一緒に食べない?」
俺のそんな思いも知らず、母はそんなことを言う。
「あー、ごめん。宿題が終わったあと食べるから置いといてほしいな」
俺は突き放すようにそう言った。
「そ、そう…⋯分かったわ。」
俺は早くその場を離れたくて、さっと自分の部屋に上がった。
俺は、あの時からずっと、母とまともに会話をしていない。階段を上がる背中に、母の視線を感じたけれど、振り返らなかった。
*
正直に言って、俺の人生は順風満帆だった。
昼休みになると、毎回、碧を含めた仲良くなったクラスメイトが複数人、それに加えて隣のクラスの楓と晴翔が俺の机の周りに集まって、購買で買ったパンを袋から取り出す。
「そういえば、碧って彼女とどうなったん?」
俺は、気になってたことを碧に聞いた。
「あー、別れた」
碧は思い出したように言う。
「またぁ!?」
碧と一年の時も同じクラスだった友達は呆れたように言った。というのも、碧は、これまで何回も付き合っては別れてを繰り返しているからだ。今回も、新学期始まる前の春休み中に別れたらしい。
「今回の彼女、結構可愛かったじゃん」
「俺、メンヘラ無理なんだよね〜。あの子、ストーカー気質っぽかったし」
それも、何回か聞いたことのある言葉だ。どうやら今回も彼女のメンヘラが原因で別れたのだろう。
「ストーカーって…⋯お前、メンヘラ製造機なんじゃねーの?」
と引き気味に聞かれたものの、
「そうかもー」
どうでも良さそうに泣きマネしている碧を見て、なんだか彼女が気の毒に思えてきた。
「てか、碧は誰とでも付き合いすぎなんだよ。どうせ、本気で好きなわけじゃないんでしょ?」
と俺が碧にそう言うが、碧は、「そうだけど?」と、まるで、何が悪いのか分からないというような表情を浮かべた。
「ストーカーといえばさぁ、知ってる?最近、この辺でストーカーらしき男の人がうろついてるらしいぞ。なんか、結構若い人だって」
クラスメイトがスマホを見ながら言った。
「じゃあ俺らはあんま関係ねーじゃん」
「さあ、分かんねーぞー?中には男好きの男だっているわけじゃん」
クラスメイトはニヤニヤとしながら言う。
「うげー、何それキモ。ホモじゃん」
「今のご時世、それ言ったら差別になるぞ(笑)それにほら、今はBLとか言われてるし」
他人事だからか、興味なさそうな反応を示している。まぁ、俺もそこまで気に止めてはいなかったのだが。
「颯真はどう思う?男同士の恋愛とか」
クラスメイトが俺に話を振る。
男同士の恋愛って。はは、何それ…⋯気持ち悪い。
「いやー、男同士とか無理でしょ、普通に考えて」
あ、やば…⋯ちょっと言いすぎたか。俺の意外な返答にクラスメイトは一瞬シーンとなるが、すぐに話題は変わる。
「ま、それはいいとして、颯真って彼女作らねーよな」
楓は不思議そうに尋ねた。
「まあね」
正直、俺は恋愛したいとは思わない。
恋愛がどれだけ人を傷つけることになるか、知ってるから、なかなか踏み出せないというのが、本音ではある。
「てか、碧、どした?さっきから黙って」
「え、あー…⋯ほら、颯真って彼女できたら俺らよりもそっち優先しそうじゃん?寂しい〜」
別に、もし仮にいたとしても俺は碧とか、友達といるのは好きだから、心配することないと思うけど…
「意外と碧って、颯真にべったりなとこあるしなー。なんか、碧と颯真は特別、って感じ」
クラスメイトはニヤニヤとしながら言った。
「はあ?別にちげーし」
碧は拗ねた子供みたいに口を尖らせる。
一瞬の沈黙が流れるも、みんなで一斉に吹き出す。
恋人なんていらないから、ずっと碧と、みんなといられればいい。この時間が楽だ。恋人なんて作って、自分勝手な欲望だけで自我をコントロールできなくなるような過度の執着心を持つのも、相手からのそれを浴びるのも、俺にはきっと向いていない。こうして、適当に笑って過ごすのが、いちばん楽しい。
*
多分、バチが当たったんだろうな。そう思わないと、あの日の出来事に説明がつかない気がした。
友達もたくさんいて、勉強もできる、クラスの人気者。みんなに平等に接して、愛想振りまいて、そんな、偽善者。それでも、楽しかったんだよ、俺は。そんな日々が一瞬で壊れてしまうなんて、思ってもいなかったくらいには。失うことを想像する習慣さえ、あの頃の俺にはなかった。
そして、いつも通りの毎日の中で、その日は突然やってきた。予兆なんて、どこにもなかった。
帰り道。碧と分かれた後、俺はすぐに後悔することになった。一人になった途端、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、周りの音が遠のいていく。
カツカツカツ
後ろから靴の音が聞こえる。最初は気のせいだと思った。けれど、足を止めると音も止まり、歩き出すとまた鳴り始める。流石の俺でも分かってしまった。
俺は、クラスメイトの話を思い出す。
『最近、この辺でストーカーらしき男の人がうろついてるらしいぞ』
でも、あいつらは男って言っていた。男が、俺のことをわざわざストーカーするだろうか。それとも、別の人か、俺の思い違いか。
頭の中で、都合のいい可能性ばかりを並べてしまう。
いや、それはない。これは完全につけられている。
俺は、怖くなって歩くスピードを上げた。それに合わせるように、足音がなるスピードも早くなる。今日は雨も降っているし、もともと人気のない道だから、俺とストーカー以外に誰もいない。傘を叩く雨音のせいで、距離がどれだけ縮まっているのかさえ、正確には分からなかった。
どうしよう。ここで警察に電話なんてしたら、何されるか分からない。通報している間に、追いつかれてしまうかもしれない。
その時、ふと、碧の顔が浮かんだ。
こういう頭が真っ白になった時、どうしても、真っ先に頭に浮かぶのは、いつも碧なんだ。
ダメだ、どう考えても迷惑に決まってる。それでも、恐怖の方が強かった俺は、スマホでライン画面を開いた。濡れた指で、画面が上手く反応しない。
『たすけて』
頭が回らなくて、状況を説明することなんてできずに、ただそれだけ送った。
時間稼ぎ、しないと。
碧が来てくれるかもしれない。その可能性だけが、細い糸のように俺を繋いでいた。
「あの」
俺は振り向いて、そいつに声をかけた。声が震えないように、腹に力を込める。
「さっきから付けてますよね?警察呼びますよ」
スマホをポケットから取り出す。
「…⋯ははっ、ストーカー呼ばわりなんて酷いなあ」
そいつの顔が見えた瞬間、俺は言葉を失った。時間が止まったみたいに、雨の音さえ聞こえなくなる。
「なんで、お前が⋯…」
そこにあったのは、かつて母を裏切った、変態野郎…佐野の姿だった。こいつとは、あれ以来会っていなかった。
「久しぶりだね、颯真くん。大人になったね」
佐野は、あの時から変わっていない。人懐っこい笑顔も、柔らかい声も、あの日のままだ。それが余計に気味が悪かった。
「…⋯なんのつもり?」
俺は佐野を睨む。
「僕はただ、久しぶりに美恵子さんに会いに来ただけだよ」
美恵子というのは、俺の母のことだ。こいつ、どの面下げて…
「———もうやめて!」
静けさの中、母の声が響く。傘もささずに駆けてきたのか、母の髪は雨で濡れていた。母は、ツカツカと佐野の前まで歩いてきた。
「美恵子さんまで、僕が何をしたっていうんだよ」
佐野は、不気味な笑顔を母に向けた。
「これ、うちに送りつけてきたのはあなたでしょう?」
母が見せたのは、何枚もの写真だった。
…⋯は?
「なんだよこれ…⋯」
そこには、俺の隠し撮りされたものが写されていた。登校する後ろ姿、コンビニの前、友達と笑っている横顔。どれも、全く見覚えのない角度だった。
気がつかなかった…⋯。
「…⋯チッ、どいつもこいつも…⋯」
佐野は、今まで見せたこともないような表情でこっちを睨む。優しげな仮面が剥がれ落ちて、そこにあったのは、ただの歪んだ執着だった。
「毎度毎度、邪魔しやがって⋯…!」
佐野の拳が上がる。
「…⋯母さん‼︎」
俺は咄嗟に母の前に出た。その瞬間、佐野の拳が頬に当たり、俺は、コンクリートの上に倒れ込む。口の中に血の味が広がった。
「颯真!大丈夫!?」
殴られたところもそうだが、固いコンクリートの上に倒れ込んだせいで、全身が痛い。
佐野は、倒れた俺の身体を足でぐっと踏んだため、俺は身動きが取れなくなってしまった。普段はこのくらいでへばったりしないのに、あの時のことが蘇って体が動かない。頭では逃げろと叫んでいるのに、手足は鉛みたいに重かった。
俺は佐野を思いっきり睨む。
「どうして睨むんだい?僕はただ、君のことが好きなだけなのに…⋯」
あの時は、少しばかり整っていると思っていたこいつの顔は、見るだけでアレルギー反応出そうなほど気持ちが悪かった。
「君のためにあんなババアに取り入って、やっと君に近づけたと思っていたのに…⋯」
もう、誤魔化す気もないようだ。母が目の前にいるというのに、そんな言葉を平気で吐けることに、吐き気がした。
「ああそうか、これはね、君が悪いんだ。僕はこんなにも君のことを思っているのに、僕のことを悪者扱いするから」
人というのは分からないもんだ。俺はあの時、こんなにヤバい奴のことを受け入れてしまっていたなんて。俺は、怖さと同時に自分に失望した。あの違和感を無視した自分を、殴ってやりたかった。
「…⋯気持ち悪いんだよ…⋯」
俺の声に、佐野はとぼけたような顔でこっちを見る。
「キモいっつってんだよ!近寄んな変態‼︎」
俺は大声を出す。
「は?」
佐野は意味が分かったようで、怒りを込み上げているのがわかる。
「…⋯調子乗んなよ」
佐野の声のトーンが一気に下がる。
その時、佐野はポケットからカッターを取り出した。刃が出される、カチカチという乾いた音が、やけに大きく響いた。
足が凍りつく。
「せっかく優しくしてやったのに、恩を仇で返してんじゃねーよ」
佐野は俺の上に覆いかぶさってきて、カッターナイフを使って服を破る。
「このままヤってもいいんだぞ?」
俺にしか聞こえない声で、耳元で喋る。生温かい息が耳にかかり、頭の中が真っ白になった。
あ、これ…⋯やばい。
その時、俺の前にサッと人影が現れた。その人は、自分の通学カバンで佐野を殴り、突き飛ばした。
「間一髪…⋯かな」
そいつは…⋯いや、碧は、俺の方を振り向く。肩で息をしていて、制服はびしょ濡れだった。
「なんで…⋯」
なんで、あんな、一言だけで、すぐ来てくれるの…⋯
「颯真、大丈夫か!?」
碧は佐野を逃げないように押さえつけながら、心配そうにこっちを見る。
冷静になって周りを見ると、人通りが少ない場所ではあるが、騒ぎを聞きつけた住人がちらほらいる。窓から顔を出している人や、傘を持ったまま立ち尽くしている人の姿が見えた。
「多分、住民も見てるし、警察がもうすぐ来るはず」
碧の言う通り、その後すぐに警察が来た。おそらく、騒動を聞いていた誰かが警察に連絡をしたんだろう。
やはり、ストーカーは佐野だったことがわかった。そして、佐野は家のポストに、何通も俺の隠し撮りの写真を入れていた上、佐野のスマホからも多くの隠し撮りが見つかった。
母は、届いた写真が俺に見られないように、自分の部屋に保管していたらしい。ポストの前で母が隠したのは、これだったのだ。あの時の不自然な質問の意味が、やっと繋がった。
「ごめん、迷惑かけて」
俺のためにわざわざバスに乗らずに走って来てくれたことが、申し訳なかった。
「いーんだよ、そんなことは。それに…⋯助けて、って頼ってくれたのはちょっと嬉しかったし」
本当に迷惑なんて思ってなさそうに言うこいつらが、眩しくて仕方ない。
「本当に、ごめ⋯…」
いや、そうじゃないな。俺は、言いかけてやめた。
「…⋯ありがとう」
嬉しかったんだ、心配して来てくれたことが。
「颯真、怪我してるから一応病院行くように、って…⋯あ、ごめんね、お話中⋯…。車で送るから、今から病院行こう」
母は、申し訳なさそうに一歩下がった。
「いえ…⋯俺はもう帰ります。次のバス逃したらもうないし…⋯気を付けてな、颯真」
碧が帰った後、俺は母に連れられて病院へ向かった。大した怪我ではなかったものの、あまり無理はしないようにと言われた。車の中では、母も俺も、一言も喋らなかった。
家に帰ったあと、俺はベッドの中で縮こまった。何度も何度も、あの男に襲われそうになった光景が頭によぎる。目を閉じても、閉じなくても、同じ場面が繰り返される。
俺は、震える体をぎゅっと抑える。
怖い。思い出すだけで、呼吸が浅くなって、苦しくなる。
「颯真、大丈夫───」
「大丈夫だから、ほっといて」
ドアの外から聞こえてきた母の声を遮る。その声ですら、俺にとっては恐怖だったのだ。
その時、プルルルと電話がかかってきた。俺は、それにすらびっくりしてしまった。そして、一瞬だけ、アイツだったらどうしよう、って思ってしまった。
だから、画面に表示された碧の名前に、俺は安堵の息を漏らした。
『…⋯颯真、大丈夫か?』
心配そうな声。
「うん、平気。心配してくれてありがとな」
本当は平気なんかじゃなかった。でも、碧にこれ以上心配かけたくなかったから、嘘ついた。
『…⋯そっか。なぁ、俺今暇だからさ、ちょっと電話付き合ってくんね?嫌だったら、全然いいんだけどさ』
碧の声は、落ち着く。さっきまで怖かったのも、少しだけ、和らいだ。きっと碧は、俺が平気なフリしてることに気づいて、電話してくれてるんだ。自分のためみたいな言い方して、本当は俺のためだってわかってる。
「うん、いいよ」
他愛のない話をした。課題忘れて怒られた、とか、期間限定のお菓子買ってみたけどイマイチだった、とか。ほんとに、どうでもいい話。それでも、その時間だけは、恐怖を忘れられた。
だんだんと眠くなってくると、碧は、
『眠そうだな。サンキュ、俺に付き合ってくれて。おやすみ』
と言って、俺が眠りについたら、電話を切った。そのことを、俺は後になって知ることになる。通話履歴には、俺が寝落ちした後も、しばらく繋がったままの時間が残っていた。
いまさら、その名前を聞いて動揺なんてしない。けど、お前がその名前を口にするなよ。誰のせいで、俺がこんなに…⋯
「ね、ねえ…⋯たまには夕飯一緒に食べない?」
俺のそんな思いも知らず、母はそんなことを言う。
「あー、ごめん。宿題が終わったあと食べるから置いといてほしいな」
俺は突き放すようにそう言った。
「そ、そう…⋯分かったわ。」
俺は早くその場を離れたくて、さっと自分の部屋に上がった。
俺は、あの時からずっと、母とまともに会話をしていない。階段を上がる背中に、母の視線を感じたけれど、振り返らなかった。
*
正直に言って、俺の人生は順風満帆だった。
昼休みになると、毎回、碧を含めた仲良くなったクラスメイトが複数人、それに加えて隣のクラスの楓と晴翔が俺の机の周りに集まって、購買で買ったパンを袋から取り出す。
「そういえば、碧って彼女とどうなったん?」
俺は、気になってたことを碧に聞いた。
「あー、別れた」
碧は思い出したように言う。
「またぁ!?」
碧と一年の時も同じクラスだった友達は呆れたように言った。というのも、碧は、これまで何回も付き合っては別れてを繰り返しているからだ。今回も、新学期始まる前の春休み中に別れたらしい。
「今回の彼女、結構可愛かったじゃん」
「俺、メンヘラ無理なんだよね〜。あの子、ストーカー気質っぽかったし」
それも、何回か聞いたことのある言葉だ。どうやら今回も彼女のメンヘラが原因で別れたのだろう。
「ストーカーって…⋯お前、メンヘラ製造機なんじゃねーの?」
と引き気味に聞かれたものの、
「そうかもー」
どうでも良さそうに泣きマネしている碧を見て、なんだか彼女が気の毒に思えてきた。
「てか、碧は誰とでも付き合いすぎなんだよ。どうせ、本気で好きなわけじゃないんでしょ?」
と俺が碧にそう言うが、碧は、「そうだけど?」と、まるで、何が悪いのか分からないというような表情を浮かべた。
「ストーカーといえばさぁ、知ってる?最近、この辺でストーカーらしき男の人がうろついてるらしいぞ。なんか、結構若い人だって」
クラスメイトがスマホを見ながら言った。
「じゃあ俺らはあんま関係ねーじゃん」
「さあ、分かんねーぞー?中には男好きの男だっているわけじゃん」
クラスメイトはニヤニヤとしながら言う。
「うげー、何それキモ。ホモじゃん」
「今のご時世、それ言ったら差別になるぞ(笑)それにほら、今はBLとか言われてるし」
他人事だからか、興味なさそうな反応を示している。まぁ、俺もそこまで気に止めてはいなかったのだが。
「颯真はどう思う?男同士の恋愛とか」
クラスメイトが俺に話を振る。
男同士の恋愛って。はは、何それ…⋯気持ち悪い。
「いやー、男同士とか無理でしょ、普通に考えて」
あ、やば…⋯ちょっと言いすぎたか。俺の意外な返答にクラスメイトは一瞬シーンとなるが、すぐに話題は変わる。
「ま、それはいいとして、颯真って彼女作らねーよな」
楓は不思議そうに尋ねた。
「まあね」
正直、俺は恋愛したいとは思わない。
恋愛がどれだけ人を傷つけることになるか、知ってるから、なかなか踏み出せないというのが、本音ではある。
「てか、碧、どした?さっきから黙って」
「え、あー…⋯ほら、颯真って彼女できたら俺らよりもそっち優先しそうじゃん?寂しい〜」
別に、もし仮にいたとしても俺は碧とか、友達といるのは好きだから、心配することないと思うけど…
「意外と碧って、颯真にべったりなとこあるしなー。なんか、碧と颯真は特別、って感じ」
クラスメイトはニヤニヤとしながら言った。
「はあ?別にちげーし」
碧は拗ねた子供みたいに口を尖らせる。
一瞬の沈黙が流れるも、みんなで一斉に吹き出す。
恋人なんていらないから、ずっと碧と、みんなといられればいい。この時間が楽だ。恋人なんて作って、自分勝手な欲望だけで自我をコントロールできなくなるような過度の執着心を持つのも、相手からのそれを浴びるのも、俺にはきっと向いていない。こうして、適当に笑って過ごすのが、いちばん楽しい。
*
多分、バチが当たったんだろうな。そう思わないと、あの日の出来事に説明がつかない気がした。
友達もたくさんいて、勉強もできる、クラスの人気者。みんなに平等に接して、愛想振りまいて、そんな、偽善者。それでも、楽しかったんだよ、俺は。そんな日々が一瞬で壊れてしまうなんて、思ってもいなかったくらいには。失うことを想像する習慣さえ、あの頃の俺にはなかった。
そして、いつも通りの毎日の中で、その日は突然やってきた。予兆なんて、どこにもなかった。
帰り道。碧と分かれた後、俺はすぐに後悔することになった。一人になった途端、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、周りの音が遠のいていく。
カツカツカツ
後ろから靴の音が聞こえる。最初は気のせいだと思った。けれど、足を止めると音も止まり、歩き出すとまた鳴り始める。流石の俺でも分かってしまった。
俺は、クラスメイトの話を思い出す。
『最近、この辺でストーカーらしき男の人がうろついてるらしいぞ』
でも、あいつらは男って言っていた。男が、俺のことをわざわざストーカーするだろうか。それとも、別の人か、俺の思い違いか。
頭の中で、都合のいい可能性ばかりを並べてしまう。
いや、それはない。これは完全につけられている。
俺は、怖くなって歩くスピードを上げた。それに合わせるように、足音がなるスピードも早くなる。今日は雨も降っているし、もともと人気のない道だから、俺とストーカー以外に誰もいない。傘を叩く雨音のせいで、距離がどれだけ縮まっているのかさえ、正確には分からなかった。
どうしよう。ここで警察に電話なんてしたら、何されるか分からない。通報している間に、追いつかれてしまうかもしれない。
その時、ふと、碧の顔が浮かんだ。
こういう頭が真っ白になった時、どうしても、真っ先に頭に浮かぶのは、いつも碧なんだ。
ダメだ、どう考えても迷惑に決まってる。それでも、恐怖の方が強かった俺は、スマホでライン画面を開いた。濡れた指で、画面が上手く反応しない。
『たすけて』
頭が回らなくて、状況を説明することなんてできずに、ただそれだけ送った。
時間稼ぎ、しないと。
碧が来てくれるかもしれない。その可能性だけが、細い糸のように俺を繋いでいた。
「あの」
俺は振り向いて、そいつに声をかけた。声が震えないように、腹に力を込める。
「さっきから付けてますよね?警察呼びますよ」
スマホをポケットから取り出す。
「…⋯ははっ、ストーカー呼ばわりなんて酷いなあ」
そいつの顔が見えた瞬間、俺は言葉を失った。時間が止まったみたいに、雨の音さえ聞こえなくなる。
「なんで、お前が⋯…」
そこにあったのは、かつて母を裏切った、変態野郎…佐野の姿だった。こいつとは、あれ以来会っていなかった。
「久しぶりだね、颯真くん。大人になったね」
佐野は、あの時から変わっていない。人懐っこい笑顔も、柔らかい声も、あの日のままだ。それが余計に気味が悪かった。
「…⋯なんのつもり?」
俺は佐野を睨む。
「僕はただ、久しぶりに美恵子さんに会いに来ただけだよ」
美恵子というのは、俺の母のことだ。こいつ、どの面下げて…
「———もうやめて!」
静けさの中、母の声が響く。傘もささずに駆けてきたのか、母の髪は雨で濡れていた。母は、ツカツカと佐野の前まで歩いてきた。
「美恵子さんまで、僕が何をしたっていうんだよ」
佐野は、不気味な笑顔を母に向けた。
「これ、うちに送りつけてきたのはあなたでしょう?」
母が見せたのは、何枚もの写真だった。
…⋯は?
「なんだよこれ…⋯」
そこには、俺の隠し撮りされたものが写されていた。登校する後ろ姿、コンビニの前、友達と笑っている横顔。どれも、全く見覚えのない角度だった。
気がつかなかった…⋯。
「…⋯チッ、どいつもこいつも…⋯」
佐野は、今まで見せたこともないような表情でこっちを睨む。優しげな仮面が剥がれ落ちて、そこにあったのは、ただの歪んだ執着だった。
「毎度毎度、邪魔しやがって⋯…!」
佐野の拳が上がる。
「…⋯母さん‼︎」
俺は咄嗟に母の前に出た。その瞬間、佐野の拳が頬に当たり、俺は、コンクリートの上に倒れ込む。口の中に血の味が広がった。
「颯真!大丈夫!?」
殴られたところもそうだが、固いコンクリートの上に倒れ込んだせいで、全身が痛い。
佐野は、倒れた俺の身体を足でぐっと踏んだため、俺は身動きが取れなくなってしまった。普段はこのくらいでへばったりしないのに、あの時のことが蘇って体が動かない。頭では逃げろと叫んでいるのに、手足は鉛みたいに重かった。
俺は佐野を思いっきり睨む。
「どうして睨むんだい?僕はただ、君のことが好きなだけなのに…⋯」
あの時は、少しばかり整っていると思っていたこいつの顔は、見るだけでアレルギー反応出そうなほど気持ちが悪かった。
「君のためにあんなババアに取り入って、やっと君に近づけたと思っていたのに…⋯」
もう、誤魔化す気もないようだ。母が目の前にいるというのに、そんな言葉を平気で吐けることに、吐き気がした。
「ああそうか、これはね、君が悪いんだ。僕はこんなにも君のことを思っているのに、僕のことを悪者扱いするから」
人というのは分からないもんだ。俺はあの時、こんなにヤバい奴のことを受け入れてしまっていたなんて。俺は、怖さと同時に自分に失望した。あの違和感を無視した自分を、殴ってやりたかった。
「…⋯気持ち悪いんだよ…⋯」
俺の声に、佐野はとぼけたような顔でこっちを見る。
「キモいっつってんだよ!近寄んな変態‼︎」
俺は大声を出す。
「は?」
佐野は意味が分かったようで、怒りを込み上げているのがわかる。
「…⋯調子乗んなよ」
佐野の声のトーンが一気に下がる。
その時、佐野はポケットからカッターを取り出した。刃が出される、カチカチという乾いた音が、やけに大きく響いた。
足が凍りつく。
「せっかく優しくしてやったのに、恩を仇で返してんじゃねーよ」
佐野は俺の上に覆いかぶさってきて、カッターナイフを使って服を破る。
「このままヤってもいいんだぞ?」
俺にしか聞こえない声で、耳元で喋る。生温かい息が耳にかかり、頭の中が真っ白になった。
あ、これ…⋯やばい。
その時、俺の前にサッと人影が現れた。その人は、自分の通学カバンで佐野を殴り、突き飛ばした。
「間一髪…⋯かな」
そいつは…⋯いや、碧は、俺の方を振り向く。肩で息をしていて、制服はびしょ濡れだった。
「なんで…⋯」
なんで、あんな、一言だけで、すぐ来てくれるの…⋯
「颯真、大丈夫か!?」
碧は佐野を逃げないように押さえつけながら、心配そうにこっちを見る。
冷静になって周りを見ると、人通りが少ない場所ではあるが、騒ぎを聞きつけた住人がちらほらいる。窓から顔を出している人や、傘を持ったまま立ち尽くしている人の姿が見えた。
「多分、住民も見てるし、警察がもうすぐ来るはず」
碧の言う通り、その後すぐに警察が来た。おそらく、騒動を聞いていた誰かが警察に連絡をしたんだろう。
やはり、ストーカーは佐野だったことがわかった。そして、佐野は家のポストに、何通も俺の隠し撮りの写真を入れていた上、佐野のスマホからも多くの隠し撮りが見つかった。
母は、届いた写真が俺に見られないように、自分の部屋に保管していたらしい。ポストの前で母が隠したのは、これだったのだ。あの時の不自然な質問の意味が、やっと繋がった。
「ごめん、迷惑かけて」
俺のためにわざわざバスに乗らずに走って来てくれたことが、申し訳なかった。
「いーんだよ、そんなことは。それに…⋯助けて、って頼ってくれたのはちょっと嬉しかったし」
本当に迷惑なんて思ってなさそうに言うこいつらが、眩しくて仕方ない。
「本当に、ごめ⋯…」
いや、そうじゃないな。俺は、言いかけてやめた。
「…⋯ありがとう」
嬉しかったんだ、心配して来てくれたことが。
「颯真、怪我してるから一応病院行くように、って…⋯あ、ごめんね、お話中⋯…。車で送るから、今から病院行こう」
母は、申し訳なさそうに一歩下がった。
「いえ…⋯俺はもう帰ります。次のバス逃したらもうないし…⋯気を付けてな、颯真」
碧が帰った後、俺は母に連れられて病院へ向かった。大した怪我ではなかったものの、あまり無理はしないようにと言われた。車の中では、母も俺も、一言も喋らなかった。
家に帰ったあと、俺はベッドの中で縮こまった。何度も何度も、あの男に襲われそうになった光景が頭によぎる。目を閉じても、閉じなくても、同じ場面が繰り返される。
俺は、震える体をぎゅっと抑える。
怖い。思い出すだけで、呼吸が浅くなって、苦しくなる。
「颯真、大丈夫───」
「大丈夫だから、ほっといて」
ドアの外から聞こえてきた母の声を遮る。その声ですら、俺にとっては恐怖だったのだ。
その時、プルルルと電話がかかってきた。俺は、それにすらびっくりしてしまった。そして、一瞬だけ、アイツだったらどうしよう、って思ってしまった。
だから、画面に表示された碧の名前に、俺は安堵の息を漏らした。
『…⋯颯真、大丈夫か?』
心配そうな声。
「うん、平気。心配してくれてありがとな」
本当は平気なんかじゃなかった。でも、碧にこれ以上心配かけたくなかったから、嘘ついた。
『…⋯そっか。なぁ、俺今暇だからさ、ちょっと電話付き合ってくんね?嫌だったら、全然いいんだけどさ』
碧の声は、落ち着く。さっきまで怖かったのも、少しだけ、和らいだ。きっと碧は、俺が平気なフリしてることに気づいて、電話してくれてるんだ。自分のためみたいな言い方して、本当は俺のためだってわかってる。
「うん、いいよ」
他愛のない話をした。課題忘れて怒られた、とか、期間限定のお菓子買ってみたけどイマイチだった、とか。ほんとに、どうでもいい話。それでも、その時間だけは、恐怖を忘れられた。
だんだんと眠くなってくると、碧は、
『眠そうだな。サンキュ、俺に付き合ってくれて。おやすみ』
と言って、俺が眠りについたら、電話を切った。そのことを、俺は後になって知ることになる。通話履歴には、俺が寝落ちした後も、しばらく繋がったままの時間が残っていた。

