変わり果てた世界で、親友に恋するまでの物語

三人と別れて、俺は一人墓にやって来た。手には先程買った花束と線香が入った袋。歩くたびに、カサカサと音が鳴るのが聞こえる。夕方の墓地は、風の音以外何も聞こえないほど静かだった。父さんの墓につくと、花を添え、線香に火をつけた。細く立ちのぼる煙を見つめながら、手を合わせる。

こんな息子でごめんな、父さん。

俺は心の中で、そっと謝った。
家に帰ると、ポストの前で深刻そうな顔をしている母と目があった。

「あ、颯真、おかえり…⋯」

母は、急いで何かを隠した。背中に回された手が、わずかに震えていた気がする。

「ただいま」

でも、俺にとってはそんなことどうでもよかった。俺は、作り笑いを浮かべて、先に家に入る。

「あのさ颯真、最近…⋯周りで変わったこととかない?その…⋯」

はあ?何言ってんだ…⋯?

「…⋯ないけど」

母が言いたいことがさっぱり分からない。

「そっか、ならいいの」

母は、安心したような顔でこっちを見る。意味が分からない。
俺は、そのことについて母に何も聞かなかった。意地を張っていたんだ。しかしそれは、後に後悔することになる。
母の、取り繕った笑顔が脳裏に浮かぶ。鬱陶しい。偽善者。まぁ、それは俺も一緒か。俺と母の関係は、すこぶる悪かった。

「ね、ねえ、その…⋯あれから、佐野くんとあったりした?」

佐野…⋯その名前を母の口から聞いたとき、思わず殴りたくなってしまった。
なんで、そこでその名前出すかなぁ…⋯せっかく、忘れようと人が努力してるというのに。

*

俺が中学三年の頃、母は突然、会わせたい人がいると言い出した。
何が言いたいかは、なんとなく予想できていた。

『お母さんね、今、お付き合いしてる方がいるの。その人と再婚しようと思ってて』

母は、幸せそうに笑っている。

『そう』

俺が気付いていないとでも思っていたのだろうか。突然オシャレに気を使いだしたり、いつもより笑うようになったり、休日に出かけることだって増えた。

『今度、会って欲しいんだけど⋯…』

母は、俺の顔色を伺いながらそう言った。

『分かった』

めんどくさいが、特に断る理由もなかったため、そう答えた。

『あ、でも、その人はね、颯真のこと認識あるって言ってた。私と颯真が一緒にいる時に見られてたっぽいの』
『ふーん』

正直、どうでもよかった。父さんが亡くなって、悲しいのは事実だが、ずっと引きずってメソメソしていくわけにもいかないと分かっていたから、再婚してほしくないとか思うことはなかった。中学生ながらにして、母は母親という以前に一人の人間としての幸せを掴もうとしていることくらい理解していた。

待ち合わせは、日曜の夕方だった。
俺たちは、待ち合わせ場所のレストランに、早めに着いて再婚相手が来るのを待つ。母は、普段は着ないような綺麗なブラウスに、ロングスカートを履いている。

『お待たせ』

母の再婚相手は、少し走ってきたようで、わずかに息を切らしていた。

『初めまして、颯真くんだよね?僕は佐野です』

佐野さんは、俺に目線を合わせ、会釈した。佐野さんは、俺が予想していたよりも若く、母よりも年下であろうことはすぐに分かった。

『佐野くん、この子が私の息子の⋯…』
『颯真です』

俺は、母が紹介する前に自分で名前を言った。

『よろしくね』

佐野さんは、手を差し出したので、俺は握手をした。
レストランに入ると、佐野さんは、なんでも好きなものを食べるように言った。

『佐野くんはね、○○会社で働いてるの。すごいよね〜』

俺でも知っている大企業だ。母は佐野さんのことを俺に自慢する。ずいぶんご執心のようだ。

『いえいえ、そんなことないですよ』

佐野さんは漫画に出てくるような好青年で、いかにもモテそうな感じだった。

『またまた〜』

自分の親が他人にデレデレしてるところを見るのは気まずく、早く帰りたいと思いながら運ばれた料理を食べる。

『美味しい?』

佐野さんは俺に聞いた。

『はい、美味しいです。ありがとうございます。』

奢ってもらっている身として、しっかりお礼は伝える。

『そっか、よかった。』

俺の返答に、佐野さんは笑顔でそう言った。その時、俺は一瞬、何か違和感を感じた。けれど、気のせいだと思い、俺はその違和感を無視した。

『佐野くん、優しいでしょう?』

母はこそっと俺にそう言った。

『そうだね』

この時、俺がこの違和感の正体に気づいていれば、あんなことには、ならなかったのかもしれない。

そこから先は、トントン拍子で物事が進んでいった。

『お世話になります』

佐野さんの家は、普通の家庭より少し大きな一軒家だった。

『ごめんね、汚くて』

佐野さんはそう言っているが、俺の元の家とは比べ物にならないほど部屋の中は整理されている。

『ぜんぜん汚くないわよ〜』

母のいつもよりワントーン高い声が聞こえてげんなりする。

『颯真くん、よかったらLINE交換しよう』

佐野さんは、後ろから俺の肩を叩くと、スマホを差し出した。

『あ、はい』

そうして、俺らは家族としての日々を過ごしていった。

『見て颯真くん、最新のゲーム機、欲しいっつってたでしょ』
『本当だ、いいの?もらって』
『そりゃあもちろん、颯真くんのために奮発したからな〜』

佐野さんは距離が近かった。だからだろうか、始めはよそよそしかった感じも、時が経てば次第に慣れていった。

『佐野くんと仲良くやれているようでよかったわ』

母は、俺と佐野さんの関係に満足しているようだった。
確かに佐野さんは優しい。けれど、どうしても佐野さんに対する違和感が拭えなかった。その違和感は、小さな棘のように、消えないまま胸の奥に刺さっていた。

そんな時、事件は起きた。

ガシャンッ——

その衝撃音で、俺は目覚めた。

『何、してるの⋯…?』

母は、驚いた顔でこっちを見つめている。それもそのはずだった。ベッドで寝ている俺の目の前には、佐野さんの顔がドアップで近づいていた。
そこで、初めて俺は、恐怖という感情を覚えた。

『違うんだ、これは⋯…!』

俺は状況が飲み込めず、困惑した。佐野さんは、焦ったように体を退る。
それを見て、幼い俺でさえ、なんとなく分かった。佐野さんは、俺にキスしようとしていた。疑問はいくつも思い浮かぶけど、そんなことはどうでもいい。彼は俺のことを、そういう対象として見ていたのだ。

その後は、とにかく地獄だった。

『仕方ないだろ⋯…!好きになったんだから』

泣き叫ぶ母に、逆ギレする佐野さん。

落ち着いて話し合い、結局、佐野さんは息子である俺目当てで母と再婚したことが分かった。佐野さんは、土下座をしながら謝った。俺は、中学生にして顔はいいし、背も高くて大人びている。だからといって、そういう目で見られているとは思うはずがなかった。

気持ち悪い。このまま殺してやりたいくらいだ。母のいうこの人の優しさというのは、下心から来たものだった。
俺は本気で怖いと思った。

俺に残ったのは、そいつに対する、軽蔑の気持ちだけだった。

その騒動の後、俺と母は元の家に戻った。家の中では、しばらく冷たい空気が流れていた。

『どうして⋯…』

母は、まだ現実を受け入れられていないようで、ボソボソと独り言を言っている。まるで、父さんが亡くなった連絡を受けた時と同じような状況だ。
俺は励ますことなんてできなかった。

『あんたのせいよ⋯…』

佐野さんの前とは打って変わった低い声。それだけははっきりと聞こえた。

『…⋯は?』

この人は、何を言ってるんだ?

『これも全部、あんたのせいなんだから⋯…!あんたさえいなければ、私は佐野くんと結婚できていたのに⋯…!もう、その顔を見せないで、気持ち悪い、あんたなんて、産まなきゃよかった』

意味がわからない。あいつが勝手に私利私欲のためにやったことで、俺に非は一ミリもない。そもそも、あいつは最初から俺目的で母を利用していたのだ。一番の被害者はどう考えても俺だ。なのにどうして、自分が一番の被害者のような顔をしているんだろう。

『…⋯お前何言ってんの?』

母に対して、初めて『お前』と呼んだ。そして俺は、佐野さんと同じくらい、母のことを軽蔑した。

きっと母は、自分でも俺に非はないことは分かっている。それでも、今は感情のコントロールができていないのだろう。だからと言って、俺のせいにしていいはずはない。なんで、こんな親を持ってしまったんだろう。気持ち悪い。
その日から、俺は母と関わらなくなった。
それだけじゃない。俺は、簡単に人を信用することができなくなった。

『颯真、そういえばお前、お母さんの再婚の話どうなったん?』

碧には親が再婚するかもと伝えていたから、学校でそう聞かれる。

『あー、なしになった』

俺は平気なふりをしてそう言った。あんなやつのことも、息子にあたる母のことも思い出したくない。
碧と話していると、クラスメイトの男子…宮下が「なあ」と声をかけてきた。

『お前、親父に手出されそうになったってまじ?(笑)』
『…⋯は?』

俺は、背筋が凍りついた。

なんで、そのこと…⋯

『いや、なんか外でそれっぽいこと言い争ってなかった?』

聞かれていた⋯…?あの滑稽な場面を⋯…?

握りしめた拳の中で、爪が手のひらに食い込んでいた。

それだけで、恥ずかしさも溢れてくる。俺は顔に出さないように必死で冷静さを保つ。

というか、わざわざそれ本人に言う?普通に考えてこれは黙っておくべきと思わないわけ?本当、バカばっかでダルい。

『え、なになに、何の話?』

また一人増えた⋯…さっさとどっか消えろよ。

『こいつがさぁ』

宮下は、俺にお構いなしで勝手に話し始める。

『なにデマ広げようとしてんだよ』

俺は宮下の頭を軽く叩く。

『痛っ』
『お前が変なこと言ってるからだろ。なんで俺が手出されんだよ』

バレたくない。これ以上、惨めになりたくないと思った。

『なんだ、勘違いかよ、おもんねー』

宮下は、あからさまに興味をなくす。
どうしよう、他にも聞いてる人がいて、言いふらされたら⋯…いや、そんなことはどうでもいい。
俺は、この空間にいることが、怖かった。周りの笑い声が、全部自分に向けられているように聞こえて、息が詰まりそうだった。

『ね〜今日低気圧ひどくない?頭痛あい』

碧は頭を抑える。

『俺、授業でたくないし保健室行ってこようかな。颯真ついてきて』

碧は俺の腕を引っ張る。

『はあ?一人でいけるだろ』
『ちょっと、俺が突然倒れたらどうすんの』

倒れるわけねーだろ、と頭の中でツッコミを入れつつも、あの場から抜け出させてくれた碧には感謝しかなかった。

『あれ、先生いないじゃん。ラッキー』

碧はベッドにドンっと座る。

『じゃ、俺戻るわ』

戻ろうとすると、碧は俺の腕を掴んだ。

『何言ってんだよ、お前も居ろよな。一人とか暇なんだけど』

俺は暇つぶしかよ…⋯

『はいはい』

どうせ今日はあと一限で終わりだし、保健室でさぼるのも悪くない。
俺は、ソファに寝っ転がった。
あーあ、なんか、一周回って虚しいわ…⋯

天井のシミをぼんやり数えていると、胸の中に溜まっていたものが、じわじわと形になっていく。

『…⋯親ガチャ失敗って、こういうことを言うんだろうなぁ…⋯』
『何急に⋯…』

というか、こんなこと考えてる時点で、自分が思ってるよりも母のことを無自覚に信頼していたのかもしれないと思った。
それが、あんな十以上年下の男を性的な目で見る様なクソキモ野郎を連れてきて、それでいて自分の息子を責めるとかどうかしてんだろ…⋯

俺はあの男の顔を思い出した。気色悪りぃ…⋯母も、あの男も、まとめて消えてしまえば、死んでしまえばいいのに。

考えれば考えるほど、そういう汚い感情が溢れてやまない。

『なあ碧、俺って性格悪い?』
『いや、知らないけど…⋯』

いきなりこんなこと言われて碧が困ることは分かってるのに、喋ってないと気が済まなかった。

俺、何聞いてんだろ、惨めだな…⋯

『…⋯これは俺の考えなんだけどさ、性格の良し悪しなんて、分かるわけなくない?と思うんだけど』

さっきの、知らない、という言葉は答える気がなかった訳ではなく、碧の答えだったのかもしれない。

『だって、いくら外面がよくて、皆に親切で優しい人でも、実際に何を考えてるかなんてその人にしか分からないし、結局、良い奴とか、悪い奴とかの基準って自分にとっての都合が良い奴か悪い奴ってことじゃん』

意外にも碧は真面目に考えて答えてくれる。

『…⋯さっき宮下が言ってたこと、本当なんだ』

言うつもりなんてなかったのに、気づけばそんなことを口にしていた。

『え…⋯?』
『まぁ、多少語弊はあるけど。再婚相手が、実は俺目的で近づいてきたっぽくてさ、襲われそうになった。それで、母さんは、こうなったのは俺のせいだ、って』

碧は、怒っているのか、拳をギュッと握りしめているのがわかる。

『それ、颯真は悪くねーじゃん』

碧は、苦しそうな顔をして言った。なんで、碧が苦しそうなんだよ…⋯

『…⋯俺さ、最近嫌なことばっか考えてんだよ。死ねとか、消えろとか、そんなんばっか』

こんなこと言ったら、碧にまで幻滅されるかもしれないのに、話したくなる。楽になりたい。

『それで?』

碧は真剣な顔でこっちを見る。

『そういう黒い感情ばっかで埋まって、俺は悪くないはずなのに、自分がすごい嫌な奴に思えて、苦しい』

からかったりせずに、ちゃんと話を聞いてくれる碧だから、自分の溜め込んだ思いを、吐き出せる。
多分俺は、誰かに、苦しいって言いたかったんだと思う。

『…⋯颯真がいくら自分を嫌な奴だと思おうが、俺は別に思わないし嫌いにならないから。俺みたいに、そのままのお前を好きだって奴がいるんだ。それが答えじゃん。それに、そんなふうに言われたら、そう思うのも当然でしょ』

その言葉は、俺が一番欲しかったものなのかもしれない。

あれ、俺…⋯なんで…⋯

気がつけば、ポロポロと涙が溢れて止まらなくなっていた。泣くつもりなんてないし、今まで泣いたことなんて、ほとんどなかったのに…⋯カッコ悪い。

俺は、見られないように、碧に背を向ける。
そんな俺に、碧は何も言わないし、何も聞かない。
多分碧は、気付いてたんだ。俺の置き場のない感情に。
保健室にわざわざ連れてきたのだって、俺に気を遣ってくれたのだろう。

今はただ、碧の不器用な優しさが嬉しかった。

『…⋯碧、ありがとな』

涙がおさまると、無意識に碧に礼を言っていた。

『はあ?何が…⋯』

ずっと一緒にいたから分かる。低気圧で頭痛いとか、どう考えてもこいつの嘘だ。

『保健室に来たの、俺のためなんかなーって』

俺がそう言うと、碧は嫌そうな顔をする。

『何言ってんの?颯真クン自意識過剰〜』

実際どうだったかはおいといて、俺が碧に救われたのは事実だ。
一回泣けば、結構スッキリして、蟠りは少しだけ晴れたような気がした。時間も経てば、母も自分の中で感情の整理がついてきたようで、今まで通りの生活が戻ってきたような感じがする。

ただ、俺と母の関係だけは、修復されなかった。というよりも、俺が一方的に母のことを避けるようになった。
傷つけた人間を簡単に受け入れられるほど、俺は優しくない。

ただ、その時は、それでいいと思った。まだ自分の中では整理できていないというのもあるし。もう、こいつのことなんて忘れよう、って。そう、思っていたんだ