鳥居の横に立つ、風化した石柱には、兎道神社と書かれていた。
「あっ」
鳥居の真正面――社殿の前に一人の男が立っていた。
白い兎を腕に抱いた男の髪は、なんと真っ白だった。
(あれが、まさか――)
随身らに緊張が走り、右近を庇うように前に出た。
一行は、荒れた参道を通って、社殿の前に立つ男の方へと進む。
「この廃神社に何用だ?」
艶のある低音が響いた。
こちらを見据える真っ赤な双眸、長く白い髪――子兎を撫でながら、目を瞠るほどの長身の美男子が静かに佇んでいた。
「……あの、もしかして、あなたがイナバさまでしょうか?」
対峙しているだけで、圧倒される威厳――
「如何にも。私が因幡白兎命だ」
「!」
(イナバノシロウサギノミコトって、もしかして神……!?)
(白くてふわふわでモフモフで可愛い……これほどその言葉を体現している存在などいない)
「これは姫さまも惚れるわ……」
思わず右近が呟いた。
「そなたら、ひょっとして、私の娘を知っているのか?」
「娘?」
兎神は、懐から天女の人相書きを取り出して見せた。
そこに描かれていたのは、あの六の娘でしかなかった。
「私の養い子なのだが、どうやら都で迷子になったようなのだ。連れて帰りたいので、行方を知っているなら、どうか教えてはくれまいか?」
(――養い子、娘? 姫さまと言っていることがどうも違うような?)
「あなたさまは、姫さまのご婚約者なのでは?」
「婚約者? 一体、何のことだ? ひょっとして、あれがそう吹聴しているのか?」
(つまり、イナバさまは姫さまの養親であって、婚約者などではない――)
右近にとって、それなら話は早かった。
「イナバさま。あなたのお嬢さま、姫さまは、今上帝に見初められ、中宮にと望まれておいでです」
「は?」
兎神にとって、まさに寝耳に水だった。よりにもよって、娘が下界で降りた先が、内裏だったとは――
「どうか、姫さまの入内をお認め頂きたく……」
右近は深く頭を下げた。
姫の意向はともかく、養親であるイナバさまの許可さえ取れれば、姫の入内の弊害がなくなる話なのだ。
「――認められる訳がなかろう」
兎神の言葉に、右近は顔を上げた。
「私たちは人ではないのだ。天の理として、人と交わることは基本許されていない」
「イナバさま、帝は天照大神の天孫の血筋です。神の子孫ですので、資格はございます」
「あれは、娘はなんと言っている?」
「姫さまも入内を前向きに受け入れておられます。昨夜は帝の寝所でお休みになられました」
「!!」
すると、途端に兎神の纏っている気配が変わった。
「娘は帝と共寝をしたと申すか?」
「は、はい」
(本当は同じ部屋で寝起きしただけで、まだ契ってはおられぬけれど)
「……娘と会いたい」
兎神には、到底信じられなかった。
あの自分にべったりの娘が、他の男をあっさり受け入れる筈がなかった。
(他の男……? 私は何故、そんな言い方を?)
「それでは、内裏へ共においで下さいませ」
兎神を伴って、内裏へ帰還した右近たちは、真っ直ぐ天女のいる縫殿へ向かった。
兎神が、白い長い髪を靡かせて歩く様は、すれ違う女房をはじめとした女性たちの溜め息を誘った。
「あの方はどなた?」
「凄く素敵……」
あっという間に、女性たちの羨望の的となった兎神は、女性に途中で話しかけられても、歯牙にもかけなかった。
その表情はずっと険しい。
「早く娘のいる場所へ案内しろ」
ようやく発した言葉はそれで、右近はなんだか気後れした。
(姫さまが、主上と一夜を共にしたことを伝えてから、機嫌がどうにも悪いのよね)
ようやく縫殿に到着し、裏手に回ると、その場に天女の姿は見当たらなかった。
その場にいた雑仕女に尋ねる。
「姫さまは、いずこへ?」
すると、先輩雑仕女は右近の背後に立つ兎神の存在に気付き、「あっ」と小さく声を上げた。
「ひょっとして、あんたが、イナバさま?」
兎神は、眉を顰めながら、先輩雑仕女を一瞥しただけで、何も言わなかった。
「姫さまなら、承香殿の女御さまに呼ばれて、連れて行かれたよ」
「承香殿へ?」
右近は途端に頭が痛くなってきた。
「承香殿へ参りましょう」
右近と兎神は、すぐに承香殿へ向かった。
取り次ぎを女房に頼むと、
「この泥棒猫がーーーー!!」
御殿の奥から、格子戸を揺らす勢いの罵声が響き渡った。
「やめよ、韶子やめぬか!!」
叫ぶ女とそれを制止する男の声が、廊下まで筒抜けで、右近は状況を一瞬で理解した。
(中に主上もおられる……)
覚悟して部屋の中へ踏み込むと、まず目に飛び込んだのは散乱した几帳や調度品、そして並び立つように向かい合う男女の姿だった。
髪を振り乱し、乱れた着物で立ち尽くす承香殿の女御である韶子と主上、その背後に庇われて震える天女の姿が――
「そんなどこの馬の骨とも分からない女を、中宮にするなんて絶対に許せない!」
「どこの馬の骨なんて言い方はするな。六の娘は、内大臣の養女として入内させる。そなたと弘徽殿二人でどうか六の娘を支えてやってくれ」
「そんなこと、簡単に聞き入れられる筈がないでしょう?」
そんな二人が言い争う中を、兎神は静かに横切った。
そして帝の背後でしゃがみこんでいた天女に向かって、ただ一言。
「そなた、そこで何をしている?」
「えっ?」
ゆっくり顔を上げた天女は、目の前に立つ兎神の真っ赤な双眸をただ見つめた。
「イナバさま……?」
「……ったく、水浴びに行っていつまでも帰らぬから、心配して探しておった。こんなところでそなたは、一体何をしておるのだ?」
「ご、ごめんなさい、うわーーーーん!!」
天女は立ち上がると、兎神の首に両手を伸ばして抱き付いた。
突然、この場に割って入り、天女に抱き付かれた白髪の男に、その場の誰もが不思議がった。
「そなたは、一体何者じゃ?」
呆気に取られた韶子が、兎神に問うた。
「私は因幡白兎命だ」
「イナバ……?」
「私の娘を迎えに来た」
天女は泣きじゃくり、兎神にしっかり抱き付いて離れない。
「イナバさま、イナバさま、イナバさま!」
「……娘? 婚約者だと聞いていたが?」
そう言う帝を、兎神は冷たく一瞥した。
「そなたが私の娘に手を出した男か?」
「勝手な真似をして、ただで済むと思っているのか?」
兎神の赤い双眸はさらに赤く輝き、その身に纏う気配も尋常ではない圧を帯びていく――
しかし帝も、兎神の睨みに怯まなかった。
「私は本気だ。神よ、あなたがその娘の父だというのなら、あなたにきちんと結婚の許可を頂きたい」
「嫌です!! 私はイナバさまの妻になるんです!!」
「はぁ?」
韶子が素っ頓狂な声を上げた。
「私は帝の后になど、なりたくありません。イナバさまと結婚して、イナバさまの妻になります。ずっとイナバさまと一緒にいたいんです!」
「……そなたたちは親子ではないのか?」
韶子がそう尋ねると、すかさず天女が答えた。
「私はイナバさまに育てられただけです。私のお師匠で、育ての親で、そして私の夫となる方です!!」
「イナバさま、私と結婚して下さい!」
「……むう」
兎神は娘に対して複雑な思いを抱いていた。
保護者として、師匠として、幼い頃から娘を導いてきたが、娘の気持ちが自分に向いているのを知っていて、ずっと見て見ぬ振りをしていた。
娘の眼差しは真剣そのものだ。
他の男に取られたと思った時は、胸が締め付けられるような気持ちになった。
あれが嫉妬というものならば、自分も心のどこかで娘に心を許していたのかもしれない。
「……結婚するかどうかは、おいおい決めよう」
「結婚しないとは言わないんですね? それなら結婚するしかないでしょう?」
「う、うーん……」
娘の前で、兎神はたじろぐ。
右近はこの状況を、どうすることも出来ずにただ呆然と眺めていた。
「なんなのこれ……」
天女は兎神の両頬に手を当て、その赤い瞳を愛おしそうに見つめながら、早口で捲し立てた。
「それと、イナバさま! 私、この人とは何でもないんです。本当に誤解なんです。仕方なく同じ部屋で寝ただけです。ちゃんと結界敷いて寝たんで、私の身は清いままです!」
「……そなたは結局、無事なのだな?」
「はい。無事です。羽衣を失くしちゃって、帰れなくなっていただけです」
「やはり、羽衣を失くしていたか……」
シュンと俯く天女に、兎神はついいつものように小言を言う。
「大体そなたはだらしがないのだ。どうせ水浴びの際に、その辺に適当に脱ぎ捨てたのだろう?」
「……ごめんなさい」
そんな二人のやり取りを見て、すっかり冷静さを取り戻した韶子は、天女に向かって問い掛けた。
「では、そなたはその神と結婚するのだな? 入内はせぬと申すのだな?」
「はい。イナバさまと結婚します!」
「そんな、姫よ……私はどうなるのだ?」
情けない声を上げる帝を、兎神が再び睨み付けた。
「図に乗るな人間、己の立場を弁えよ」
「主上、その娘はあなたのことなど露ほども思っておりませぬ」
韶子が宥めるように、帝の肩を叩いた。
「主上には私がおります。きっと、弘徽殿の照子も同じ気持ちですよ」
「韶子……」
韶子と帝が苦笑いを浮かべて見つめ合った。
「イナバさま、私の羽衣を帝が持っているのですが、返してくれません」
「……何だと?」
キッと再び赤い目を輝かせて帝を睨み付けると、帝はとうとうバツが悪そうに兎神から目を逸らした。
「あれはそなたら人の世にあってはならぬもの。分かったら、さっさと返すのだ」
「……分かった。返そう」
帝の命により、蔵人が運んできた物は、お札塗れの山盛りになった塩漬けだった。
「あーっ! 納戸で見たやつだ」
「術で封印されている。これでは気配など探れまい」
兎神が横目でチラリと見て言った。
「だから、目の前にあっても分からなかったのね……」
兎神がお札を外し、塩漬けになった羽衣を取り出して天女に渡す。
それを首に掛けると、塩がパラパラと顔にかかった。
「……しょっぱい」
「さぁ、これで一安心だな」
やれやれと嘆息する兎神に、天女が言った。
「では、ちょっと着替えてきます!」
「早くせい」
天の衣装に着替え、戻ってきた天女の肩を抱き寄せ、兎神が言った。
「では、帰るか」
「あっ!」
突然、何かを思い出したように声を上げ、申し訳なさそうに兎神を見上げた。
「ごめんなさい、イナバさま。私、まだ帰れません……」
「は? そなた今さら何を言っておる?」
(まさか、あの帝の妻になりたいとでも?)
しかし、兎神の心配は杞憂に終わった。
「洗濯物、取り込んで畳まないと」
「は?」
「今日の洗濯物、まだ取り込んで畳んでないのです。ですから、終わるまで少し待ってて貰えませんか?」
縫殿の内室で、たくさんの洗濯物を手際良く畳む天女の周りを、眷属の子兎たちが跳ね回っている。
「あんたたち、ちょっと邪魔しないの!」
その様子をのんびり見守る兎神に、天女が言った。
「イナバさま、ぼーっと見てないで手伝って下さい」
「それはそなたの仕事であろう?」
ぷーっとむくれる天女を、微笑ましく兎神が見つめている。
「帰ったら、すぐ結婚しましょうね!」
「結婚するとは言ってない」
即答した兎神に、天女は目を潤ませた。
「えーっ、私のこと嫌いなんですか?」
「私は怠け者は大嫌いなのだ」
「それって、イナバさまが余裕ぶっこいて寝てしまって、亀に負けたからでしょう?」
「あれは私は負けたのではない。わざと負けてやったのだ」
内室が静かになった後――
誰もいない部屋の中、綺麗に畳まれた洗濯物だけが積んであった。
了
「あっ」
鳥居の真正面――社殿の前に一人の男が立っていた。
白い兎を腕に抱いた男の髪は、なんと真っ白だった。
(あれが、まさか――)
随身らに緊張が走り、右近を庇うように前に出た。
一行は、荒れた参道を通って、社殿の前に立つ男の方へと進む。
「この廃神社に何用だ?」
艶のある低音が響いた。
こちらを見据える真っ赤な双眸、長く白い髪――子兎を撫でながら、目を瞠るほどの長身の美男子が静かに佇んでいた。
「……あの、もしかして、あなたがイナバさまでしょうか?」
対峙しているだけで、圧倒される威厳――
「如何にも。私が因幡白兎命だ」
「!」
(イナバノシロウサギノミコトって、もしかして神……!?)
(白くてふわふわでモフモフで可愛い……これほどその言葉を体現している存在などいない)
「これは姫さまも惚れるわ……」
思わず右近が呟いた。
「そなたら、ひょっとして、私の娘を知っているのか?」
「娘?」
兎神は、懐から天女の人相書きを取り出して見せた。
そこに描かれていたのは、あの六の娘でしかなかった。
「私の養い子なのだが、どうやら都で迷子になったようなのだ。連れて帰りたいので、行方を知っているなら、どうか教えてはくれまいか?」
(――養い子、娘? 姫さまと言っていることがどうも違うような?)
「あなたさまは、姫さまのご婚約者なのでは?」
「婚約者? 一体、何のことだ? ひょっとして、あれがそう吹聴しているのか?」
(つまり、イナバさまは姫さまの養親であって、婚約者などではない――)
右近にとって、それなら話は早かった。
「イナバさま。あなたのお嬢さま、姫さまは、今上帝に見初められ、中宮にと望まれておいでです」
「は?」
兎神にとって、まさに寝耳に水だった。よりにもよって、娘が下界で降りた先が、内裏だったとは――
「どうか、姫さまの入内をお認め頂きたく……」
右近は深く頭を下げた。
姫の意向はともかく、養親であるイナバさまの許可さえ取れれば、姫の入内の弊害がなくなる話なのだ。
「――認められる訳がなかろう」
兎神の言葉に、右近は顔を上げた。
「私たちは人ではないのだ。天の理として、人と交わることは基本許されていない」
「イナバさま、帝は天照大神の天孫の血筋です。神の子孫ですので、資格はございます」
「あれは、娘はなんと言っている?」
「姫さまも入内を前向きに受け入れておられます。昨夜は帝の寝所でお休みになられました」
「!!」
すると、途端に兎神の纏っている気配が変わった。
「娘は帝と共寝をしたと申すか?」
「は、はい」
(本当は同じ部屋で寝起きしただけで、まだ契ってはおられぬけれど)
「……娘と会いたい」
兎神には、到底信じられなかった。
あの自分にべったりの娘が、他の男をあっさり受け入れる筈がなかった。
(他の男……? 私は何故、そんな言い方を?)
「それでは、内裏へ共においで下さいませ」
兎神を伴って、内裏へ帰還した右近たちは、真っ直ぐ天女のいる縫殿へ向かった。
兎神が、白い長い髪を靡かせて歩く様は、すれ違う女房をはじめとした女性たちの溜め息を誘った。
「あの方はどなた?」
「凄く素敵……」
あっという間に、女性たちの羨望の的となった兎神は、女性に途中で話しかけられても、歯牙にもかけなかった。
その表情はずっと険しい。
「早く娘のいる場所へ案内しろ」
ようやく発した言葉はそれで、右近はなんだか気後れした。
(姫さまが、主上と一夜を共にしたことを伝えてから、機嫌がどうにも悪いのよね)
ようやく縫殿に到着し、裏手に回ると、その場に天女の姿は見当たらなかった。
その場にいた雑仕女に尋ねる。
「姫さまは、いずこへ?」
すると、先輩雑仕女は右近の背後に立つ兎神の存在に気付き、「あっ」と小さく声を上げた。
「ひょっとして、あんたが、イナバさま?」
兎神は、眉を顰めながら、先輩雑仕女を一瞥しただけで、何も言わなかった。
「姫さまなら、承香殿の女御さまに呼ばれて、連れて行かれたよ」
「承香殿へ?」
右近は途端に頭が痛くなってきた。
「承香殿へ参りましょう」
右近と兎神は、すぐに承香殿へ向かった。
取り次ぎを女房に頼むと、
「この泥棒猫がーーーー!!」
御殿の奥から、格子戸を揺らす勢いの罵声が響き渡った。
「やめよ、韶子やめぬか!!」
叫ぶ女とそれを制止する男の声が、廊下まで筒抜けで、右近は状況を一瞬で理解した。
(中に主上もおられる……)
覚悟して部屋の中へ踏み込むと、まず目に飛び込んだのは散乱した几帳や調度品、そして並び立つように向かい合う男女の姿だった。
髪を振り乱し、乱れた着物で立ち尽くす承香殿の女御である韶子と主上、その背後に庇われて震える天女の姿が――
「そんなどこの馬の骨とも分からない女を、中宮にするなんて絶対に許せない!」
「どこの馬の骨なんて言い方はするな。六の娘は、内大臣の養女として入内させる。そなたと弘徽殿二人でどうか六の娘を支えてやってくれ」
「そんなこと、簡単に聞き入れられる筈がないでしょう?」
そんな二人が言い争う中を、兎神は静かに横切った。
そして帝の背後でしゃがみこんでいた天女に向かって、ただ一言。
「そなた、そこで何をしている?」
「えっ?」
ゆっくり顔を上げた天女は、目の前に立つ兎神の真っ赤な双眸をただ見つめた。
「イナバさま……?」
「……ったく、水浴びに行っていつまでも帰らぬから、心配して探しておった。こんなところでそなたは、一体何をしておるのだ?」
「ご、ごめんなさい、うわーーーーん!!」
天女は立ち上がると、兎神の首に両手を伸ばして抱き付いた。
突然、この場に割って入り、天女に抱き付かれた白髪の男に、その場の誰もが不思議がった。
「そなたは、一体何者じゃ?」
呆気に取られた韶子が、兎神に問うた。
「私は因幡白兎命だ」
「イナバ……?」
「私の娘を迎えに来た」
天女は泣きじゃくり、兎神にしっかり抱き付いて離れない。
「イナバさま、イナバさま、イナバさま!」
「……娘? 婚約者だと聞いていたが?」
そう言う帝を、兎神は冷たく一瞥した。
「そなたが私の娘に手を出した男か?」
「勝手な真似をして、ただで済むと思っているのか?」
兎神の赤い双眸はさらに赤く輝き、その身に纏う気配も尋常ではない圧を帯びていく――
しかし帝も、兎神の睨みに怯まなかった。
「私は本気だ。神よ、あなたがその娘の父だというのなら、あなたにきちんと結婚の許可を頂きたい」
「嫌です!! 私はイナバさまの妻になるんです!!」
「はぁ?」
韶子が素っ頓狂な声を上げた。
「私は帝の后になど、なりたくありません。イナバさまと結婚して、イナバさまの妻になります。ずっとイナバさまと一緒にいたいんです!」
「……そなたたちは親子ではないのか?」
韶子がそう尋ねると、すかさず天女が答えた。
「私はイナバさまに育てられただけです。私のお師匠で、育ての親で、そして私の夫となる方です!!」
「イナバさま、私と結婚して下さい!」
「……むう」
兎神は娘に対して複雑な思いを抱いていた。
保護者として、師匠として、幼い頃から娘を導いてきたが、娘の気持ちが自分に向いているのを知っていて、ずっと見て見ぬ振りをしていた。
娘の眼差しは真剣そのものだ。
他の男に取られたと思った時は、胸が締め付けられるような気持ちになった。
あれが嫉妬というものならば、自分も心のどこかで娘に心を許していたのかもしれない。
「……結婚するかどうかは、おいおい決めよう」
「結婚しないとは言わないんですね? それなら結婚するしかないでしょう?」
「う、うーん……」
娘の前で、兎神はたじろぐ。
右近はこの状況を、どうすることも出来ずにただ呆然と眺めていた。
「なんなのこれ……」
天女は兎神の両頬に手を当て、その赤い瞳を愛おしそうに見つめながら、早口で捲し立てた。
「それと、イナバさま! 私、この人とは何でもないんです。本当に誤解なんです。仕方なく同じ部屋で寝ただけです。ちゃんと結界敷いて寝たんで、私の身は清いままです!」
「……そなたは結局、無事なのだな?」
「はい。無事です。羽衣を失くしちゃって、帰れなくなっていただけです」
「やはり、羽衣を失くしていたか……」
シュンと俯く天女に、兎神はついいつものように小言を言う。
「大体そなたはだらしがないのだ。どうせ水浴びの際に、その辺に適当に脱ぎ捨てたのだろう?」
「……ごめんなさい」
そんな二人のやり取りを見て、すっかり冷静さを取り戻した韶子は、天女に向かって問い掛けた。
「では、そなたはその神と結婚するのだな? 入内はせぬと申すのだな?」
「はい。イナバさまと結婚します!」
「そんな、姫よ……私はどうなるのだ?」
情けない声を上げる帝を、兎神が再び睨み付けた。
「図に乗るな人間、己の立場を弁えよ」
「主上、その娘はあなたのことなど露ほども思っておりませぬ」
韶子が宥めるように、帝の肩を叩いた。
「主上には私がおります。きっと、弘徽殿の照子も同じ気持ちですよ」
「韶子……」
韶子と帝が苦笑いを浮かべて見つめ合った。
「イナバさま、私の羽衣を帝が持っているのですが、返してくれません」
「……何だと?」
キッと再び赤い目を輝かせて帝を睨み付けると、帝はとうとうバツが悪そうに兎神から目を逸らした。
「あれはそなたら人の世にあってはならぬもの。分かったら、さっさと返すのだ」
「……分かった。返そう」
帝の命により、蔵人が運んできた物は、お札塗れの山盛りになった塩漬けだった。
「あーっ! 納戸で見たやつだ」
「術で封印されている。これでは気配など探れまい」
兎神が横目でチラリと見て言った。
「だから、目の前にあっても分からなかったのね……」
兎神がお札を外し、塩漬けになった羽衣を取り出して天女に渡す。
それを首に掛けると、塩がパラパラと顔にかかった。
「……しょっぱい」
「さぁ、これで一安心だな」
やれやれと嘆息する兎神に、天女が言った。
「では、ちょっと着替えてきます!」
「早くせい」
天の衣装に着替え、戻ってきた天女の肩を抱き寄せ、兎神が言った。
「では、帰るか」
「あっ!」
突然、何かを思い出したように声を上げ、申し訳なさそうに兎神を見上げた。
「ごめんなさい、イナバさま。私、まだ帰れません……」
「は? そなた今さら何を言っておる?」
(まさか、あの帝の妻になりたいとでも?)
しかし、兎神の心配は杞憂に終わった。
「洗濯物、取り込んで畳まないと」
「は?」
「今日の洗濯物、まだ取り込んで畳んでないのです。ですから、終わるまで少し待ってて貰えませんか?」
縫殿の内室で、たくさんの洗濯物を手際良く畳む天女の周りを、眷属の子兎たちが跳ね回っている。
「あんたたち、ちょっと邪魔しないの!」
その様子をのんびり見守る兎神に、天女が言った。
「イナバさま、ぼーっと見てないで手伝って下さい」
「それはそなたの仕事であろう?」
ぷーっとむくれる天女を、微笑ましく兎神が見つめている。
「帰ったら、すぐ結婚しましょうね!」
「結婚するとは言ってない」
即答した兎神に、天女は目を潤ませた。
「えーっ、私のこと嫌いなんですか?」
「私は怠け者は大嫌いなのだ」
「それって、イナバさまが余裕ぶっこいて寝てしまって、亀に負けたからでしょう?」
「あれは私は負けたのではない。わざと負けてやったのだ」
内室が静かになった後――
誰もいない部屋の中、綺麗に畳まれた洗濯物だけが積んであった。
了
