天女は兎神のお嫁さんになりたい

「いつまで油を売っているんだ?」

日が暮れかかっても天女が戻らぬので、兎神(うさがみ)は機織りをしていた手を止めた。

(水浴びに行って、ここまで遅いとは……)

人型のまま庵の外に出て、辺りを見回していると、眷属の一羽の子兎が、こちらに向かって駆けてきた。

「お前一人なのか? あやつはどうした?」

「キーッ、キーッ!!」

子兎は何かを必死で訴えている。

「あやつがまた何かやらかしたのか?」

「キーキーッ!!」

(いや、何を言ってるのかさっぱり分からん……)

己の眷属ながら、子兎の言葉は分からなかったが、天女に何かただならぬ事態が起きたことは察しがついた。

「案内せよ」

「キーッ!」

子兎が駆け出したので、その後を追う。

嫌な胸騒ぎがした。天女の気配を探っても、まるで感じ取れなかった。

天の川のほとりに到着すると、天女の沓(くつ)が揃えて置いてあった。

「クゥクゥ!」

川のほとりには残りの子兎たちがいた。
皆、下流の方を向いて、悲しそうな鳴き声を上げている。

「まさか、あやつ流されたのか?」

天の結界内であれば、滅多なことにはならない――己の神域内では、誰一人として天女を傷付けることは不可能なのだ。

「……まさか結界の外へ?」

そうとしか考えられない。
結界の外側の下界――つまり、人間界に降りたとしか考えられなかった。

沓(くつ)だけが取り残され、着物と羽衣(はごろも)は失(な)くなっている。もし人間界に降りてしまったとしても、羽衣(はごろも)さえあれば、天女は自力で飛んで戻れる筈だった。

「まさか、戻って来られない状況なのか?」

ただならぬ事態に、気が気でなく、胸が締め付けられる思いだった。

「こうしてはおられぬ」

兎神(うさがみ)は、その場から煙のように掻き消えた。

***

天女は納戸から解放された後、帝の指示で禁足地の庭の小さな住まいに移された。

そこからは、例の池を一望出来る。

「姫さまと呼ばせて頂きます。私のことは右近とお呼び下さいませ」

専任の女房がつき、丁寧に頭を下げた。

「右近、私はこんなところではなく、家に帰りたいのだけれど」

「姫さま、それはなりませぬ。主上(しゅじょう)は姫さまを中宮になさる為、八方手を尽くす所存だと仰りました」

「私、中宮(ちゅうぐう)なんかなりたくないんだけど……」

すると右近は、まるで信じられないという表情をした。

「主上(しゅじょう)にあれだけ望まれておられるのに、中宮(ちゅうぐう)になりたくないと?」

「だから、私には夫になる方が別にいるんですって……」

「は?」

どうやら右近は、その辺のところは何も聞かされていないようだった。

「主上(しゅじょう)は内大臣に姫さまの養父になって頂き、入内をさせるおつもりだとお聞きしましたが」

「そんなこと私は何も聞いてないけど?」

内大臣が誰なのか知らないが、養父だなんてとんでもない話だ。

「右大臣家の承香殿(しょうきょうでん)の女御(にょうご)さまと左大臣家の弘徽殿(こきでん)の女御(にょうご)さま、どちらが中宮(ちゅうぐう)に立てられるかで、宮中はその噂で持ち切りでした。しかし、そこに第三の勢力として、姫さまが現れました。主上(しゅじょう)は娘がおられぬ内大臣家に、姫さまの後押しをさせるおつもりなのです」

後宮の力関係など、天女にはどうでも良かった。

「私の夫になる方が、そもそも許さないと思うわ」

「この世に主上(しゅじょう)より、尊い方などおられませぬ。主上(しゅじょう)は一度こうと決めたら、曲げぬお方ですので……」

(面倒くさいなぁ……)

「……とにかく、私は中宮(ちゅうぐう)どころか、帝の后になんてなる気はないの。イナバさまと結婚することしか、私は考えてないのよ」

「その、イナバさまとは、どういったお方なのでしょう?」

右近に聞かれると、天女は生き生きと語り出す。

「白くてふわふわでモフモフしてて、とにかく愛らしいのです」

「白く? ふわふわ? モフモフ……?」

右近の頭の中に浮かんだのは、白髪頭の老人の姿だった。

「姫さま、そのようにお若い身で、老い先短い老人に嫁ぐことはありませぬ」

「えっ?」

「良いですか? 主上(しゅじょう)は、大変お優しい方でございます。帝として国を治めるお力は勿論のこと、ご容貌も優れておいでです。姫さまをこれほどまでに大切にして下さるお方など、そうはおられません」

「――そして、何よりもまだお若い」

右近は、目の前の姫君に帝のことを少しでも考えてもらう必要があった。

――そのように特別に指示を受けていたからだ。

「でも、私はイナバさまが良いのです」

「……そこを、なんとかお考え直して頂けませんか?」

「えーっと、ちょっと無理ですね」

右近は思わず溜め息を吐(つ)いた。

イナバという人物について、調査する必要があった。話に聞く限り、既に老人のようだし、かつてはそれなりの官職に就(つ)いていたとしても、今をときめく今上帝(きんじょうてい)に叶う筈がない。

「姫さま。この後ですが、主上(しゅじょう)から夕餉(ゆうげ)のお誘いがありまして」

「えっ? 嫌だなぁ、面倒くさい……」

即答で嫌だと言われ、右近は少しでも天女の気を引こうと考えた。

「姫さまの食べたいものを、用意して下さるそうですよ? 何かご希望は御座いますか?」

天女が食べたいもの、それは――

「イナバさまと一緒に食べるものなら、何でも美味しいんです」

「では、姫さまの好きな食べ物はなんで御座いましょうか?」

すると、途端に天女の機嫌が良くなった。

「イナバさまが作った食事は、何でも美味しいんです。あぁ、イナバさまのご飯が食べたいなぁ」

うっとりとした表情で、天女は話を続けた。

「イナバさまが作った山菜の煮物、イナバさまが釣ってきた鮎の塩焼き、イナバさまが掘ってきた山芋で作ったとろろかけご飯……」

「……」

右近は呆気に取られた。

(主上(しゅじょう)、私に姫さまの心を変えるには、少々荷が重いかもしれませぬ……)

帝との夕餉の為に、天女は再び清涼殿(せいりょうでん)へと赴(おもむ)いた。

「ねぇ、この格好どうにかならないの?」

右近の手により、袿姿(うちきすがた)となった天女は、重ねた着物の重さに辟易(へきえき)していた。

「主上(しゅじょう)に失礼のないようにですから、我慢して下さいませ」

(雑仕女(ぞうしめ)の時の着物の方が軽くて着やすかったなぁ……)

「来たか」

天女は軽く一礼して、勧められた場所に腰を下ろした。

膳がそれぞれ用意され、焼いた川魚、根菜の煮物、貝の汁物、白米の強飯(こわいい)などが置かれていた。調味料も器に盛られ、添えられている。

「なるべく、そなたの好きなものを用意させたのだが……」

「私が好きなものは、イナバさまが作ったものですので」

「……」

真顔で固まる帝の顔を見て、後ろで控えていた右近は恐縮した。

(もう、姫さまったら!)

「では、梨はどうだ? 瑞々(みずみず)しくて、とても甘いぞ?」

帝に勧められ、渋々、天女は梨に手を伸ばした。

「どうだ?」

帝は息を呑んで、天女の感想を期待した。

「イナバさまが干した柿の方が甘かったです」

「……」

(姫さま〜〜)

帝と天女の夕餉の席は、こうして微妙な空気で終わった。

「それで、いつ頃羽衣(はごろも)を返して頂けるんでしょうか?」

「それは前にも言った通り、調査を終えてからだ」

すると、天女はスッと立ち上がって言った。
もう、まるでここに用などないといった具合に――

「それでは、ご馳走様でした」

「待て」

さっさと退出しようとする天女を、帝が引き留めた。

「このまま、泊まっていけ」

「えっ?」

天女は困惑した。せっかく仮住まいを用意して貰ったのに、そこに帰らず、ここに泊まる意味が分からなかった。

「そなたが良いと言うまで、指一本触れぬと約束しよう」

「いや、絶対良いなんて言いません」

キッパリそう言い切る天女に、帝は嘆息しつつも、誘いを繰り返した。

「とにかく泊まっていけ。そなたの為に言っている」

「姫さま、もう夜も更けました。これから、禁足地の私邸に戻るのも面倒ですし、私もすぐ側(そば)の間に控えておりますので、心配なさるようなことは何も起きませぬ」

右近もそう言うので、結局押し切られ、夜御殿(よるのおとど)内に寝床を用意されることになった。

いつぞや通された、帝の寝所である御帳台(みちょうだい)の目と鼻の先に、天女の為の寝床が敷かれた。

「眠るまで、少し話でもしよう」

「いや、私朝は早いので……」

そうして、さっさと寝床に横になった。
羽織っていた袿を布団代わりに、帝に背を向ける格好になる。

「そなたは早起きなのか? 明日はゆっくり寝ていても構わないぞ?」

「もう眠るので、ちょっと静かにしてくれませんか?」

「……」

念の為、天女は自分の周囲に結界を張った。万が一、帝が手を出してこようものなら、電撃が落ちる具合だ。
その晩は、前日からの疲れもあり、泥のように眠った。

翌朝、まだ暗いうちに天女は目を覚ました。
帝はまだ眠っているようで、辺りは静まり返っている。

(仕事に行かなきゃ……)

天女は控えの間で眠っていた右近を、そっと起こした。

「う……ん、姫さま?」

「仕事に行ってくるわ」

「えっ、仕事?」

右近は慌てて飛び起きた。

「仕事とは、一体どういうことですか?」

「しーっ、声が大きい」

天女は人差し指を唇に当て、右近に告げた。

「もちろん、洗濯だけど?」

「洗濯ぅ!?」

天女はにっこりと微笑んだ。

「私、洗濯だけは得意なの。昨日も皆によく働いたと褒められたのよ」

「姫さま。あなたはもう雑仕女(ぞうしめ)ではないのですよ? 主上(しゅじょう)のご寵愛(ちょうあい)を一身に受ける寵姫(ちょうき)なのです」

右近は、天女にはっきり自分の立場を分からせようとした。

「これから中宮(ちゅうぐう)になろうとするお方なのです」

しかし、当の本人はどこ吹く風だった。

「だから、私はイナバさまと結婚するんだから、帝の后にはならないって……」

(ここまで姫さまの心を掴むイナバさまとは、一体どんな殿方なのでしょう?)

右近は、ますますイナバさまが気になった。

「それで、私が昨日着てた仕事着はどこ?」

「あれなら、処分してしまいましたよ」

「は? なら、代わりの仕事着を用意してちょうだい。そうでなきゃ、このまま行く」

右近は仕方なく、新品の生成(きな)りの小袖を用意して、天女に手渡した。

「主上(しゅじょう)に知られたら、なんて言われるか……」

額に手を当て嘆く右近に、天女はあっけらかんとして言った。

「そもそも帝本人があそこで働けと最初に言ったのよ」

「もう、今は働かなくていいんですよ?」

「私、常日頃から、イナバさまに言われてるの。『働かざる者食うべからず』って」

笑顔でそう言う天女を見て、何故帝が彼女を求めるのか、右近には理由が分かった気がした。

「お待ち下さい、姫さま」

天女が足を止めて、振り返った。

「私も共に参ります」

朝の清涼殿(せいりょうでん)。静まり返る御殿の奥から、御簾を軽く上げて現れた天女の姿を見て、承香殿(しょうきょうでん)の女房は、思わず仰天した。

「た、大変だわ……」

主(あるじ)である女御(にょうご)の使いで訪れたが、よりにもよって帝の寝所から、見知らぬ女が出てくるとは思わなかった。

生成りの小袖を襷掛(たすけが)けにし、意気揚々と女房を連れて、大股で出て行った。

「雑仕女(ぞうしめ)? もし、そうだとしても、主上(しゅじょう)の寝所から出て来たことは事実……」

承香殿(しょうきょうでん)の女房は、すぐに近くを通りかかった蔵人(くろうど)を捕まえた。

「ちょっと、あの女は誰なの?」

「昨夜、御上(おかみ)が夕餉を共にし、そのままお召しになったお方でございます」

一昨日、主上(しゅじょう)が不審な女を寝所に招き入れたという噂があったけれど、あれは事実だったのだろうか?

「あの娘は、一体どこの娘なの?」

「私も詳しくは存じませぬ。噂によると、禁足地である御上(おかみ)の私邸の庭の池に現れたとか」

「池?」

「大層、艶(なまめ)かしい姿で、御上(おかみ)を魅了されたとか。昨日、蔵人所(くろうどどころ)でちょっとした騒ぎを起こしたのですが、御上(おかみ)の鶴の一声で釈放されましたし……」

「な、何ですって!」

承香殿(しょうきょうでん)の女房は、慌てて引き返し、己の主人である承香殿(しょうきょうでん)の女御(にょうご)である韶子(つぐこ)に、見聞きしたことを告げた。

「一体、どういうことですの?」

わなわなと震え、韶子(つぐこ)は手に持っていた檜扇(ひおうぎ)をパチンと激しく音を立てて閉じた。

「弘徽殿の、でもなく不審な女? 主上(しゅじょう)はそんな女をお召しになったというの?」

「大層、ご執心のようです」

「まさか、主上(しゅじょう)はその娘を入内(じゅだい)させるおつもりなのかしら?」

韶子(つぐこ)は檜扇(ひおうぎ)を激しく畳の上に叩き付けた。綴(つづ)り紐が千切れ、板がバラバラになって散らばった。

「一体どこの娘なの? すぐに調べなさい」

縫殿(ぬいどの)の裏手の作業場に、何食わぬ顔で現れた天女を見て、先輩雑仕女(ぞうしめ)たちは度肝を抜かれた。

「あ、あんた何しに来たんだ?」

昨日、蔵人所(くろうどどころ)へ行った後、主上(しゅじょう)に召されたと聞いていた。

「姫さまは、洗濯をなさりたいと仰せです」

右近が雑仕女(ぞうしめ)たちに伝えると
皆は複雑そうな表情を浮かべた。

「主上(しゅじょう)のお召しがあったお方を、こんなところで洗濯なんてさせられないよ……」

「お方さま、と呼ぶべきかな?」

「ちょっと待ってよ! 私、帝とは何でもないわよ? ただ同じ部屋で寝ただけだもん」

その場が一瞬、シーンと静まるも、先輩雑仕女(ぞうしめ)が、天女に諭すように言う。

「同じ部屋で寝たって事実だけで、充分なんだよ……」

「実際、契ったかどうかなんてどうでもいいんだ。あんたが、主上(しゅじょう)に召されたという事実さえあれば」

天女は首を傾げた。すると、右近が落ち着いた声で告げた。

「姫さまは、既に主上(しゅじょう)の后に準じたお立場になられました」

「あとは体裁を整えて、立后(りっこう)なさるだけです」

「立后(りっこう)だって!?」

先輩雑仕女(ぞうしめ)たちが揃って驚きの声を上げた。

「あ、あんたが中宮(ちゅうぐう)になるのかい?」

「だから、私はイナバさまと結婚するので、帝の后になんか、絶対になりませんて!」

先輩雑仕女(ぞうしめ)は、天女の腕を掴んで、優しく言い聞かせるように言った。

「……そうじゃないんだよ。あんたにその気がなくっても、もう外堀を埋められてるんだ」

「あんたはもう、誰もが認める主上(しゅじょう)の后(きさき)なんだよ……」

「!!」

天女はもの凄い形相で、右近を振り返った。
右近は一瞬たじろぐも、その視線を真っ直ぐに見つめ返した。

「どうして、教えてくれなかったの? 心配するようなことは何も起きないって右近が言ったんじゃない!」

「姫さまの懸念は、主上(しゅじょう)のお手付きになることでした。私は何も嘘は申しておりませぬ」

確かに、帝と契った訳ではない。
しかし、契ったも同然の関係にされてしまったのだ。

「私はイナバさまのものなのに……」

ポロポロと大粒の涙を溢(こぼ)しながら、天女はよろよろと井戸へ向かった。

「姫さま、どちらへ?」

「決まってるでしょう? 私はただ洗濯をするのよ」

「お、お手伝いします」

雑仕女(ぞうしめ)たちが慌てて後に続き、天女と共に洗濯をし始めた。

右近は少し胸が痛んだが、自分の役目はあくまでも、姫を帝の中宮にすることだった。

「姫さま、私は少し縫殿(ぬいどの)の女房と今後の話をしてきます」

「勝手にすれば?」

ゴシゴシと洗濯をしながら、こちらを見もせずに天女が言った。

お許しが出たので、右近はその場をそっと離れる。裏庭の入り口に立っていた、帝が遣わせた近衛(このえ)の武官に、くれぐれも姫の身を守るように伝えた。

「宮中で、姫さまのことはもうあっという間に伝わっているだろうし」

養父になる予定の内大臣も参内(さんだい)次第、主上(しゅじょう)に呼ばれるだろう。

「それより、イナバなる人物を早急(さっきゅう)に調べなければ……」

殿上人(てんじょうびと)でもない限り、殿上(でんじょう)の間に昇ることは叶わない。滅多なことにはならないと信じてはいるが――万が一、宮中に乗り込まれて、姫を奪い返しにでも現れたら面倒この上ない。

右近は蔵人所(くろうどどころ)へ行き、
蔵人(くろうど)の一人を捕まえると、

「イナバと申す男について調べよ。官人の名簿に名がないか、因幡国(いなばのくに)に縁のある者ではないか。出入りの商人や地方から参内した者にも当たれ」

「そのイナバという者は何者なんです?」

右近は少し声を落として、話し始めた。

「姫さまの婚約者なる人物らしいが、かなり歳上の老人らしい。主上(しゅじょう)が姫さまを中宮(ちゅうぐう)になさるとお決めになられた以上、障(さわ)りが出るやもしれぬ」

「とにかく見つけ次第、すぐ報告してくれ」

「わ、分かりました」

走り去る蔵人(くろうど)の背を見送りながら、右近は考えた。

(イナバなる人物が見つかったら、直接会って、姫を諦めて下さるようにお願いしなくては……)