「いつまで油を売っているんだ?」
日が暮れかかっても天女が戻らぬので、兎神は機織りをしていた手を止めた。
(水浴びに行って、ここまで遅いとは……)
人型のまま庵の外に出て、辺りを見回していると、眷属の一羽の子兎が、こちらに向かって駆けてきた。
「お前一人なのか? あやつはどうした?」
「キーッ、キーッ!!」
子兎は何かを必死で訴えている。
「あやつがまた何かやらかしたのか?」
「キーキーッ!!」
(いや、何を言ってるのかさっぱり分からん……)
己の眷属ながら、子兎の言葉は分からなかったが、天女に何かただならぬ事態が起きたことは察しがついた。
「案内せよ」
「キーッ!」
子兎が駆け出したので、その後を追う。
嫌な胸騒ぎがした。天女の気配を探っても、まるで感じ取れなかった。
天の川のほとりに到着すると、天女の沓が揃えて置いてあった。
「クゥクゥ!」
川のほとりには残りの子兎たちがいた。
皆、下流の方を向いて、悲しそうな鳴き声を上げている。
「まさか、あやつ流されたのか?」
天の結界内であれば、滅多なことにはならない――己の神域内では、誰一人として天女を傷付けることは不可能なのだ。
「……まさか結界の外へ?」
そうとしか考えられない。
結界の外側の下界――つまり、人間界に降りたとしか考えられなかった。
沓だけが取り残され、着物と羽衣は失くなっている。もし人間界に降りてしまったとしても、羽衣さえあれば、天女は自力で飛んで戻れる筈だった。
「まさか、戻って来られない状況なのか?」
ただならぬ事態に、気が気でなく、胸が締め付けられる思いだった。
「こうしてはおられぬ」
兎神は、その場から煙のように掻き消えた。
***
天女は納戸から解放された後、帝の指示で禁足地の庭の小さな住まいに移された。
そこからは、例の池を一望出来る。
「姫さまと呼ばせて頂きます。私のことは右近とお呼び下さいませ」
専任の女房がつき、丁寧に頭を下げた。
「右近、私はこんなところではなく、家に帰りたいのだけれど」
「姫さま、それはなりませぬ。主上は姫さまを中宮になさる為、八方手を尽くす所存だと仰りました」
「私、中宮なんかなりたくないんだけど……」
すると右近は、まるで信じられないという表情をした。
「主上にあれだけ望まれておられるのに、中宮になりたくないと?」
「だから、私には夫になる方が別にいるんですって……」
「は?」
どうやら右近は、その辺のところは何も聞かされていないようだった。
「主上は内大臣に姫さまの養父になって頂き、入内をさせるおつもりだとお聞きしましたが」
「そんなこと私は何も聞いてないけど?」
内大臣が誰なのか知らないが、養父だなんてとんでもない話だ。
「右大臣家の承香殿の女御さまと左大臣家の弘徽殿の女御さま、どちらが中宮に立てられるかで、宮中はその噂で持ち切りでした。しかし、そこに第三の勢力として、姫さまが現れました。主上は娘がおられぬ内大臣家に、姫さまの後押しをさせるおつもりなのです」
後宮の力関係など、天女にはどうでも良かった。
「私の夫になる方が、そもそも許さないと思うわ」
「この世に主上より、尊い方などおられませぬ。主上は一度こうと決めたら、曲げぬお方ですので……」
(面倒くさいなぁ……)
「……とにかく、私は中宮どころか、帝の后になんてなる気はないの。イナバさまと結婚することしか、私は考えてないのよ」
「その、イナバさまとは、どういったお方なのでしょう?」
右近に聞かれると、天女は生き生きと語り出す。
「白くてふわふわでモフモフしてて、とにかく愛らしいのです」
「白く? ふわふわ? モフモフ……?」
右近の頭の中に浮かんだのは、白髪頭の老人の姿だった。
「姫さま、そのようにお若い身で、老い先短い老人に嫁ぐことはありませぬ」
「えっ?」
「良いですか? 主上は、大変お優しい方でございます。帝として国を治めるお力は勿論のこと、ご容貌も優れておいでです。姫さまをこれほどまでに大切にして下さるお方など、そうはおられません」
「――そして、何よりもまだお若い」
右近は、目の前の姫君に帝のことを少しでも考えてもらう必要があった。
――そのように特別に指示を受けていたからだ。
「でも、私はイナバさまが良いのです」
「……そこを、なんとかお考え直して頂けませんか?」
「えーっと、ちょっと無理ですね」
右近は思わず溜め息を吐いた。
イナバという人物について、調査する必要があった。話に聞く限り、既に老人のようだし、かつてはそれなりの官職に就いていたとしても、今をときめく今上帝に叶う筈がない。
「姫さま。この後ですが、主上から夕餉のお誘いがありまして」
「えっ? 嫌だなぁ、面倒くさい……」
即答で嫌だと言われ、右近は少しでも天女の気を引こうと考えた。
「姫さまの食べたいものを、用意して下さるそうですよ? 何かご希望は御座いますか?」
天女が食べたいもの、それは――
「イナバさまと一緒に食べるものなら、何でも美味しいんです」
「では、姫さまの好きな食べ物はなんで御座いましょうか?」
すると、途端に天女の機嫌が良くなった。
「イナバさまが作った食事は、何でも美味しいんです。あぁ、イナバさまのご飯が食べたいなぁ」
うっとりとした表情で、天女は話を続けた。
「イナバさまが作った山菜の煮物、イナバさまが釣ってきた鮎の塩焼き、イナバさまが掘ってきた山芋で作ったとろろかけご飯……」
「……」
右近は呆気に取られた。
(主上、私に姫さまの心を変えるには、少々荷が重いかもしれませぬ……)
帝との夕餉の為に、天女は再び清涼殿へと赴いた。
「ねぇ、この格好どうにかならないの?」
右近の手により、袿姿となった天女は、重ねた着物の重さに辟易していた。
「主上に失礼のないようにですから、我慢して下さいませ」
(雑仕女の時の着物の方が軽くて着やすかったなぁ……)
「来たか」
天女は軽く一礼して、勧められた場所に腰を下ろした。
膳がそれぞれ用意され、焼いた川魚、根菜の煮物、貝の汁物、白米の強飯などが置かれていた。調味料も器に盛られ、添えられている。
「なるべく、そなたの好きなものを用意させたのだが……」
「私が好きなものは、イナバさまが作ったものですので」
「……」
真顔で固まる帝の顔を見て、後ろで控えていた右近は恐縮した。
(もう、姫さまったら!)
「では、梨はどうだ? 瑞々しくて、とても甘いぞ?」
帝に勧められ、渋々、天女は梨に手を伸ばした。
「どうだ?」
帝は息を呑んで、天女の感想を期待した。
「イナバさまが干した柿の方が甘かったです」
「……」
(姫さま〜〜)
帝と天女の夕餉の席は、こうして微妙な空気で終わった。
「それで、いつ頃羽衣を返して頂けるんでしょうか?」
「それは前にも言った通り、調査を終えてからだ」
すると、天女はスッと立ち上がって言った。
もう、まるでここに用などないといった具合に――
「それでは、ご馳走様でした」
「待て」
さっさと退出しようとする天女を、帝が引き留めた。
「このまま、泊まっていけ」
「えっ?」
天女は困惑した。せっかく仮住まいを用意して貰ったのに、そこに帰らず、ここに泊まる意味が分からなかった。
「そなたが良いと言うまで、指一本触れぬと約束しよう」
「いや、絶対良いなんて言いません」
キッパリそう言い切る天女に、帝は嘆息しつつも、誘いを繰り返した。
「とにかく泊まっていけ。そなたの為に言っている」
「姫さま、もう夜も更けました。これから、禁足地の私邸に戻るのも面倒ですし、私もすぐ側の間に控えておりますので、心配なさるようなことは何も起きませぬ」
右近もそう言うので、結局押し切られ、夜御殿内に寝床を用意されることになった。
いつぞや通された、帝の寝所である御帳台の目と鼻の先に、天女の為の寝床が敷かれた。
「眠るまで、少し話でもしよう」
「いや、私朝は早いので……」
そうして、さっさと寝床に横になった。
羽織っていた袿を布団代わりに、帝に背を向ける格好になる。
「そなたは早起きなのか? 明日はゆっくり寝ていても構わないぞ?」
「もう眠るので、ちょっと静かにしてくれませんか?」
「……」
念の為、天女は自分の周囲に結界を張った。万が一、帝が手を出してこようものなら、電撃が落ちる具合だ。
その晩は、前日からの疲れもあり、泥のように眠った。
翌朝、まだ暗いうちに天女は目を覚ました。
帝はまだ眠っているようで、辺りは静まり返っている。
(仕事に行かなきゃ……)
天女は控えの間で眠っていた右近を、そっと起こした。
「う……ん、姫さま?」
「仕事に行ってくるわ」
「えっ、仕事?」
右近は慌てて飛び起きた。
「仕事とは、一体どういうことですか?」
「しーっ、声が大きい」
天女は人差し指を唇に当て、右近に告げた。
「もちろん、洗濯だけど?」
「洗濯ぅ!?」
天女はにっこりと微笑んだ。
「私、洗濯だけは得意なの。昨日も皆によく働いたと褒められたのよ」
「姫さま。あなたはもう雑仕女ではないのですよ? 主上のご寵愛を一身に受ける寵姫なのです」
右近は、天女にはっきり自分の立場を分からせようとした。
「これから中宮になろうとするお方なのです」
しかし、当の本人はどこ吹く風だった。
「だから、私はイナバさまと結婚するんだから、帝の后にはならないって……」
(ここまで姫さまの心を掴むイナバさまとは、一体どんな殿方なのでしょう?)
右近は、ますますイナバさまが気になった。
「それで、私が昨日着てた仕事着はどこ?」
「あれなら、処分してしまいましたよ」
「は? なら、代わりの仕事着を用意してちょうだい。そうでなきゃ、このまま行く」
右近は仕方なく、新品の生成りの小袖を用意して、天女に手渡した。
「主上に知られたら、なんて言われるか……」
額に手を当て嘆く右近に、天女はあっけらかんとして言った。
「そもそも帝本人があそこで働けと最初に言ったのよ」
「もう、今は働かなくていいんですよ?」
「私、常日頃から、イナバさまに言われてるの。『働かざる者食うべからず』って」
笑顔でそう言う天女を見て、何故帝が彼女を求めるのか、右近には理由が分かった気がした。
「お待ち下さい、姫さま」
天女が足を止めて、振り返った。
「私も共に参ります」
朝の清涼殿。静まり返る御殿の奥から、御簾を軽く上げて現れた天女の姿を見て、承香殿の女房は、思わず仰天した。
「た、大変だわ……」
主である女御の使いで訪れたが、よりにもよって帝の寝所から、見知らぬ女が出てくるとは思わなかった。
生成りの小袖を襷掛けにし、意気揚々と女房を連れて、大股で出て行った。
「雑仕女? もし、そうだとしても、主上の寝所から出て来たことは事実……」
承香殿の女房は、すぐに近くを通りかかった蔵人を捕まえた。
「ちょっと、あの女は誰なの?」
「昨夜、御上が夕餉を共にし、そのままお召しになったお方でございます」
一昨日、主上が不審な女を寝所に招き入れたという噂があったけれど、あれは事実だったのだろうか?
「あの娘は、一体どこの娘なの?」
「私も詳しくは存じませぬ。噂によると、禁足地である御上の私邸の庭の池に現れたとか」
「池?」
「大層、艶かしい姿で、御上を魅了されたとか。昨日、蔵人所でちょっとした騒ぎを起こしたのですが、御上の鶴の一声で釈放されましたし……」
「な、何ですって!」
承香殿の女房は、慌てて引き返し、己の主人である承香殿の女御である韶子に、見聞きしたことを告げた。
「一体、どういうことですの?」
わなわなと震え、韶子は手に持っていた檜扇をパチンと激しく音を立てて閉じた。
「弘徽殿の、でもなく不審な女? 主上はそんな女をお召しになったというの?」
「大層、ご執心のようです」
「まさか、主上はその娘を入内させるおつもりなのかしら?」
韶子は檜扇を激しく畳の上に叩き付けた。綴り紐が千切れ、板がバラバラになって散らばった。
「一体どこの娘なの? すぐに調べなさい」
縫殿の裏手の作業場に、何食わぬ顔で現れた天女を見て、先輩雑仕女たちは度肝を抜かれた。
「あ、あんた何しに来たんだ?」
昨日、蔵人所へ行った後、主上に召されたと聞いていた。
「姫さまは、洗濯をなさりたいと仰せです」
右近が雑仕女たちに伝えると
皆は複雑そうな表情を浮かべた。
「主上のお召しがあったお方を、こんなところで洗濯なんてさせられないよ……」
「お方さま、と呼ぶべきかな?」
「ちょっと待ってよ! 私、帝とは何でもないわよ? ただ同じ部屋で寝ただけだもん」
その場が一瞬、シーンと静まるも、先輩雑仕女が、天女に諭すように言う。
「同じ部屋で寝たって事実だけで、充分なんだよ……」
「実際、契ったかどうかなんてどうでもいいんだ。あんたが、主上に召されたという事実さえあれば」
天女は首を傾げた。すると、右近が落ち着いた声で告げた。
「姫さまは、既に主上の后に準じたお立場になられました」
「あとは体裁を整えて、立后なさるだけです」
「立后だって!?」
先輩雑仕女たちが揃って驚きの声を上げた。
「あ、あんたが中宮になるのかい?」
「だから、私はイナバさまと結婚するので、帝の后になんか、絶対になりませんて!」
先輩雑仕女は、天女の腕を掴んで、優しく言い聞かせるように言った。
「……そうじゃないんだよ。あんたにその気がなくっても、もう外堀を埋められてるんだ」
「あんたはもう、誰もが認める主上の后なんだよ……」
「!!」
天女はもの凄い形相で、右近を振り返った。
右近は一瞬たじろぐも、その視線を真っ直ぐに見つめ返した。
「どうして、教えてくれなかったの? 心配するようなことは何も起きないって右近が言ったんじゃない!」
「姫さまの懸念は、主上のお手付きになることでした。私は何も嘘は申しておりませぬ」
確かに、帝と契った訳ではない。
しかし、契ったも同然の関係にされてしまったのだ。
「私はイナバさまのものなのに……」
ポロポロと大粒の涙を溢しながら、天女はよろよろと井戸へ向かった。
「姫さま、どちらへ?」
「決まってるでしょう? 私はただ洗濯をするのよ」
「お、お手伝いします」
雑仕女たちが慌てて後に続き、天女と共に洗濯をし始めた。
右近は少し胸が痛んだが、自分の役目はあくまでも、姫を帝の中宮にすることだった。
「姫さま、私は少し縫殿の女房と今後の話をしてきます」
「勝手にすれば?」
ゴシゴシと洗濯をしながら、こちらを見もせずに天女が言った。
お許しが出たので、右近はその場をそっと離れる。裏庭の入り口に立っていた、帝が遣わせた近衛の武官に、くれぐれも姫の身を守るように伝えた。
「宮中で、姫さまのことはもうあっという間に伝わっているだろうし」
養父になる予定の内大臣も参内次第、主上に呼ばれるだろう。
「それより、イナバなる人物を早急に調べなければ……」
殿上人でもない限り、殿上の間に昇ることは叶わない。滅多なことにはならないと信じてはいるが――万が一、宮中に乗り込まれて、姫を奪い返しにでも現れたら面倒この上ない。
右近は蔵人所へ行き、
蔵人の一人を捕まえると、
「イナバと申す男について調べよ。官人の名簿に名がないか、因幡国に縁のある者ではないか。出入りの商人や地方から参内した者にも当たれ」
「そのイナバという者は何者なんです?」
右近は少し声を落として、話し始めた。
「姫さまの婚約者なる人物らしいが、かなり歳上の老人らしい。主上が姫さまを中宮になさるとお決めになられた以上、障りが出るやもしれぬ」
「とにかく見つけ次第、すぐ報告してくれ」
「わ、分かりました」
走り去る蔵人の背を見送りながら、右近は考えた。
(イナバなる人物が見つかったら、直接会って、姫を諦めて下さるようにお願いしなくては……)
日が暮れかかっても天女が戻らぬので、兎神は機織りをしていた手を止めた。
(水浴びに行って、ここまで遅いとは……)
人型のまま庵の外に出て、辺りを見回していると、眷属の一羽の子兎が、こちらに向かって駆けてきた。
「お前一人なのか? あやつはどうした?」
「キーッ、キーッ!!」
子兎は何かを必死で訴えている。
「あやつがまた何かやらかしたのか?」
「キーキーッ!!」
(いや、何を言ってるのかさっぱり分からん……)
己の眷属ながら、子兎の言葉は分からなかったが、天女に何かただならぬ事態が起きたことは察しがついた。
「案内せよ」
「キーッ!」
子兎が駆け出したので、その後を追う。
嫌な胸騒ぎがした。天女の気配を探っても、まるで感じ取れなかった。
天の川のほとりに到着すると、天女の沓が揃えて置いてあった。
「クゥクゥ!」
川のほとりには残りの子兎たちがいた。
皆、下流の方を向いて、悲しそうな鳴き声を上げている。
「まさか、あやつ流されたのか?」
天の結界内であれば、滅多なことにはならない――己の神域内では、誰一人として天女を傷付けることは不可能なのだ。
「……まさか結界の外へ?」
そうとしか考えられない。
結界の外側の下界――つまり、人間界に降りたとしか考えられなかった。
沓だけが取り残され、着物と羽衣は失くなっている。もし人間界に降りてしまったとしても、羽衣さえあれば、天女は自力で飛んで戻れる筈だった。
「まさか、戻って来られない状況なのか?」
ただならぬ事態に、気が気でなく、胸が締め付けられる思いだった。
「こうしてはおられぬ」
兎神は、その場から煙のように掻き消えた。
***
天女は納戸から解放された後、帝の指示で禁足地の庭の小さな住まいに移された。
そこからは、例の池を一望出来る。
「姫さまと呼ばせて頂きます。私のことは右近とお呼び下さいませ」
専任の女房がつき、丁寧に頭を下げた。
「右近、私はこんなところではなく、家に帰りたいのだけれど」
「姫さま、それはなりませぬ。主上は姫さまを中宮になさる為、八方手を尽くす所存だと仰りました」
「私、中宮なんかなりたくないんだけど……」
すると右近は、まるで信じられないという表情をした。
「主上にあれだけ望まれておられるのに、中宮になりたくないと?」
「だから、私には夫になる方が別にいるんですって……」
「は?」
どうやら右近は、その辺のところは何も聞かされていないようだった。
「主上は内大臣に姫さまの養父になって頂き、入内をさせるおつもりだとお聞きしましたが」
「そんなこと私は何も聞いてないけど?」
内大臣が誰なのか知らないが、養父だなんてとんでもない話だ。
「右大臣家の承香殿の女御さまと左大臣家の弘徽殿の女御さま、どちらが中宮に立てられるかで、宮中はその噂で持ち切りでした。しかし、そこに第三の勢力として、姫さまが現れました。主上は娘がおられぬ内大臣家に、姫さまの後押しをさせるおつもりなのです」
後宮の力関係など、天女にはどうでも良かった。
「私の夫になる方が、そもそも許さないと思うわ」
「この世に主上より、尊い方などおられませぬ。主上は一度こうと決めたら、曲げぬお方ですので……」
(面倒くさいなぁ……)
「……とにかく、私は中宮どころか、帝の后になんてなる気はないの。イナバさまと結婚することしか、私は考えてないのよ」
「その、イナバさまとは、どういったお方なのでしょう?」
右近に聞かれると、天女は生き生きと語り出す。
「白くてふわふわでモフモフしてて、とにかく愛らしいのです」
「白く? ふわふわ? モフモフ……?」
右近の頭の中に浮かんだのは、白髪頭の老人の姿だった。
「姫さま、そのようにお若い身で、老い先短い老人に嫁ぐことはありませぬ」
「えっ?」
「良いですか? 主上は、大変お優しい方でございます。帝として国を治めるお力は勿論のこと、ご容貌も優れておいでです。姫さまをこれほどまでに大切にして下さるお方など、そうはおられません」
「――そして、何よりもまだお若い」
右近は、目の前の姫君に帝のことを少しでも考えてもらう必要があった。
――そのように特別に指示を受けていたからだ。
「でも、私はイナバさまが良いのです」
「……そこを、なんとかお考え直して頂けませんか?」
「えーっと、ちょっと無理ですね」
右近は思わず溜め息を吐いた。
イナバという人物について、調査する必要があった。話に聞く限り、既に老人のようだし、かつてはそれなりの官職に就いていたとしても、今をときめく今上帝に叶う筈がない。
「姫さま。この後ですが、主上から夕餉のお誘いがありまして」
「えっ? 嫌だなぁ、面倒くさい……」
即答で嫌だと言われ、右近は少しでも天女の気を引こうと考えた。
「姫さまの食べたいものを、用意して下さるそうですよ? 何かご希望は御座いますか?」
天女が食べたいもの、それは――
「イナバさまと一緒に食べるものなら、何でも美味しいんです」
「では、姫さまの好きな食べ物はなんで御座いましょうか?」
すると、途端に天女の機嫌が良くなった。
「イナバさまが作った食事は、何でも美味しいんです。あぁ、イナバさまのご飯が食べたいなぁ」
うっとりとした表情で、天女は話を続けた。
「イナバさまが作った山菜の煮物、イナバさまが釣ってきた鮎の塩焼き、イナバさまが掘ってきた山芋で作ったとろろかけご飯……」
「……」
右近は呆気に取られた。
(主上、私に姫さまの心を変えるには、少々荷が重いかもしれませぬ……)
帝との夕餉の為に、天女は再び清涼殿へと赴いた。
「ねぇ、この格好どうにかならないの?」
右近の手により、袿姿となった天女は、重ねた着物の重さに辟易していた。
「主上に失礼のないようにですから、我慢して下さいませ」
(雑仕女の時の着物の方が軽くて着やすかったなぁ……)
「来たか」
天女は軽く一礼して、勧められた場所に腰を下ろした。
膳がそれぞれ用意され、焼いた川魚、根菜の煮物、貝の汁物、白米の強飯などが置かれていた。調味料も器に盛られ、添えられている。
「なるべく、そなたの好きなものを用意させたのだが……」
「私が好きなものは、イナバさまが作ったものですので」
「……」
真顔で固まる帝の顔を見て、後ろで控えていた右近は恐縮した。
(もう、姫さまったら!)
「では、梨はどうだ? 瑞々しくて、とても甘いぞ?」
帝に勧められ、渋々、天女は梨に手を伸ばした。
「どうだ?」
帝は息を呑んで、天女の感想を期待した。
「イナバさまが干した柿の方が甘かったです」
「……」
(姫さま〜〜)
帝と天女の夕餉の席は、こうして微妙な空気で終わった。
「それで、いつ頃羽衣を返して頂けるんでしょうか?」
「それは前にも言った通り、調査を終えてからだ」
すると、天女はスッと立ち上がって言った。
もう、まるでここに用などないといった具合に――
「それでは、ご馳走様でした」
「待て」
さっさと退出しようとする天女を、帝が引き留めた。
「このまま、泊まっていけ」
「えっ?」
天女は困惑した。せっかく仮住まいを用意して貰ったのに、そこに帰らず、ここに泊まる意味が分からなかった。
「そなたが良いと言うまで、指一本触れぬと約束しよう」
「いや、絶対良いなんて言いません」
キッパリそう言い切る天女に、帝は嘆息しつつも、誘いを繰り返した。
「とにかく泊まっていけ。そなたの為に言っている」
「姫さま、もう夜も更けました。これから、禁足地の私邸に戻るのも面倒ですし、私もすぐ側の間に控えておりますので、心配なさるようなことは何も起きませぬ」
右近もそう言うので、結局押し切られ、夜御殿内に寝床を用意されることになった。
いつぞや通された、帝の寝所である御帳台の目と鼻の先に、天女の為の寝床が敷かれた。
「眠るまで、少し話でもしよう」
「いや、私朝は早いので……」
そうして、さっさと寝床に横になった。
羽織っていた袿を布団代わりに、帝に背を向ける格好になる。
「そなたは早起きなのか? 明日はゆっくり寝ていても構わないぞ?」
「もう眠るので、ちょっと静かにしてくれませんか?」
「……」
念の為、天女は自分の周囲に結界を張った。万が一、帝が手を出してこようものなら、電撃が落ちる具合だ。
その晩は、前日からの疲れもあり、泥のように眠った。
翌朝、まだ暗いうちに天女は目を覚ました。
帝はまだ眠っているようで、辺りは静まり返っている。
(仕事に行かなきゃ……)
天女は控えの間で眠っていた右近を、そっと起こした。
「う……ん、姫さま?」
「仕事に行ってくるわ」
「えっ、仕事?」
右近は慌てて飛び起きた。
「仕事とは、一体どういうことですか?」
「しーっ、声が大きい」
天女は人差し指を唇に当て、右近に告げた。
「もちろん、洗濯だけど?」
「洗濯ぅ!?」
天女はにっこりと微笑んだ。
「私、洗濯だけは得意なの。昨日も皆によく働いたと褒められたのよ」
「姫さま。あなたはもう雑仕女ではないのですよ? 主上のご寵愛を一身に受ける寵姫なのです」
右近は、天女にはっきり自分の立場を分からせようとした。
「これから中宮になろうとするお方なのです」
しかし、当の本人はどこ吹く風だった。
「だから、私はイナバさまと結婚するんだから、帝の后にはならないって……」
(ここまで姫さまの心を掴むイナバさまとは、一体どんな殿方なのでしょう?)
右近は、ますますイナバさまが気になった。
「それで、私が昨日着てた仕事着はどこ?」
「あれなら、処分してしまいましたよ」
「は? なら、代わりの仕事着を用意してちょうだい。そうでなきゃ、このまま行く」
右近は仕方なく、新品の生成りの小袖を用意して、天女に手渡した。
「主上に知られたら、なんて言われるか……」
額に手を当て嘆く右近に、天女はあっけらかんとして言った。
「そもそも帝本人があそこで働けと最初に言ったのよ」
「もう、今は働かなくていいんですよ?」
「私、常日頃から、イナバさまに言われてるの。『働かざる者食うべからず』って」
笑顔でそう言う天女を見て、何故帝が彼女を求めるのか、右近には理由が分かった気がした。
「お待ち下さい、姫さま」
天女が足を止めて、振り返った。
「私も共に参ります」
朝の清涼殿。静まり返る御殿の奥から、御簾を軽く上げて現れた天女の姿を見て、承香殿の女房は、思わず仰天した。
「た、大変だわ……」
主である女御の使いで訪れたが、よりにもよって帝の寝所から、見知らぬ女が出てくるとは思わなかった。
生成りの小袖を襷掛けにし、意気揚々と女房を連れて、大股で出て行った。
「雑仕女? もし、そうだとしても、主上の寝所から出て来たことは事実……」
承香殿の女房は、すぐに近くを通りかかった蔵人を捕まえた。
「ちょっと、あの女は誰なの?」
「昨夜、御上が夕餉を共にし、そのままお召しになったお方でございます」
一昨日、主上が不審な女を寝所に招き入れたという噂があったけれど、あれは事実だったのだろうか?
「あの娘は、一体どこの娘なの?」
「私も詳しくは存じませぬ。噂によると、禁足地である御上の私邸の庭の池に現れたとか」
「池?」
「大層、艶かしい姿で、御上を魅了されたとか。昨日、蔵人所でちょっとした騒ぎを起こしたのですが、御上の鶴の一声で釈放されましたし……」
「な、何ですって!」
承香殿の女房は、慌てて引き返し、己の主人である承香殿の女御である韶子に、見聞きしたことを告げた。
「一体、どういうことですの?」
わなわなと震え、韶子は手に持っていた檜扇をパチンと激しく音を立てて閉じた。
「弘徽殿の、でもなく不審な女? 主上はそんな女をお召しになったというの?」
「大層、ご執心のようです」
「まさか、主上はその娘を入内させるおつもりなのかしら?」
韶子は檜扇を激しく畳の上に叩き付けた。綴り紐が千切れ、板がバラバラになって散らばった。
「一体どこの娘なの? すぐに調べなさい」
縫殿の裏手の作業場に、何食わぬ顔で現れた天女を見て、先輩雑仕女たちは度肝を抜かれた。
「あ、あんた何しに来たんだ?」
昨日、蔵人所へ行った後、主上に召されたと聞いていた。
「姫さまは、洗濯をなさりたいと仰せです」
右近が雑仕女たちに伝えると
皆は複雑そうな表情を浮かべた。
「主上のお召しがあったお方を、こんなところで洗濯なんてさせられないよ……」
「お方さま、と呼ぶべきかな?」
「ちょっと待ってよ! 私、帝とは何でもないわよ? ただ同じ部屋で寝ただけだもん」
その場が一瞬、シーンと静まるも、先輩雑仕女が、天女に諭すように言う。
「同じ部屋で寝たって事実だけで、充分なんだよ……」
「実際、契ったかどうかなんてどうでもいいんだ。あんたが、主上に召されたという事実さえあれば」
天女は首を傾げた。すると、右近が落ち着いた声で告げた。
「姫さまは、既に主上の后に準じたお立場になられました」
「あとは体裁を整えて、立后なさるだけです」
「立后だって!?」
先輩雑仕女たちが揃って驚きの声を上げた。
「あ、あんたが中宮になるのかい?」
「だから、私はイナバさまと結婚するので、帝の后になんか、絶対になりませんて!」
先輩雑仕女は、天女の腕を掴んで、優しく言い聞かせるように言った。
「……そうじゃないんだよ。あんたにその気がなくっても、もう外堀を埋められてるんだ」
「あんたはもう、誰もが認める主上の后なんだよ……」
「!!」
天女はもの凄い形相で、右近を振り返った。
右近は一瞬たじろぐも、その視線を真っ直ぐに見つめ返した。
「どうして、教えてくれなかったの? 心配するようなことは何も起きないって右近が言ったんじゃない!」
「姫さまの懸念は、主上のお手付きになることでした。私は何も嘘は申しておりませぬ」
確かに、帝と契った訳ではない。
しかし、契ったも同然の関係にされてしまったのだ。
「私はイナバさまのものなのに……」
ポロポロと大粒の涙を溢しながら、天女はよろよろと井戸へ向かった。
「姫さま、どちらへ?」
「決まってるでしょう? 私はただ洗濯をするのよ」
「お、お手伝いします」
雑仕女たちが慌てて後に続き、天女と共に洗濯をし始めた。
右近は少し胸が痛んだが、自分の役目はあくまでも、姫を帝の中宮にすることだった。
「姫さま、私は少し縫殿の女房と今後の話をしてきます」
「勝手にすれば?」
ゴシゴシと洗濯をしながら、こちらを見もせずに天女が言った。
お許しが出たので、右近はその場をそっと離れる。裏庭の入り口に立っていた、帝が遣わせた近衛の武官に、くれぐれも姫の身を守るように伝えた。
「宮中で、姫さまのことはもうあっという間に伝わっているだろうし」
養父になる予定の内大臣も参内次第、主上に呼ばれるだろう。
「それより、イナバなる人物を早急に調べなければ……」
殿上人でもない限り、殿上の間に昇ることは叶わない。滅多なことにはならないと信じてはいるが――万が一、宮中に乗り込まれて、姫を奪い返しにでも現れたら面倒この上ない。
右近は蔵人所へ行き、
蔵人の一人を捕まえると、
「イナバと申す男について調べよ。官人の名簿に名がないか、因幡国に縁のある者ではないか。出入りの商人や地方から参内した者にも当たれ」
「そのイナバという者は何者なんです?」
右近は少し声を落として、話し始めた。
「姫さまの婚約者なる人物らしいが、かなり歳上の老人らしい。主上が姫さまを中宮になさるとお決めになられた以上、障りが出るやもしれぬ」
「とにかく見つけ次第、すぐ報告してくれ」
「わ、分かりました」
走り去る蔵人の背を見送りながら、右近は考えた。
(イナバなる人物が見つかったら、直接会って、姫を諦めて下さるようにお願いしなくては……)
