かつて、大穴牟遲神は八十神の荷物持ちとして、稲羽の八上比売への求婚の旅に付き従っていた。
その旅の途中、海岸で赤肌の兎が泣いていた。
八十神は、兎に海水に浸かり風に当たれば治ると嘘をつき、兎をさらに苦しませた。
そこに、最後に荷物を持って大穴牟遲神が現れた。そして兎に今すぐ真水で傷を洗い、蒲の穂を取ってその粉にくるまるようにと言った。
その通りにすると、兎はたちまち元の美しい毛並みに戻った。
その一部始終を、見ていた幼い娘がいた。
赤肌の兎が苦しんでいるのを放っておけず、周りの大人たちに助けを求めて回っていた。
しかし、大人たちは兎の自業自得だから放っておけという。
もちろん、娘は八十神にも助けを求めた。
しかし、八十神が兎に教えた治療法はあまりにも酷いものだった。
娘は最後の頼みの綱として、大穴牟遲神を頼ったのだ。
大穴牟遲神は娘の期待通りに兎を助け、兎は八上比売が大穴牟遲神を選ぶだろうと告げた。
そんな兎は兎神となって、今は天の川のほとりで暮らしていた。
「イナバさま!!」
眷属の子兎を引き連れて、幼い天女が駆け寄ってきた。
「イナバさま、アケビの実がこんなに生りました」
そう言って、籠いっぱいに入ったアケビの実を嬉しそうに差し出す。
「そなた、まさか実を全てもいできたのか?」
「はい。いけませんでしたか?」
イナバさまと呼ばれた巨大な兎神は、前脚で頭を抱えた。
「全てもいでしまえば、鳥たちの食す分が足りなくなってしまうだろう?」
そして、優しく諭すように教えた。
「植物は鳥たちに実を食べて貰うことで、その分布を広げている。これを鳥散布といって……」
天女は大きな瞳を、さらに一瞬大きく見開き、くるりと背を向けて言った。
「鳥さんとアケビの木に謝ってきます」
「アケビの木はまだ他にもあるだろう?」
「イナバさまぁ!」
天女はガバッと兎神に抱きついた。
「だいすき!」
「ええぃ、その手を離せ! 離さんか!」
時は流れ――
天女はすっかり年頃の娘に成長した。
天の川のほとりに住む者たちは、揃って織物に精を出す。それがこの地での古くからの慣わしで、天女も例に漏れず、機織りに勤しんでいた。
その美しく成長した姿を眺めながら、兎神は少し寂しさを感じ始めていた。
「そろそろ、あれにも相応しい夫を――」
「あっ」
天女の機織りの手が止まり、兎神は何事かと顔を上げた。
「どうした?」
「また失敗しちゃった……」
兎神はやれやれと立ち上がって、機織り機を見た。
そこには、見るも無残に縦糸と横糸が完全に絡まってぐちゃぐちゃになってしまった織りかけの生地が――
「どこをどうしたら、こんな風になるんだ?」
天女は悪ぶれずに答える。
「きっと、機織り機が悪いんです」
「いや、そんなことはない」
兎神は、スッと人型に転じると機織り機の前に座った。
「よく見ておれ」
白く長い髪に真っ赤な瞳──優しげな風貌をしているが、その姿に似つかず口調は厳しい。
「いつになったら、そなたはまともに機織りが出来るようになるんだ?」
小気味よく機を織る音を響かせ、兎神が綺麗に布を織っていく。
その手際の良さを目の当たりにし、天女が小さくぼやいた。
「私より、イナバさまが布を織れば良いと思います。適材適所です」
「では、そなたは何をするというのだ?」
すると、天女は少し考えた素振りをしてから答えた。
「洗濯です」
「他には? 何が出来る?」
「えーっと、料理ですかね?」
兎神は、長い溜め息を吐いた。
「あの黒焦げのことを料理と呼ぶなら、窯の中の炭も立派な料理だろうな」
「ひどい」
「そなたに、そろそろ夫をやろうと考えていたが……」
すると、天女は身を乗り出し、兎神の腕を掴んで言った。
「イナバさまを私に下さるのですか?」
もの凄い強い力で掴まれ、兎神は一瞬たじろぐも、すぐに我に返って天女を宥めるようにして言った。
「どうして、そうなるのだ……?」
天女の真っ直ぐな視線から目を逸らし、兎神は真面目に説いた。
「良いか? そなたは天帝より預かりし大事な娘。私はそなたの育ての親として、ただ良い縁を結ばせてやりたいのだ」
しかし、天女は首を横に振る。
「良い縁など私は要りません。イナバさまのお傍に居られれば、それが本望にございます」
「……」
兎神は頭を抱えた。
天女がここに来た時のことを思い出した。
遥か遠い昔、鰐鮫らによって、皮を剥がれた時、大穴牟遲神の背後から、こちらの様子を心配そうに窺っていた人間の娘――
あの日、天帝に呼び出され、まだ幼かった天女と初めて対面させられた瞬間――あの時の娘だと、一目見て気付いた。
後に大穴牟遲神から大国主と名を変えた神の手により、あの時の娘が天に上げられたと聞いた。
「ウサギさん、ほしいの! ウサギさんといっしょがいい! だっこしたい!」
「兎が欲しいとワガママを申してな。手を焼いておる。そなたに預けるので、どうか娘を導いてやってくれ」
天帝にそう言われ、仕方なく親代わりになり、ここまで育ててきた。
「イナバさま……? 大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ。少し考え事をしていた」
「イナバさま、木に登って汗をかいたので、川で水浴びをしてきます」
「分かった。くれぐれも、気を付けろよ」
「大丈夫ですよ。結界の外には出ませんから」
天女はそう言うと、部屋を出て行った。
兎神は目を閉じ、人型から兎の姿に戻った。
天女は小さな庵を振り返り、胸に残る蟠りを噛み締める。
「イナバさまが、私を手放そうとしている……」
その旅の途中、海岸で赤肌の兎が泣いていた。
八十神は、兎に海水に浸かり風に当たれば治ると嘘をつき、兎をさらに苦しませた。
そこに、最後に荷物を持って大穴牟遲神が現れた。そして兎に今すぐ真水で傷を洗い、蒲の穂を取ってその粉にくるまるようにと言った。
その通りにすると、兎はたちまち元の美しい毛並みに戻った。
その一部始終を、見ていた幼い娘がいた。
赤肌の兎が苦しんでいるのを放っておけず、周りの大人たちに助けを求めて回っていた。
しかし、大人たちは兎の自業自得だから放っておけという。
もちろん、娘は八十神にも助けを求めた。
しかし、八十神が兎に教えた治療法はあまりにも酷いものだった。
娘は最後の頼みの綱として、大穴牟遲神を頼ったのだ。
大穴牟遲神は娘の期待通りに兎を助け、兎は八上比売が大穴牟遲神を選ぶだろうと告げた。
そんな兎は兎神となって、今は天の川のほとりで暮らしていた。
「イナバさま!!」
眷属の子兎を引き連れて、幼い天女が駆け寄ってきた。
「イナバさま、アケビの実がこんなに生りました」
そう言って、籠いっぱいに入ったアケビの実を嬉しそうに差し出す。
「そなた、まさか実を全てもいできたのか?」
「はい。いけませんでしたか?」
イナバさまと呼ばれた巨大な兎神は、前脚で頭を抱えた。
「全てもいでしまえば、鳥たちの食す分が足りなくなってしまうだろう?」
そして、優しく諭すように教えた。
「植物は鳥たちに実を食べて貰うことで、その分布を広げている。これを鳥散布といって……」
天女は大きな瞳を、さらに一瞬大きく見開き、くるりと背を向けて言った。
「鳥さんとアケビの木に謝ってきます」
「アケビの木はまだ他にもあるだろう?」
「イナバさまぁ!」
天女はガバッと兎神に抱きついた。
「だいすき!」
「ええぃ、その手を離せ! 離さんか!」
時は流れ――
天女はすっかり年頃の娘に成長した。
天の川のほとりに住む者たちは、揃って織物に精を出す。それがこの地での古くからの慣わしで、天女も例に漏れず、機織りに勤しんでいた。
その美しく成長した姿を眺めながら、兎神は少し寂しさを感じ始めていた。
「そろそろ、あれにも相応しい夫を――」
「あっ」
天女の機織りの手が止まり、兎神は何事かと顔を上げた。
「どうした?」
「また失敗しちゃった……」
兎神はやれやれと立ち上がって、機織り機を見た。
そこには、見るも無残に縦糸と横糸が完全に絡まってぐちゃぐちゃになってしまった織りかけの生地が――
「どこをどうしたら、こんな風になるんだ?」
天女は悪ぶれずに答える。
「きっと、機織り機が悪いんです」
「いや、そんなことはない」
兎神は、スッと人型に転じると機織り機の前に座った。
「よく見ておれ」
白く長い髪に真っ赤な瞳──優しげな風貌をしているが、その姿に似つかず口調は厳しい。
「いつになったら、そなたはまともに機織りが出来るようになるんだ?」
小気味よく機を織る音を響かせ、兎神が綺麗に布を織っていく。
その手際の良さを目の当たりにし、天女が小さくぼやいた。
「私より、イナバさまが布を織れば良いと思います。適材適所です」
「では、そなたは何をするというのだ?」
すると、天女は少し考えた素振りをしてから答えた。
「洗濯です」
「他には? 何が出来る?」
「えーっと、料理ですかね?」
兎神は、長い溜め息を吐いた。
「あの黒焦げのことを料理と呼ぶなら、窯の中の炭も立派な料理だろうな」
「ひどい」
「そなたに、そろそろ夫をやろうと考えていたが……」
すると、天女は身を乗り出し、兎神の腕を掴んで言った。
「イナバさまを私に下さるのですか?」
もの凄い強い力で掴まれ、兎神は一瞬たじろぐも、すぐに我に返って天女を宥めるようにして言った。
「どうして、そうなるのだ……?」
天女の真っ直ぐな視線から目を逸らし、兎神は真面目に説いた。
「良いか? そなたは天帝より預かりし大事な娘。私はそなたの育ての親として、ただ良い縁を結ばせてやりたいのだ」
しかし、天女は首を横に振る。
「良い縁など私は要りません。イナバさまのお傍に居られれば、それが本望にございます」
「……」
兎神は頭を抱えた。
天女がここに来た時のことを思い出した。
遥か遠い昔、鰐鮫らによって、皮を剥がれた時、大穴牟遲神の背後から、こちらの様子を心配そうに窺っていた人間の娘――
あの日、天帝に呼び出され、まだ幼かった天女と初めて対面させられた瞬間――あの時の娘だと、一目見て気付いた。
後に大穴牟遲神から大国主と名を変えた神の手により、あの時の娘が天に上げられたと聞いた。
「ウサギさん、ほしいの! ウサギさんといっしょがいい! だっこしたい!」
「兎が欲しいとワガママを申してな。手を焼いておる。そなたに預けるので、どうか娘を導いてやってくれ」
天帝にそう言われ、仕方なく親代わりになり、ここまで育ててきた。
「イナバさま……? 大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ。少し考え事をしていた」
「イナバさま、木に登って汗をかいたので、川で水浴びをしてきます」
「分かった。くれぐれも、気を付けろよ」
「大丈夫ですよ。結界の外には出ませんから」
天女はそう言うと、部屋を出て行った。
兎神は目を閉じ、人型から兎の姿に戻った。
天女は小さな庵を振り返り、胸に残る蟠りを噛み締める。
「イナバさまが、私を手放そうとしている……」
