今日は部活があって、私は放課後、テニスコートに向かった。
ただ、コートに向かう途中、後ろを歩いていた人たちの会話が耳に入ってしまう。
「あ、前の子、栗原さんじゃない?ほら、陸斗くんの彼女の。千夏、陸斗くん好きって言ってたじゃん」
「陸斗くんに彼女いるのは知ってたってば。だけどこんな可愛くて性格いいって言われてるんだから敵うはずないよ」
「そう?でもさ……」
私の話をしているのはすぐにわかった。少し距離があるから、聞こえていないと踏んだのかもしれない。
いつもそうだ。私は気づいていないふりをしているだけ。
声は抗おうとしても勝手に耳に入ってくるのだ。
今日も、聞きたくない声が耳に入ってくる。
「やっぱり、完璧すぎて怖いよね。なんか裏でもあるんじゃない?」
「確かに、言われて見ればそうかも?だとしたら、陸斗くんが可哀想なんだけど」
無意識に手が震えていた。
そうだ、陸斗が可哀想だ。あの人たちの推理は合っている。
それでも、陸斗の横が心地よくて。一緒にいるのが一番幸せで。
感情がぐちゃぐちゃで目頭が熱い。私はそれでも涙をなんとか引っ込め、テニスコートに入った。
道を曲がってテニスコートに入る時は、そのまま直進する女子たちが見えないように気を遣いながら。
部活が終わった後、私は近所の公園に寄り道した。心が折れそうになった時は、大体家には帰らずここに寄る。一人になるために。
長い階段を上ると、森に囲まれた小さなスペースがあって、ポツンとベンチが置かれている。
ただ、階段は手すりはあるものの木々に囲まれていて、途中で枝に塞がれているところもあるので潜り抜けなくてはいけない。何より気が遠くなるほど長い。
木で階段の入り口が隠されているので、発見する人自体珍しいだろう。
……それをフラフラしている途中で見つけたのが私だが。
いつも通りに階段を上ってベンチに腰掛けると、目の前にある美しい景色を何も考えずに見つめる。
夕日が沈んでいくオレンジ色に染まった世界で、その下には明かりを灯した数えきれないほどの家。目の前の視界を妨げるものはなくて、遥か遠くまで続く世界だけがそこにある。
こんなに広いんだから、私のような人がどこかにいるのではないか。そう、一人ではないと思える気がした。
なのに今日は……今日だけは、この広い世界で、自分一人取り残されたような気分だった。
「……っ」
視界が歪んで、丸い夕日がぐにゃぐにゃになる。
背中を生ぬるい風が吹き抜けていって、だけど暑いのだか寒いのだかわからない。
「お姉さん、なんで泣いてるの?」
ふと背後から声がして振り返ると、ベンチの背もたれに手を置き、こちらを見つめる六歳くらいの少女がいた。少女はニッコリ笑って私の前にやってくる。
腰まで届くサラサラな黒髪が風に吹かれて揺れ、黒曜石のように深みを感じる瞳がこちらをじっと見つめていた。日本人……といえば納得できる容姿だが、なんだか人間とは思えないほど不思議なオーラを纏っている。
可愛いらしい女の子だ。けれど女の子のイメージとはかけ離れていて、少し大人びた『少女』という言葉が一番当てはまった。
「あなたは、誰ですか?」
「ふふ、さっきまで張り詰めた表情で考え込んでいたのに、最初の言葉はそれなんだね」
クスクスと大人びた表情で笑い、少女は私の隣に座る。
地面まで届かない小さな足をぶらぶらさせながら、「お姉さんの悩みは、聞かなくても知ってるよ」と遥か向こうの景色を眺めて言った。
「ねぇ、お姉さんは、告白される前に戻りたい?」
「……え?」
私は理解が追いつかず、思わず間の抜けた言葉を溢す。
——告白される前に、戻る?
ずっと、楽になりたいと思っていた。告白される前に戻ることができるのなら、陸斗と付き合わなかった世界にするなり、ちゃんと本性を出して付き合うなり、どんな風にもできるだろう。
体は動かないまま頭の中でぐるぐると考えている間に、少女はフリルのあしらわれた可愛らしいワンピースのポケットからとあるものを取り出す。
それは、私の名前と同じ、アヤメの切り花だった。
陸斗に告白される時に差し出された、私にとって最も思い入れが深い花でもある。
「この花の花びらを一枚ちぎって“やり直したい”と願えば、きっと告白される前に戻れる。……そう、魔法だよ」
気を使うように顔を覗き込んでくるけれど、少女の口元は弧を描いていた。
——この子は、私が悩んでいると知っている。
本能がそう告げていた。
しかし、口元は笑っているし、馬鹿にしているのだろうか。それとも本当に私を心配して、魔法のような花を差し出してきているのだろうか。
考えれば考えるほど、理解できなくなっていく。
「まぁ、こんなことを突然言われても困るよね。それも仕方がない。そもそも、使うも使わないもお姉さんの自由だから」
少女は私の手に無理やり花を握らせ、ベンチから立ち上がって階段のほうに歩いていく。
「あ、言い忘れてたけど……」
ふと少女が足を止め、くるりとこちらを振り向いた。
「アヤメの花ってさ、『希望』っていう花言葉があるんだって。ロマンチックだよね。その花は、きっとお姉さんの望みを叶える。安心して頼っていいよ」
「……それは、私にこの魔法を使えってこと?」
「さっき言ったでしょ?お姉さんの自由だって」
再び前を向き直し、少女は「じゃあね」と手を振りながら階段の先へ消えていった。
見知らぬ少女から花をもらうわけにはいかない、と慌ててすぐに階段の下へ降りたけれど、なぜか少女の姿はどこにも見当たらなかった。
夢かとすら思ったのに、握った手の中には、しっかりと一本のアヤメの花の感触がある。
ただ、コートに向かう途中、後ろを歩いていた人たちの会話が耳に入ってしまう。
「あ、前の子、栗原さんじゃない?ほら、陸斗くんの彼女の。千夏、陸斗くん好きって言ってたじゃん」
「陸斗くんに彼女いるのは知ってたってば。だけどこんな可愛くて性格いいって言われてるんだから敵うはずないよ」
「そう?でもさ……」
私の話をしているのはすぐにわかった。少し距離があるから、聞こえていないと踏んだのかもしれない。
いつもそうだ。私は気づいていないふりをしているだけ。
声は抗おうとしても勝手に耳に入ってくるのだ。
今日も、聞きたくない声が耳に入ってくる。
「やっぱり、完璧すぎて怖いよね。なんか裏でもあるんじゃない?」
「確かに、言われて見ればそうかも?だとしたら、陸斗くんが可哀想なんだけど」
無意識に手が震えていた。
そうだ、陸斗が可哀想だ。あの人たちの推理は合っている。
それでも、陸斗の横が心地よくて。一緒にいるのが一番幸せで。
感情がぐちゃぐちゃで目頭が熱い。私はそれでも涙をなんとか引っ込め、テニスコートに入った。
道を曲がってテニスコートに入る時は、そのまま直進する女子たちが見えないように気を遣いながら。
部活が終わった後、私は近所の公園に寄り道した。心が折れそうになった時は、大体家には帰らずここに寄る。一人になるために。
長い階段を上ると、森に囲まれた小さなスペースがあって、ポツンとベンチが置かれている。
ただ、階段は手すりはあるものの木々に囲まれていて、途中で枝に塞がれているところもあるので潜り抜けなくてはいけない。何より気が遠くなるほど長い。
木で階段の入り口が隠されているので、発見する人自体珍しいだろう。
……それをフラフラしている途中で見つけたのが私だが。
いつも通りに階段を上ってベンチに腰掛けると、目の前にある美しい景色を何も考えずに見つめる。
夕日が沈んでいくオレンジ色に染まった世界で、その下には明かりを灯した数えきれないほどの家。目の前の視界を妨げるものはなくて、遥か遠くまで続く世界だけがそこにある。
こんなに広いんだから、私のような人がどこかにいるのではないか。そう、一人ではないと思える気がした。
なのに今日は……今日だけは、この広い世界で、自分一人取り残されたような気分だった。
「……っ」
視界が歪んで、丸い夕日がぐにゃぐにゃになる。
背中を生ぬるい風が吹き抜けていって、だけど暑いのだか寒いのだかわからない。
「お姉さん、なんで泣いてるの?」
ふと背後から声がして振り返ると、ベンチの背もたれに手を置き、こちらを見つめる六歳くらいの少女がいた。少女はニッコリ笑って私の前にやってくる。
腰まで届くサラサラな黒髪が風に吹かれて揺れ、黒曜石のように深みを感じる瞳がこちらをじっと見つめていた。日本人……といえば納得できる容姿だが、なんだか人間とは思えないほど不思議なオーラを纏っている。
可愛いらしい女の子だ。けれど女の子のイメージとはかけ離れていて、少し大人びた『少女』という言葉が一番当てはまった。
「あなたは、誰ですか?」
「ふふ、さっきまで張り詰めた表情で考え込んでいたのに、最初の言葉はそれなんだね」
クスクスと大人びた表情で笑い、少女は私の隣に座る。
地面まで届かない小さな足をぶらぶらさせながら、「お姉さんの悩みは、聞かなくても知ってるよ」と遥か向こうの景色を眺めて言った。
「ねぇ、お姉さんは、告白される前に戻りたい?」
「……え?」
私は理解が追いつかず、思わず間の抜けた言葉を溢す。
——告白される前に、戻る?
ずっと、楽になりたいと思っていた。告白される前に戻ることができるのなら、陸斗と付き合わなかった世界にするなり、ちゃんと本性を出して付き合うなり、どんな風にもできるだろう。
体は動かないまま頭の中でぐるぐると考えている間に、少女はフリルのあしらわれた可愛らしいワンピースのポケットからとあるものを取り出す。
それは、私の名前と同じ、アヤメの切り花だった。
陸斗に告白される時に差し出された、私にとって最も思い入れが深い花でもある。
「この花の花びらを一枚ちぎって“やり直したい”と願えば、きっと告白される前に戻れる。……そう、魔法だよ」
気を使うように顔を覗き込んでくるけれど、少女の口元は弧を描いていた。
——この子は、私が悩んでいると知っている。
本能がそう告げていた。
しかし、口元は笑っているし、馬鹿にしているのだろうか。それとも本当に私を心配して、魔法のような花を差し出してきているのだろうか。
考えれば考えるほど、理解できなくなっていく。
「まぁ、こんなことを突然言われても困るよね。それも仕方がない。そもそも、使うも使わないもお姉さんの自由だから」
少女は私の手に無理やり花を握らせ、ベンチから立ち上がって階段のほうに歩いていく。
「あ、言い忘れてたけど……」
ふと少女が足を止め、くるりとこちらを振り向いた。
「アヤメの花ってさ、『希望』っていう花言葉があるんだって。ロマンチックだよね。その花は、きっとお姉さんの望みを叶える。安心して頼っていいよ」
「……それは、私にこの魔法を使えってこと?」
「さっき言ったでしょ?お姉さんの自由だって」
再び前を向き直し、少女は「じゃあね」と手を振りながら階段の先へ消えていった。
見知らぬ少女から花をもらうわけにはいかない、と慌ててすぐに階段の下へ降りたけれど、なぜか少女の姿はどこにも見当たらなかった。
夢かとすら思ったのに、握った手の中には、しっかりと一本のアヤメの花の感触がある。
