「あ……」
薄暗い壁際に、虎のような髪を揺らしたサトコさんが立っていた。
私と同じように、はるか頭上の天井を見上げている。
「サトコ……さん……」
サトコさんはただ、天井から視線を下ろし、私の顔をまっすぐに見た。
「あのね、小舟の星座の話。考えてきたよ」
サトコさんは再び天井の傷とボルトの並びを見上げ、いつもの少し早口な調子で語り始めた。
「広い海でさ、迷子になっちゃった女の子がいるわけ。その子は、間違った方へ舟を漕いじゃったのは自分だから、誰にも頼らずに自分だけで戻んなきゃって思い込んでんの。誰かを呼ぶこともできなくて、この海には自分ひとりしかいないって、ずっと下向いて震えてる」
私は唇を結び、サトコさんの横顔を見つめた。
「でもさ、実はそこから少し離れたところに……もういっこ、舟が浮いてたんだよね」
サトコさんはそこで少しだけ口角を上げ、悪戯っぽく笑った。
「しかも、そっちのやつも、全然うまく漕げないの。ひとりで平気な顔してるくせに、ずっと同じところをぐるぐる回ってるだけ……ウケるでしょ」
胸の奥が、きゅうっと音を立てて締め付けられた。
その物語の中にいるのは……私と、そしてサトコさんだ。完璧な強者が駄目な私を救い上げるお話ではなく、同じように不器用で、同じように孤独だったふたりの女の子のお話だ。
「でね、最初の女の子が、ようやく声を上げるの。そしたら向こうも『じゃあ、こっちも手伝って』って返事してさ。ふたりは舟を寄せて、一緒に岸の方角を探し始めるってわけ……どう? 孤高の女海賊より、だいぶマシだと思わない?」
サトコさんは私に向き直り、少しだけ首を傾げた。
「ね、どうする? いまなら聞いてあげるよ」
私は震える手で制服のスカートを強く握りしめ、こみ上げる涙を必死に堪えた。
彼女を傷つけた事実はある。罪はある。罰は受けなきゃならない。でも、それでもいま、彼女は私に手を差し伸べてくれている。
一緒に落ちていった、あの日のように。
「サトコさん……」
私は顔を上げ、彼女の目を見て、ようやくその一言を絞り出した。
「……助けて」
私の口からその言葉がこぼれた刹那。サトコさんはふわりと、あの西日さす天井で見せてくれたのと同じ笑顔を咲かせた。
そして、差し出した右手で私の手をギュッと力強く握りしめ、そのまま駆け出した。
私たちは体育館の出口へと向かい、上履きのままで外へと飛び出したのだ。
外は、いつの間にか本降りの雨になっていた。
灰色の空から落ちてくる無数の雨粒が、地面を叩いて白いしぶきを上げている。それでもサトコさんは足を止めず、私の手を強く引いたまま、雨の中を駆けてゆく。
身体は浮かない────魔法はもう、いらない。
「いいじゃん、ミスコン。かましてやろーよ!」
雨音に負けないくらい大きな声で、前を走るサトコさんが振り返って叫んだ。
思ってもみなかったその返事に、私は息を切らしながら、つい声を上げた。
「え、出なくていいよって。そう言うんじゃなくて!?」
「そうだよ〜。なんか問題ある?」
「いや、だって私……」
「あのね、ミキチ。自分を可愛いって思い込むのも────」
あ、これは。いつものやつだ。
私は彼女と呼吸を合わせることにした。タイムラグはほんのコンマ0.5秒といったところか。それで十分だろう。だって何度も聞いてきたから。彼女の口癖だ。
「「技術のうち!」」
ぴったりハモった。満点評価だ。
サトコさんは振り向き、私と顔を見合わせて笑った。
晴れの雨だ。
空にかかった二重の虹が見える。いまの私たちならきっと、ジャンプすれば届きそうな────そんな気がした。17歳の、ある日のことだった。



