泣く資格なんてないだろうに。一丁前に夜通し枕を濡らしてから、私は登校した。
本音を言えば学校なんてもう行きたくない。けれど、どうしてもやらなければならないことがあったのだ。
空には重たい灰色の雲が垂れ込めていた。今にも雨が降り出しそうな湿った空気の中、私はいつもより少し早く教室へ入った。
窓際の席では、一軍女子たちが机を寄せて、文化祭のパンフレットを囲みながら談笑していた。私が近づいていくと、リーダー格の女子が気づき、挑発するように片眉を上げた。
「あ、ミキちゃんおはよー。で、どうなの? 今日が最終期限なんだけど」
周囲の女子たちが、くすくすと笑いながらこちらを見る。
私は自分の机にカバンを置かず、肩にかけたまま彼女たちの前に立った。指先は氷のように冷たく、心臓は嫌な音を立てて脈打っていたけれど、不思議と足は震えなかった。
「サトコ……佐山さんのパンツ写真は撮れなかったから。私、ミスコン出るよ」
普段の私からは想像もつかないほど、平坦で静かな声が出た。
リーダーの女子が、一瞬だけぽかんと口を開け、それからすぐに意地悪な笑みを深めた。
「ふーん、そっか。ま、ミキちゃんがどうしても出たいって言うなら止めないけど? 代表、決定ってことで実行委員に言っとくね」
「うん。そうして」
どこからか起こる小さな笑い声。
私はそれ以上何も言い返さず、彼女たちに背を向けて自分の席へと戻った。
周囲から見れば、それはいじめに屈しない覚悟の宣言に見えたのかもしれない。けれど、私の胸の奥にあるのは、そんな誇らしい戦火の勇気などではなかった。
全校生徒が集まるステージの上で、スポットライトを浴びて立ち尽くす自分の姿を想像する。向けられる無数の視線と、嘲笑と、ひそひそ話。想像しただけで胃の奥が雑巾みたいに絞られ、吐き気がこみ上げてきた。怖い。怖いに決まっている。その怖さは、最初の日から一ミリも消えてなどいなかった。
それでも、今度こそ自分ひとりで引き受けなければならないと思ったのだ────当然の報いだ。サトコさんを傷つけた分、私も傷つかなければならない。誰にも頼らず、逃げ道も探さず、ひとりでその罰を受けることだけが、私にできる唯一の償いなのだと考えていた。
*
昼休みの時間が来ても、当然食欲はない。私はいつもぼっち飯をしている北校舎の階段の踊り場に座り、スマホを取り出した。
慰めのつもりで買ったおにぎりを脇に置いて。ただサトコさんとのトーク画面を開く。昨日までは「今日、何時ごろ行けそう?」「グミ買っといたよ」といった短いやり取りが並んでいた画面が、今は朽ち果てた戦争の遺物のように虚しく思えた。
私は一度詰まった胸に息を吸い込み、冷たい指先で画面の文字を打つ。
『昨日言った交換条件の件、完全に断りました。写真は撮れないから、私がミスコンに出るって伝えてきました。最初からこうすべきだってわかってたのに。ごめんなさい。本当にごめんなさい』
何度も読み返し、幾度も削った。「もう一度話したい」とも「体育館に来てほしい」とも書けなかった。サトコさんをあれほど傷つけた自分が、これ以上自分の都合で彼女に頼みごとをするなんて、さらに迷惑をかけるだけだと思ったからだ。
送信ボタンを押す。
すぐに既読がつくはずもない。私はスマホを伏せて膝の上に置いた。
返事なんて来なくて当然だ。昨日、彼女ははっきりと「もう、会いたくない」と言ったのだから。これで全部終わったのだ。そう自分に言い聞かせた。
それなのに、五分も経たないうちに、私はまたスマホを手に取って画面を点灯させていた。通知は何もない。分かっていながら、ロックを解除してトーク画面を開き、まだ「既読」の文字すらついていない自分のメッセージを眺める。
五限目が終わる休み時間にも、六限目の移動教室の前にも、私は同じ動作を繰り返した。もう許してもらえるはずがないと頭では理解しているのに、指先だけが、まだ彼女と言葉を交わしたいと願って勝手に動いてしまうのだった。
こんなにも一日とは長いモノだったか? ようやく放課後のチャイムが鳴ると、教室は文化祭の準備のために慌ただしく動き始めた。
私の係の仕事は昨日までに終わっていた。教室にいても居場所はなく、かといって真っ直ぐ家に帰る気にもなれなかった。
気がつけば、私の足は自然と体育館へと向かっていた。
サトコさんと約束なんてない。こんなところに来るはずもない。昨日であの秘密基地は終わったのだ。ただ、今の私には、ほかに行きたい場所がどうしても思いつかなかった。
体育館の重い扉を少しだけ開けて中へ入ると、すでに運動部の生徒たちが練習を始めていた。
バスケットボールが床を叩く乾いた音。バレーボール部の鋭い掛け声。コーティングされた床板の上を、何十人もの生徒たちが生き生きと駆け回っている。
私は練習の邪魔にならないよう、入り口近くの薄暗い壁際に背を預けて立ち、はるか頭上の天井を見上げた。
十メートル上の、鉄骨が組まれた薄暗い空間。
目を凝らせば、地上からでも、私たちがいつも並んで座っていた梁の位置が分かった。塗装が剥げた跡と、四つ並んだネジ。そして、そこから少し離れたところにある錆びたボルト。私たちが「小舟と、ひとりの乗り手」と名付けたあの星座も、遠くて小さな点となってそこにあった。
「パシーン! と、思いっきり蹴ってみよう」
「技術というのはさ。もちろん、あるよ。すごいいっぱいある」
「いいぞぉ、お前それぇ! できたじゃないかぁ!」
すぐ目の前のコートで、汗を光らせた生徒たちが声を掛け合っている。
あの時は、天井で寝そべっていた時は。彼らの姿がまるで別世界の映画か、絵空事のように遠く感じられた。あんな青春の輪の中に入れなくても、自分たちにもこんなに心地よい世界があるのだと、どこか誇らしいような気持ちで眺めていたのだ。
ああ、そうか────隣にサトコさんがいてくれた。それが全てだった。
床の模様がタコに見えると言えば、身を乗り出して笑ってくれた。お菓子の袋が開かないと言えば、片手ずつ出し合って一緒に引っ張ってくれた。天井の傷を指差してくだらない星座を作れば、「続きを考えとく」と約束してくれた。
何かを見つけたとき、すぐに「見て」と言える相手が隣にいた。私の不器用な言葉を、手を握ったまま面白がって受け取ってくれる人がいた。だから私は、あの薄暗くて埃っぽい場所を、世界で一番居心地のいい秘密基地だと思えたのだ。
今は、どれだけ天井を見上げて新しい星を見つけても、その言葉を向ける先がない。右手のひらは空っぽで、ひどく冷たいままだ。
────ひとりなら、余計なストレスがない。
ずっとそうやって自分に言い聞かせてきた。誰とも関わらなければ傷つかない、ひとりでいるのが一番賢くて安全な生き方なのだと。
それなのに、サトコさんと手を繋ぐ温かさを知ってしまった後の私は、本当にひとりぼっちに戻ったこの静けさと寂しさに、どうしようもなく打ちのめされていた。
「────ッ」
ふいに。鼻の奥がツンと熱くなり、視界がじんわりと滲んでいく。
ここで泣くわけにはいかない。私は下唇を強く噛み締め、涙がこぼれないように顔を上げたまま、滲む視界の中で天井の小舟の星座を必死に目でなぞった。
「あたし、あの星座の物語。思いついた」
バスケットボールが跳ねる音と、部員たちの掛け声の隙間を縫うようにして、すぐ横からその声が降ってきた。
最初は、近くにいる誰かの声を聞き間違えたのだと思った。
だって、ここに彼女が来るはずがない。そんなはずない……でも……私は滲んだ目を瞬かせ、おそるおそる横を向いた。



