文化祭を数日後に控えた放課後、校内はペンキの匂いと生徒たちの浮足立った声で満ちていた。
私はカバンの中に、昨日駅前の洋菓子店で買った少し高価なクッキーの箱を忍ばせて、いつものように誰もいない体育館へと滑り込んだ。
「ミキチぃ〜。今日は遅刻だぞ〜」
ステージの脇で待っていたサトコさんが、ひらりと片手を挙げた
「ごめん。美味しいクッキー買ってたから」
「えー、それ文化祭の時にってやつじゃん?」
「うん。種類がすごくいっぱいあったから。試しにいくつか、ね」
笑顔を交わし、私たちは体育館の中央付近まで歩み寄った。サトコさんが差し出した右手を、私の左手が握りしめる。ひんやりとして柔らかい、すっかり馴染んだ手のひらの感触。
私は目を閉じかけた。すぐにあの浮遊感がやってきて、世界がぐるりと裏返るはずだった。
いち、に、さん、し、ご……。
頭の中で秒数を数える。
けれど、足の裏からは硬い床の感触が消えなかった。風も吹かない。スカートも揺れない。
「……あれ?」
目を開けると、サトコさんが少し眉をひそめて、繋いだ手を見つめていた。
「ごめん、もう一回いい?」
「あ、うん」
一度手を離し、今度はもう少し強く握り直す。サトコさんがふっと息を吸い込み、上を見上げる。
しかし、何も起きなかった。私たちの上履きは、ワックスの塗られた木の床板にぴったりと張り付いたままだ。
「なんでだろ。ちょっと場所、変えてみよっか」
サトコさんに手を引かれ、私たちはバスケットゴールの下へ移動した。それでも駄目だった。入り口の近くへ戻っても、ステージの階段の前に立っても、さらには右手と左手を入れ替えて握り直してみても、私たちの身体は一ミリたりとも宙に浮かなかった。
しんと静まり返った体育館で、私たちはどちらからともなく天井を見上げた。
薄暗い高みにある鉄骨の梁。昨日までは手を伸ばせば簡単に辿り着けたはずの私たちの秘密基地が、今はただの「見上げるしかない場所」になっていた。十メートルという距離が、絶対的な壁となって立ちはだかっている。本来の、普通の高さに戻ってしまったのだ。
「……そっか」
サトコさんが、ぽつりと乾いた声を落とした。
「もう、ここには上がれないのかも」
「え……?」
「実はさ、ここ最近、あたし一人のときにも何回か失敗してたんだよね」
サトコさんは繋いだままの手に視線を落とし、自嘲するように口角をわずかに上げた。
「飛ぼうとしても、全然身体が軽くなんない日が続いてて。あー、これ、いつか完全に消えちゃうのかなって、うすうす思ってた」
やはりそうか。
あの日、天井から地上へ引き戻されそうになった一瞬の恐怖。そして、日に日に長くなっていた発動までの待ち時間。サトコさんが「手が滑った」「重力くんがナメてる」と冗談めかして誤魔化していたのは、私を不安にさせないためだけではなかったのだ。
「……天井だとさ、ミキチが隣で笑ってたじゃん」
サトコさんの声が、少しだけ震えたような気がした。
「くだらないこと言って、お菓子食べて、星座の物語考えてさ。あの場所がなくなるのが、あたし怖かったんだよね。だから、なんでもないふりしてたんだけどさ……ごめん。文化祭の日、上に隠れるって約束、守れそうにないや」
繋がれた手から、サトコさんの落胆が痛いほど伝わってきた。
文化祭をふたりでやり過ごすという逃避行の約束は、これで果たせなくなった────逃げ場所は消えたのだ。
けれど、その事実を前にして、私の胸の奥から湧き上がってきたのは、ミスコンに対する恐怖ではなかった。
このまま天井へ上がれなくなったら、私たちにはもう、放課後にここで待ち合わせる理由がなくなってしまうのではないか。サトコさんと、もう会えなくなってしまうのではないか。
それが、何よりも嫌だった。
空なんて飛べなくてもいい。天井の秘密基地がなくなってもいい。ただの地上のどこかで、これからもサトコさんの隣でお菓子を食べて、他愛のない話をして笑っていたい。
「あの、サトコさん。飛べなくてもいいの。私はこれからもサトコさんと────」
そう言いかけた瞬間、私の喉がギュッと絞めつけられたように言葉を止めた。
これからも一緒にいたい。
そう願うなら、どうしても飛び越えられないものが、私の足元に横たわっていた。
反重力という特別な魔法が消え、ただの地面の上にふたりで立つというのなら。私は、自分が最初にどんな顔をしてこの体育館へやってきたのかを、隠したままでいるわけにはいかなかった。
そりゃそうだ。嘘の上に立ったまま「これからも友達でいてください」なんて言えるはずがない。
「……ミキチ?」
不思議そうに首を傾げるサトコさんの目を、私はまっすぐに見返すことができなかった。
手が震える。言えば、すべてが終わるかもしれない。せっかく手に入れたこの温かい時間を、自分自身の手で粉々に壊すことになる。
それでも、言わなければならなかった。
「……ごめんなさい。私、サトコさんに隠してたことがあるの」
私は、繋いでいた手を自分からそっとほどいた。サトコさんの手が、空中でわずかにさまよう。
「一番最初に、ここでサトコさんに声をかけた日のこと。手を握ってくださいって言ったの、空を飛べると思ったからじゃ……ないの」
自分の声が、やけに遠くで響いているみたいに聞こえた。
私は一つ一つ、泥を吐き出すように事実を並べた。
クラスの一軍女子たちの投票で、ミスコンの代表に選ばれてしまったこと。それを辞退させてほしくて泣きついたとき、交換条件として「佐山サトコを辱める写真を撮って、グループチャットに送れ」と命令されたこと。
そして、自分が笑いものになるのが怖くて、その条件を呑んだこと。
「技をかけて、サトコさんを床に転ばせるつもりだった。その隙に、スマホで写真を撮って……あいつらに渡して、自分だけミスコンから逃げようとしたの」
体育館の空気が、凍りついたように重くなった。
未遂に終わったのだからいいだろうとは、とても言えなかった。最初から断るつもりだったなんて嘘で、自分の浅ましさを綺麗に言い換えることもしなかった……できなかった。
「自分が標的になるのが、どうしても怖くて。サトコさんなら綺麗だし、きっと強いだろうから、少しくらい嫌な思いをさせても平気なんじゃないかって。それに……あんな子、きっとビッチだからって……勝手に決めつけて……自分を守るために、サトコさんを傷つけようとした」
顔を上げると、サトコさんはまるで知らない生き物を見るような目で、呆然と私を見つめていた。
その瞳から、ゆっくりと温度が消えていくのが分かった。驚きがやがて理解へと変わり、そして、深い傷心と怒りの色が滲み出てくる。
「……なに、それ」
低く掠れた声だった。
「じゃあ、なに。天井で一緒に笑ってたのも、お菓子食べてたのも、全部……あいつらに報告するためだったってこと? あたしがバカみたいに浮かれて喋ってたこと、裏で笑ってたの?」
「ち、違う。それは絶対に違うよ!」
私は必死に首を振った。
「天井に落ちてから、サトコさんと話すようになって……本当に楽しくて、そんなこと絶対にできないって思ったの! あいつらにも、もう写真は撮らないって断った。誰にも何も報告してない!」
「でも、最初はそうするつもりで来たんでしょ?」
サトコさんの冷たい声が、私の浅ましい弁解を鋭く遮った。
「あたしがさ、ミキチにならって思って、昔の恥ずかしい話とかしたときも。あんたはずっと、それを黙って聞いてたってことじゃん。あいつらの手先のままでさ」
「それは……」
言葉が詰まった。
途中で要求を拒んだからといって、最初に悪意を持って近づいた事実が帳消しになるわけじゃない。サトコさんからすれば、心を許したと思っていた相手が、実は自分を辱めるために送り込まれた刺客だったのだ。これまでの楽しかった時間のどこまでが本物で、どこからが嘘だったのか、信じられなくなるのは当然だった。
「……スマホ」
サトコさんが、私のポケットを指差した。
「え?」
「この前、天井で撮ったあたしの写真。今すぐここで消して」
心臓を直接刃物で抉られたような痛みが走った。
あの日、西日の中でふにゃりと笑ってくれた、サトコさんの無邪気な笑顔。「絶対誰にも見せません」と誓って、毎晩寝る前にこっそり見返していた、私の宝物のような一枚。
けれど、私にそれを拒む権利はなかった。そもそも私がスマホをポケットに入れていた理由は、彼女を盗撮するためだったのだから。
「……わかった」
私は震える指でスマホを取り出し、アルバムを開いた。
画面の中で、サトコさんが優しく笑っている。
ごみ箱のアイコンをタップする。『完全に削除しますか?』という無機質な確認画面が浮かび上がる。私は唇を噛み締め、それをサトコさんの目の前に向けてから、『削除』を押した。
画面から写真が消え、ただの白い背景だけが残った。ゴミ箱からも完全に消去されたそれは、もうどんな手を使っても二度と戻ってはこない。
「……消しました」
スマホをポケットに戻すと、サトコさんは一歩、私から後ろへ下がった。
その一歩の距離が、十メートルの天井よりもずっと遠く感じられた。
「もう、会いたくない」
サトコさんは、私の目を見ずにそう言った。
怒鳴られるよりも、突き飛ばされるよりも、その静かで明確な拒絶の言葉が、私の胸を容赦なく打ち据えた。
サトコさんはくるりと背を向け、出口へ向かって歩き出した。虎のような髪が揺れ、上履きの乾いた足音が遠ざかっていく。
私は、その背中を追いかけて手を掴むことができなかった。いや、資格なぞない────引き止めて「許してほしい」と縋りつくなんて。
彼女は私に傷つけられ、怒り、距離を置くことを選んだのだ。その拒絶をそのまま受け取ることしか、今の私にできる誠実さは残されていなかった。
ガラガラと重い鉄扉が開き、そして閉まる音が響く。
誰もいなくなった広い体育館の床に、私はたった一人で立ち尽くしていた。
足の裏に伝わる地球の重力は、息が詰まるほど重たくて、冷たかった。



