反重力も、技術のうち


 今日も今日とて、反重力な放課後に身を置いている。
 そんな私たちだが、いまはなんとなしに空気がぎこちない。理由は察しているのだが、しびれを切らしたサトコさんは私が買ってきた梅味のグミを口に放り込みながら、何気ない風を装って聞いてきた。
 
「ねえ。教室とかで話しかけられるのは嫌?」
「あ……」

 ────それは、四時間目が終わった移動教室の廊下。階段の近くを通りかかったときだ。
 
「おーい、ミキチぃ〜」
 
 虎のような髪を揺らして、向こうから歩いてきたサトコさんが軽く片手を挙げた。
 嬉しい……はずなのに。私は目を泳がせながら、ひどくぎこちない会釈だけを返して、足早にその場を通り過ぎた。
 すぐ後ろを、同じクラスの一軍女子たちが談笑しながら歩いているのが目に入ったから。今ここでサトコさんと親しげに話せば、「なんであいつが佐山サトコと?」と怪しまれる。写真の件はどうなっているのかと、その場で詰め寄られるかもしれない。そう思って……私はサトコさんを“無視”した────

「嫌なら、声かけるのやめるけど」
「えっ! そ、そんなことないです! 全然嫌なんかじゃ……」
 
 慌てて首を振る私を、サトコさんは横目でちらりと見た。
 
「そっか。ならいいけど」
 
 彼女はそれ以上追及せず、平気そうな顔で次のグミを摘んだ。けれど、私の胸には小さな棘が刺さったままだった。嫌なんかじゃない。ただ、地上の教室や廊下で、周囲の目を気にせずに自分の友人だと言い切る勇気が、私にはまだなかったのだ。
 というより、サトコさんに私の“目的”が知れてしまうことを恐れている。ただそれだけのことだった。

 *

 文化祭の日程が近づくにつれ、校内は浮足立った空気に包まれ始めていた。廊下の掲示板にはミスコンの告知ポスターが貼られ、それを見るたびに私の胃は重たく沈み込んだ。
 
「……どうして私なんかが、あんな場所に出なきゃいけないんでしょうね」
 
 いつものように天井へと「落ちる」前。静まり返った体育館の真ん中で、私はぽつりとこぼした。
 一軍女子からの交換条件のことは伏せたまま、クラスでミスコンに推薦されてしまったことだけをサトコさんに話したのだ。
 
「なんで私が……サトコさんなら、そういうの、気にならないですか?」
「気にならないのも、技術のうち……なわけないじゃん」
 
 サトコさんは呆れたようにため息をついた。
 
「女装コンテストが本来の趣旨なのにさ。女を選ぶなんて、晒しものでしょ。そんなの怒って当然だよ」
「でも……サトコさんは綺麗だから。決して笑いモノにはならないですよ」
 
 無意識に出た言葉だった。私のような日陰者とは違う。誰が見ても美しい彼女なら、人の視線や評価に怯えることなんてないはずだ、と。
 その瞬間、サトコさんの動きがピタリと止まった。
 
「……昔さ」
 
 やがて、サトコさんは視線を自分の爪先に落としたまま、短く口を開いた。
 
「いつも一緒だった子に、言われたことがあるんだよね。『サトコといると、自分が引き立て役みたいで惨めになる』って」

 それくらい、私は美人なんだぞ。と、鼻にかけたっていい。
 でもサトコさんは、その言葉を自分の美しさの証明として自慢げに口にしたのではなかった。むしろ、取り返しのつかない失敗を打ち明けるような、ひどく静かな声だった。
 
「あたし、そういうの全然気づかなくてさ。普通に一緒にいて、楽しいねって笑って。好きだなぁって。なのにさ……あたしが隣にいることで、相手が自分と比べて苦しくなるなら……離れた方がいいんだなって思った」
 
 虎柄の長い髪が、彼女の横顔を隠すようにさらりと揺れた。
 
「あたしが一人でいれば、誰も惨めな気持ちにならなくて済むじゃん」
 
 それが、佐山サトコが孤立を選んでいる理由だった。
 自分が傷つかないために殻に閉じこもっていた私とは、まるで逆だ。彼女は、誰かを傷つけないために、自分からひとりの場所へ距離を置いていたのだ。
 それなのに私は、彼女の美しさや派手な装いだけを見て、「綺麗だから傷つかない強い人」として勝手に扱っていた。自分の身を守るために、彼女を辱める企みに加担しようとさえした。
 恥ずかしさと申し訳なさで、胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。
 サトコさんの話を聞いても、私の容姿に対する劣等感がすぐに消えるわけじゃない。こんなに綺麗な人の隣にいたら、やっぱり自分の地味さが恥ずかしくなって、緊張してしまうこともある。
 けれど。だからといって彼女と距離を置きたい理由にはならないと、いまの私にははっきりと言える。
 
「……サトコさん」

 唇が震える。ひと息ついてから、私は続けた。
 
「私、サトコさんといると、やっぱり少し緊張する。でも、一緒にいて楽しいと言ったのは……本当だよ」
 
 サトコさんは顔を上げ、じっと私の目を見つめた。やがて息を吐き、少しだけ目尻を下げて笑った。

「ありがと、ミキチ」
「……いいえ」
「ん。じゃあ、今日も一緒に落ちよっか」

 佐山さんが手を差し出す。小さくて可愛らしい手だ。
 あと何回、彼女と手を繋げるだろう。最近はそう考えてしまうようになった。
 なぜって……。

「……あれー? 重力くん、今日ちょっと反抗的じゃん。ナメてんのかっ」

 もはや隠し通せぬほど、反重力の能力に翳りが見えてきたからだ。
 以前なら、手を取った瞬間に始まった反転が、今では手を繋いでから発動するまでに、数秒の間ができるようになっている。
 いち、に、さん……。
 床に立ったまま、何も起きない数秒間。

「ねぇ、ミキチ。恋人つなぎにしてみて」

 サトコさんは繋いだ手を軽く揺らし、その待ち時間を冗談で埋める。そして数秒遅れてふわりと身体が浮き上がると、何事もなかったかのように天井へと向かうのだ。
 彼女は笑う。けど私はその異変をはっきりと認識していた。だがそれを口に出せば、この楽しい時間そのものが終わってしまう気がして、気づかないふりをして笑うことしかできなかった。

 *

「ちょっと話あるんだけど」

 そろそろかと思っていた。翌日の昼休み、一軍女子のリーダーから再び強い口調で催促が来たのだ。
 北校舎の階段の踊り場で、高圧的に詰めてくる彼女たちを前に、私は初めて首を振った。
 
「……やりません」
「は? あんた、何言ってるかわかってるの?」
「写真は撮りません。やりません」
「はー、だる。あのさ、約束破るなら、ミスコンの推薦取り消しはないからね。あんたがそのまま代表としてステージに立つんだよ、分かる?」
 
 リーダーの脅すような言葉にも、私は「やりません」という返答を変えなかった。
 それで推薦を取り消してもらう道は完全に消えた。それでも、サトコさんを傷つけることだけは、もう絶対にできなかった。
 ただ、私の心の中にはまだ狡さが残っていた。彼女にまだ本当のことを話せないまま、ここで要求を拒んだことで、最初に近づいた浅ましい過去まで全部消えてなくなったかのように考えたい気持ちが、どこかにあったように思う。
 でも────心は少しだけ軽くなった気がした。
 
 放課後になり、私は息を弾ませて体育館まで行く。逸る気持ちを抑えながらサトコさんの到着を待ち、いつものように可愛らしい笑顔を向ける彼女を出迎えて、手を握り。そして一緒に天井へ落ちる。
 
 そこで私は、全てを打ち明けるつもりでいた。今日こそは、と。
 
 だが、やはりヘタレだ。本題にいきなり入れず、ワンテンポ置いてしまうのだった。
 天井の梁の上で、私はミスコンの推薦がそのまま決まってしまったことと、当日どうやってその場から逃れるか悩んでいることをまずは打ち明けた。
 するとサトコさんは、あっさりと言った。
 
「その時間、ふたりでここにいれば」
「え?」
「ミスコンって体育館でやるでしょ。始まる前に天井に上がって、その時間だけふたりでここに隠れてればいいじゃん。サボるのも技術のうちってね」
 
 地上の人間関係に立ち向かうのではなく、避けることでしか友人を守ろうとできない不器用な誘いだった。けれど、今の私たちにはそれが唯一の方法に思えた。
 
「……そうですね。そうしましょう」
 
 文化祭の日も、この天井を私たちの隠れ場所にする。そう決めたことで、胸のつかえがすっと降りた気がした。
 地上へ戻る前、私は繋いでいるサトコさんの手を見つめた。
 これからも彼女と一緒にいたいなら、最初に近づいた本当の理由を、ちゃんと話さなければいけない。言わなければ、ぜんぶを。
 
「あの、サトコさん。私、一番最初に体育館で声をかけたとき────」
「あ、てかさ」
 
 私が言いかけると同時に、サトコさんが無邪気に尋ねてきた。
 
「次、何持ってくる? 文化祭の日に食べるおやつ、ちょっと豪華にしない? 予算決めてさ。あたし、多めに出すから、ね?」
 
 それは文化祭の日も一緒にいられるという、確かな約束。
 なんて嬉しい。でも嬉しさに負けて、私は喉まで出かかった告白をのみ込んでしまった。
 
「……じゃあ、駅前の美味しいクッキー、買ってきますね」
 
 そう答えると、サトコさんは「期待するのも、技術のうち」と笑った。
 私は結局……今日も白状できずにいた……大切な話を。抱えた爆弾を処理せぬままに、私たちはゆっくりと、夕暮れの床へと降りていった。
 いいわけないのに。このまま伝えずに済むのではないかという浅ましい期待を孕んで。