カツ、カツ、とチョークが黒板を叩く乾いた音が、午後の眠たい空気を揺らしていた。
五時間目の物理の授業。私はノートの隅に意味のない渦巻きを描きながら、窓の外の曇り空をぼんやりと眺めていた。
頭の中にあるのは、昨日の放課後のことばかりだ。
埃っぽい鉄骨の匂い。はるか頭上に遠ざかっていった体育館の床。そして、私の右手を握っていた、佐山サトコの驚くほど冷たくて柔らかい手のひら。
「────いいか、ここ、テストに出すぞ。宇宙ステーションの中の宇宙飛行士がふわふわ浮いているのは、宇宙に重力がないからじゃない」
教壇の上で、白髪交じりの物理教師がチョークを持った手を大きく振り回した。
「地球のすぐ上空なんだから、地上とほとんど変わらない強烈な重力が働いている。じゃあ、なんで浮いているように見えるのか。それはな、宇宙ステーションごと、地球に向かって猛スピードで『落ち続けている』からなんだよ」
私の手が、ピタリと止まった。
「前に進むスピードと、地球に引っ張られて落ちるスピードが釣り合っているから、地面に激突しないだけでね。ニュートンの大砲というやつだ、彼らは空を飛んでいるんじゃない。永遠に落下し続けている箱の中にいるから、無重力みたいに錯覚しているだけなんだ」
浮いているのではなく、落ちている。
昨日の佐山さんの言葉が、耳の奥で鮮やかに蘇った────あたし、空飛べるよ。つーか、落ちるの────彼女は、最初からそう言っていた。飛ぶのではなく、落ちるのだと。
あんな非現実的な一件のせいで忘れかけていたが、尻に火がついている現状は変わらない。
一軍女子たちには、適当に言い訳をしておいた。単なる時間稼ぎだったけれど、向こうも私が逆らうとは思っていないのか、「早くしてよね」と鼻で笑うだけで済んだ。
なので。今日、もう一度体育館へ行こう。写真の隙を窺うため────なんていうのは、もはや自分に対する建前にすらなっていない。私はただ、もう一度あの天井へ落ちてみたかった。彼女と手を繋いで、あの不思議な箱庭に行きたかった。
今度は、なにかお菓子でも持って行こうか。
そんなことを考えながら、私はノートの端に小さく、ポテトチップスの袋の絵を描き足した。
*
「片手で開けるのも、技術のうち……無理だしっ」
薄暗い天井の梁の上に寝転がりながら、佐山さんが不満げに声を上げた。
あの日以来、私は放課後になるたびに体育館へ足を運び、彼女と手を繋いで天井へ「落ちる」ようになっていた。
私たちの右手と左手は、今日も固く繋がれたままだ。なぜなら、手を離せば私だけが元の重力に従って、十メートル下の床へと真っ逆さまに墜落してしまうから(たぶん)。
佐山さんは空いている方の片手を使って、私が購買で買ってきたコンソメ味のポテトチップスの袋を開けようと悪戦苦闘していた。虎柄のメッシュが入った長い髪が、逆さまの重力に引かれて天井の方へとさらさらと垂れ下がっている。
「貸してください。私がこっちの端を持ってるんで、サトコさんが引っ張って」
「ミキチぃ〜」
いまでは「サトコさん・ミキチ」と呼び合う仲だ。
私が空いている左手で袋の端を摘み、サトコさんが力任せに引っ張る。
ポンッ、と小気味良い音を立てて袋が開いた。その反動で、中身のチップスが数枚、ふわりと空中に飛び出した。
「あっ」
私たちが手を伸ばすより早く、チップスは「下」へ────つまり、寝転がる私たちから見てはるか頭上に広がる体育館の床へ向かって、ヒラヒラと舞い上がっていくように落ちていった。繋いだ手を離れた物質は、容赦なく普通の重力に従うのだ。
私たちは梁から身を乗り出し、黄金色の小さな破片が点のように遠ざかって、十メートル先の床にぱさりと着地するのを黙って見届けた。
「これも、技術のうち」
いつもの口癖を放ち。サトコさんは何事もなかったかのような澄ました顔で、袋に残ったチップスを口に放り込み、パリパリと音を立てた。
*
お菓子を食べ終えると、私たちは並んで仰向けになり、すぐ目の前にある「天井」の表面を眺めた。
鉄骨の無骨な継ぎ目、経年劣化した塗装の剥がれ、無数に打たれたボルトやネジの頭。それらは薄暗い空間の中で、まるで夜空に散らばる名もなき星々のように見える。
「サトコさん、あそこの傷とネジの並び、見てください」
私は空いている左手を伸ばし、塗装が剥げた一角を指差した。
「あの曲がった傷と、並んだ四つのネジ。なんか、小さな舟みたいに見えません? で、少し離れたところにある錆びたボルトが、そこに乗ってる人」
「んー? あー、あれね。ほんとだ、星座みたい」
サトコが目を細めて天井を見つめる。
「でもなんかポツンとしてて、寂しそう。どんな星座の話かミキチ考えてよ」
「ん……。ひとりで舟に乗ってる女の子、ってことしか思いつきません」
「それだけ? もっと派手にさ、海賊とかどうよ。嵐の海を突き進む、孤独で最強な女海賊」
サトコさんが楽しそうに設定を付け足す。私は少し想像してみてから、首を振った。
「ひとりで帆を張って、舵を切って、敵船と戦って、ひとりで宴……ですか?」
「えー、まさにミキチじゃん」
「サトコさんをイメージしたんだけど」
私に肩パンを食らわせながら、サトコさんがケラケラと声を上げて笑う。つられて私も笑った。自分が言ったことで誰かがこんなふうに笑ってくれるのが、こんなにもくすぐったいなんて。
「じゃあさ、あたしも考えとく」
ひとしきり笑った後、サトコがふと言った。
「あの舟の物語の続き。次までに考えといてあげる」
「……うん。楽しみにしてる」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「次」という言葉が、こんなに嬉しい響きを持っていたなんて知らなかった。私がまたここへ来なければ、あの星座の物語には続きが生まれない。私という存在が、サトコさんの明日の予定に組み込まれている。それがひどく誇らしくて、少しだけ泣きそうになった。
不意に、サトコさんが梁の上でゴロリと寝返りを打ち、私の方を向いて頬杖をついた。
高窓から差し込む西日が、彼女の虎のような髪を黄金色に透かしている。その無防備で柔らかな笑顔があまりにもいじらしくて。私は無意識にポケットのスマホに左手を伸ばしていた。
「あの、サトコさん」
スマホの硬い感触を握りしめた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
私は何のためにスマホを取り出した? 一軍女子に命令された、彼女を辱めるための写真を撮るためか?
違う……違う。そうじゃない。
「写真、撮りたいな」
「あたしを?」
「うん。えっとね……残しておきたくて。いまの佐山さん……すごく素敵だったから」
「ちょ……ミキチってさ……ん、もう。わかった、いいよ」
サトコさんは上半身を起こすと、いかにもギャルらしい、少し顎を引いて唇を尖らせた、完璧にキメたポーズを作った。SNSのタイムラインでよく見かけるような、武装した美少女の仮面だ。
「あ、それじゃなくて。さっきみたいに、普通に笑ってる顔がいいです」
サトコさんはキョトンと目を瞬かせた後「顔面つくるのも、技術のうち」と苦笑いして、少しだけ照れくさそうに、ふにゃりと目尻を下げた。
カシャッ、と静かな天井にシャッター音が響く。
画面の中には、少しはにかんだような、年相応の無邪気な女の子の笑顔が収まっていた。
「変な顔してない?」
「してません。すごく……いいです。この写真、絶対誰にも見せません。絶対です」
私が画面を胸に抱くようにして強く宣言すると、彼女は「ミキチだけだよ」と私に耳打ちした。
*
やがて、体育館の重い鉄扉がガラガラと開く音が響き、運動部の生徒たちがぞろぞろと入ってきた。
バッシュが床を擦る甲高いスキール音。バスケットボールが弾む規則正しい音。活気のある掛け声や笑い声が、広い空間に満ちていく。
私たちは梁の陰に身を潜め、息を殺してその光景を見下ろした。
練習中にパスミスをした生徒が、仲間に背中を叩かれて励まされ、笑いながらまたコートへ戻っていく。
ついこの間までなら、あんなふうに当たり前に人と関われる彼らを見て、自分の惨めさに目を逸らしていたはずだ。「ひとりなら、余計なストレスがない」と呪文のように唱えて、傷つかないように殻に閉じこもっていた。
でも、今は違った。
遥か頭上の床で繰り広げられる「普通の高校生活」が、まるで別世界の映画のように遠く感じられた。あそこに行けなくてもいい。今の私には、この薄暗い天井の秘密基地と、隣で手を握ってくれているサトコさんの存在があれば、それで十分だった。地上から切り離された気楽さと、誰かと手を繋いでいる嬉しさの区別もつかないまま、私はただその甘い浮遊感に浸っていた。
その時だ────異変は、本当に突然だった。
繋いでいた右手が、ふっと軽く、いや、重くなったような気がした。
「えっ?」
刹那。私の背中が鉄骨の梁から離れ、身体がふわりと宙に浮いた。
まさか、重力が────逆さまの視界の中で、遥か遠くにあったはずの体育館の床が、急激に「上」へ向かって迫ってくる。ボールを追いかける部員たちの頭頂部が、一瞬で大きく見えた。
「ひっ────」
声にならない悲鳴が喉に張り付いた。このまま「上」の床へ落ちれば、部員たちの目の前に墜落して、私たちの秘密がすべて暴かれてしまう。いや、それどころじゃない。叩きつけられて大怪我……いや、死……!
「ミキチ!」
サトコさんの手が、私の骨が軋むほど強く握り返された。
ぐんっ、と強烈な引力が再び反転する。消えかけていた反重力が間一髪で息を吹き返し、私たちの身体は再び「下」────つまり天井の梁へと引き戻された。
ドン、と鈍い音を立てて背中が鉄骨に打ち付けられる。
地上に向かって「上って」いったのは、ほんの数十センチ。時間にして一秒にも満たない出来事だった。それでも、私の額からは冷や汗がどっと噴き出し、心臓は早鐘のように肋骨を叩いていた。
「……な、なんですか、今の」
荒い息を吐きながら尋ねると、サトコさんは「あー、ごめんごめん」と、どこか引きつったような笑いを浮かべた。
「ちょっと汗で手、滑りそうになっちゃってさ。危なかったね」
「手……?」
私は繋いだままの右手を見た。彼女の指は、最初から今まで一度も緩むことなく、私の手をしっかりと絡め取っている。手が滑ったなんて、あからさまな嘘だった。
けれど、サトコさんがすぐに視線を逸らし、空いている左手で自分の靴紐を直すふりをしたのを見て、私はそれ以上何も聞けなくなってしまった。彼女の横顔に浮かんだ一瞬の怯えを、見なかったことにしたかった。
それから一時間以上。私たちは梁の上で息を潜め続け、部活動が終わり、生徒たちが完全に体育館からいなくなるのを待ってから、ようやく地上へと降りた。
足の裏に伝わる体育館の床は、いつもよりずっと硬くて冷たかった。
その時の私はまだ、気づかないふりをしていたのだ。
私たちが手に入れたこの「ふたりだけの時間」が、永遠には続かない薄氷の上に成り立っているということに。



