反重力も、技術のうち


 視界がぐるんと裏返った。
 いや、裏返ったのは世界の方だ。足の裏から床が消え、猛烈な風が下から上へと吹き上げる。重力という絶対的なルールがバグを起こし、私の身体は上に向かって真っ逆さまに「落下」していた。
 
「ひ、ひぃぃぃ────」
 
 情けない悲鳴を上げた直後、背中にドンと硬い衝撃が走った。
 埃っぽい匂いと、ひんやりとした鉄の感触。
 私は目を固く瞑ったまま、手当たり次第に何かを掴もうと藻掻いた。そして、自分の右手が、ひどく冷たくて小さな手を死に物狂いで握りしめていることに気がついた。
 
「ちょっと、痛いんだが」
 
 頭上────いや、私の真横から、呆れたような声が降ってきた。
 おそるおそる薄目を開ける。
 すぐ隣には、虎柄のメッシュを入れた佐山サトコが、鉄骨の梁の上にペタンと座り込んでいた。彼女の長い髪も、制服のプリーツスカートも、本来の重力とは逆方向に、つまり今私たちがいる「天井」に向かって自然に垂れ下がっている。
 私は、体育館の天井に張り巡らされたキャットウォークのような足場に、仰向けに倒れ込んでいた。
 
「な、なにこれ……なにこれ!?」
「だから、落ちるって言ったじゃん。あたしと手、繋ぐとさ」
 
 佐山さんは空いている方の手で、自分の前髪をいじりながら事も無げに言った。
 
「あ、あんまり動かない方がいいよ。それと、絶対に手、離さないで」
「え?」
「あたしと手を離したら、たぶんあっちだね」
 
 彼女は顎で「下」をしゃくった。
 釣られて視線を動かした私は、ひゅっと息を呑んだ。
 はるか十メートル以上下方に、本来私たちが立っていたはずの体育館の床が広がっていた。もし今、彼女の手を離せば……私はあそこまで一直線に落下して、間違いなくヒキ肉になる。

「ッ……!」
 
 私は悲鳴すら上げられず、佐山さんの右手を両手で包み込むようにギュッと握り直した。
 なんて無様で愚かなのか……私は彼女の弱みを握って、笑いものにしてやろうと企んでいたのに。
 
「それで?」
 
 佐山さんが、長いまつ毛に縁取られた瞳で私を見下ろした。
 
「なんで知ってたの。あたしの秘密」
「え、あ、えと……」
「なんか腕、極めようとしてたよね。それもマジで謎なんだけど。もしかして、武に生きる者なの?」
 
 探るような視線。私は心臓が縮み上がるのを感じた。
 ここで「一軍女子に命令されて、あなたのパンツを撮ろうとしました」なんて言えるはずがない。言えば、間違いなく手を離される。
 
「ほ、本当に、ただそう思っただけで……手、握ったら……飛べるんじゃないかって、適当に……」
 
 しばしの沈黙。やがて彼女は、ぷっと吹き出した。
 
「なにそれ、ウケるんだけど。適当に言って当たったってこと? あんた、アレだね。なんかすごい能力あるんじゃないの、透視的なさ」
「……重力操る人がそれ言うのね」
 
 ケラケラと笑う佐山さんにつられて、私の肩の力もふっと抜けた。
 怒っていない。手を離されることもなさそうだ。
 私は恐る恐る身体を起こし、梁の上に座り直した。もちろん、右手は彼女としっかりと繋いだままで。
 
 慣れてくると、天井からの景色は悪くない。
 むしろ心地よいのは、隣にいる可愛いらしい虎のおかげだろうか。なんてことが、ふと頭をよぎったある日の放課後だった。