能無し花嫁は御門の最愛

 東宮付きの世話係としての仕事は、思っていたよりも多かった。朝は早く起き、尊仁様の身支度を整える手伝いをする。その日の予定を確認し、食事の支度に目を配り、書見台へ必要な書物を揃える。来客があれば取り次ぎ、政務の合間には茶を淹れる。

 四峯院家で雑用に明け暮れていた私にとって、忙しいこと自体は苦にならなかった。

 むしろ。

「みこと、昨日頼んだ書物は?」
「こちらにございます」
「早いな」
「昨夜のうちにご用意しておきました」
「助かる」

 こうして、やったことをやったこととして受け取ってもらえる方が、ずっと楽だった。

 実家では、家族の代わりに何かをするのが当たり前。礼を言われることなど、ほとんどなかったから。

 けれど、それ以上に驚いたのは、尊仁様その人だった。宮中へ来る前、私も噂は聞いていた。

 ——歴代最弱以下。体が弱く、神力もほとんどない。次代の御門としては頼りない皇子。

 勝手に、そんな姿を想像していた。実際、尊仁様の神力が弱いのは事実らしい。体調も日によって波がある。

 でも。

「尊仁様。もう起きていらしたのですか」
「おはよう、みこと」
「まだ夜明け前です」
「知っている」
「昨夜も遅くまで政務をなさっていたのでは」
「だから今は政務ではなく勉強をしている」

 屁理屈なのだろうか。灯りを置きながら、書見台を見る。歴代の御門の治世についてまとめられた、分厚い書物が何冊も開かれていた。

「いつも、このようにお勉強を?」
「毎日というわけではない」
「ほぼ毎日では?」
「……誰に聞いた」
「女官の皆様が、朝の灯りの減りが早いと」
「よく見ているな」

 諦めたように本を閉じた。

「神力がないなら、せめて知恵で補うしかないだろう」
「神力がない、ですか」
「俺は、歴代で最も弱い東宮になるだろうと言われている」

 それは、私でも知っている。けれど尊仁様の口調には、卑屈さも怒りもなかった。

「お辛くは、ないのですか」
「何が?」
「そのように言われることが」
「辛いと言ったところで、神力が増えるわけでもない」

 あっさり返される。

「弱いなら、弱いなりにできることを探すしかないだろう」
「できること……」
「歴代の治世を学ぶ。災害が起きた時、何が足りなかったかを知る。税の仕組みを見直す。民がどこで困っているのかを聞く」
「神力以外のところで、国を支えるのですね」
「そうしたい」

 そこで、尊仁様は私を見た。

「より良い国にしたい。それが俺の目標だ」
「……」
「御門の神力が強ければ、すべて解決するわけではない。政の仕組みを整えれば救える者もいる。無駄を減らせば、その分を別のところへ回せる」
「はい」
「俺が弱いことと、何もせずにいていいことは別だ」

 その言葉が、妙に胸に残った。

 私はずっと、「できない人間」として扱われてきた。

 能がないなら、せめて役に立て。母に言われるその言葉は、私を下へ押し込めるためのものだった。

 けれど、尊仁様は自分自身へ同じことを言いながら、前へ進もうとしている。

 この人は、弱さを言い訳にしない。それから私は、尊仁様の予定をできるだけ正確に覚えるようになった。

 もともと、一度見聞きしたことは忘れない。朝に予定を聞けば、一日分を覚えておくことは難しくなかった。

「今日は午前に右大臣家。玉露を濃いめに。午後は治水の報告だから、昨年の水害記録も必要……」

 来客前に茶器を揃える。必要になりそうな書物を先に書見台へ置く。尊仁様が何かを探す前に差し出すと、最初のうちは普通に受け取っていた。

 けれど数日後。

「みこと」
「はい」
「なぜ、これが必要だと分かった」
「昨日、治水の話をすると仰っていたので」
「昨日?」
「はい」
「話の途中で触れただけだぞ」
「伺いましたので」
「……そうか」

 また別の日。

「次は清華院家からの使者だったな」
「はい。半刻後です」
「その後は?」
「兵部卿《ひょうぶきょう》がお見えになります。その前に昼餉を。午後は三件、最後に東の村から届いた嘆願書をご覧になる予定です」
「全部覚えているのか」
「はい」
「紙を見ずに?」
「はい」

 尊仁様が、こちらを見る。

「お前は、いつもそうなのか」
「そう、と申しますと」
「一度聞けば忘れない。複数の予定が重なっても、順番を間違えない」
「皆様、そうではないのですか?」

 本気で尋ねると、尊仁様が眉を上げた。

「少なくとも、俺は違う」
「尊仁様でも?」
「俺を何だと思っている」
「東宮様です」
「東宮なら記憶力まで人より優れていると思ったのか」
「……少し」

 笑われた。その顔を見るのは、初めてだった気がする。

「誰にでもできることではない」
「そうでしょうか」
「それを、どこで学んだ?」
「学んだ?」
「四峯院家で、相応の教育を受けたのだろう」

 私は言葉に詰まった。

「……いいえ」
「違うのか」
「私は、初等部までしか通わせてもらっておりません」
「初等部?」

 尊仁様の表情が止まる。

「はい。それ以上は、私に教育を施しても無駄だと母が」
「待て」

 書物が閉じられた。

「お前、本当に初等部までしか出ていないのか?」
「はい」
「その後、家庭教師は」
「一華にはついておりました」
「お前には?」
「おりません」

 少しの間、尊仁様は何も言わなかった。

「では、今お前が知っていることは」
「一華の教本を読んだり、課題を手伝ったりして覚えました」
「手伝った?」
「……ほとんど私が解いておりましたが」
「それを、手伝ったと言うのか」

 声に、呆れが混じった。私には、何がおかしいのか分からない。

「みこと」
「はい」
「明日から、空いた時間はここにある書物を読め」
「……よろしいのですか?」
「なぜ駄目なんだ」
「私が触れても?」
「書物は読むためにある」

 ごく当然のこととして言った。

「好きなだけ学べ」

 その言葉に、すぐ返事ができなかった。好きなだけ。その日の午後、私は尊仁様が読み終えた本を棚へ戻しながら、思い切って尋ねた。

「尊仁様は、御門になられることが怖くはないのですか」
「怖くないと言えば嘘になる」
「……そうなのですね」
「だが、怖いからやめる、とは言えない立場だ」

 本から離れた視線が、こちらへ向く。

「だから準備する。足りないものがあるなら、足りないまま立つ方法を考える」
「足りないまま……」
「完璧になるまで待っていたら、何も始まらないだろう」

 その言葉まで、私は覚えた。覚えようとしたわけではない。ただ、この人の言葉は、覚えた後も何度となく思い返してしまう。

 その夜、借りた本を開くと、紙の間から細い栞が滑り落ちた。

『眠る分は残しておけ』

 朝、私が休むように申し上げたことへのお返しらしい。隣の部屋を見やってから、声を立てないように笑った。