「そこの女。名は?」
その問いが自分に向けられたものだと分かるまで、少しかかった。
「……?」
私は反射的に後ろを振り返るけれど、当然、誰もいない。広間中の視線だけが、こちらへ集まっていた。
「……私、でしょうか」
ようやく声を出すと、尊仁様は頷いた。けれど、名乗るより先に、一華が前へ出た。
「東宮様!」
私を庇うというより、慌てて説明を足すような勢いだった。
「あの、姉は……巫女ではございません。ただの世話係です。私の付き添いとして連れてまいっただけの者でして」
「姉?」
「はい。四峯院みことと申します。ですが、本当に、私の身の回りのことをさせるためだけに——」
そこまで言われて、私はようやく自分の名が尊仁様へ伝わったことに気づいた。
尊仁様は、一華ではなく私を見る。
「みこと、か」
「……はい」
名前を呼ばれただけなのに、ひどく落ち着かない。一華の声には、隠しきれない焦りが混じっていた。それも当然だと思う。
今日は、一華たち十一人の晴れ舞台。私はその後ろにいるはずの人間なのだから。
「世話係、と言ったな」
「はい。姉は私の世話係として、この期間は——」
「なら、ちょうどいい」
一華が言葉を止める。
「世話係ならば、私付きにする」
広間のあちこちで衣擦れの音が止まった。私も、何を言われたのか分からなかった。
「……私が、ですか?」
こんな場で勝手に発言してはいけない。頭では分かっていたのに、声が出てしまった。
「そうだ」
「ですが、私は——」
「今日から、お前は私付きの世話係とする」
尊仁様は、何でもないことのように言う。
「な、なんで!?」
真っ先に声を上げたのは一華だった。
「一華様」
近くの女官が咎めるように名を呼んだが、一華は止まらない。
「だって、お姉様はただの……本当に、雑用しかできない者にございます!巫女としての力もありませんし、学問だって初等部までで——」
「一華」
今度は私が止めた。これ以上言われても、私が困るだけだ。けれど一華にしてみれば、理解できないのだろう。私自身が、一番理解できていない。
他の巫女たちからも声が漏れ始めた。
「なぜ、あの方が?」
「巫女でもないのに」
「東宮付きなら、宮中の女官から選べばよいのでは……」
皆の疑問は、もっともだった。私だって聞きたい、どうして私なのだろう。尊仁様は、周囲のざわめきを聞いても表情を変えなかった。
「私の決めたことに、理由が必要か」
ぴたりと声が止まる。必要です、と言える者がいるはずもない。一華も唇を結んだまま、何も返せなかった。
私だけが、さっきのことを思い返していた。水を取りに列を離れた時。尊仁様の顔色が、少しだけよくなったように見えた。
そして私が戻ると、また頭痛が始まったように見えた。——まさか。そんなことが理由になるはずがない。私は巫女ではない、何の力もない。
たまたまだ。尊仁様の体調の波と、私が動いた時が重なっただけ。
「東宮様、それでも姉には、本当に何の取り柄も——」
「それは、私が決めることだ」
尊仁様が一華の言葉を切った。強い声ではないけれど、一華はそれ以上言えなかった。
「……承知、いたしました」
不満そうに頭を下げる。私には、頭を下げることさえできなかった。まだ自分の話をされている実感がない。
尊仁様は傍らの女官へ目を向けた。
「この者に部屋を用意しろ」
「かしこまりました」
「私の居室に近いところがいい」
「……お近く、でございますか」
「ああ」
女官がわずかに戸惑った気がした。
「何か問題が?」
「いいえ。ただちにご用意いたします」
そのやり取りを聞いて、一華がまた私を見た。今度こそ、はっきりと納得していない顔を浮かべる。
紹介の儀が終わると、十一家の巫女たちはそれぞれの宿坊へ案内されていった。
「お姉様」
一華が私の袖を掴む。
「本当に行くの?」
「東宮様のご命令だから……」
「でも、私の世話はどうするの」
「宮中の女官の方がいらっしゃるでしょう?」
「そういうことじゃないわ」
一華は眉を寄せた。
「お姉様は、私の世話をするために来たのよ」
「……そうね」
「なのに、どうして東宮様のところへ行くの?」
答えられるはずがない。私にも分からないのだから。女官に促され、一華とは別の回廊へ進む。
「みこと様、こちらです」
「……はい」
みこと様……そう呼ばれてから、自分のことだと分かるまで少し遅れた。
「どうかなさいました?」
「いえ。その……様をつけて呼ばれることに、慣れていなくて」
「東宮様付きの方を呼び捨てにはできませんよ」
「そういうもの、なのですね」
「はい」
女官は不思議そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。案内された先で、今度は私が足を止めた。
「……ここ、ですか?」
広い……まず、それしか言葉が出なかった。四峯院家で私が使っていた、納戸に少し手を入れた程度の部屋とは比べるべくもない。上等な調度品が揃い、庭に面した障子の向こうには、手入れの行き届いた木々が見える。
「こちらが、みこと様のお部屋になります」
「待ってください」
さすがに何かがおかしい。
「東宮様のお近くに、と伺いましたが……世話係に、こんな部屋を?」
「東宮様のご指示です」
「でも、私には広すぎます。もっと小さなお部屋で十分です」
「そう申されましても」
女官が困った顔をする。
「では、別のお部屋を——」
「それが」
言いにくそうに視線を逸らした。
「十一家の巫女様方がお使いになるお部屋は、すでにすべて決まっております。東宮様の居室に近く、現在空いているのは……こちらだけでして」
「こちらだけ?」
「はい」
妙な言い方。けれど、その理由を尋ねる前に、女官はきれいに頭を下げた。
「東宮様がお決めになったことですので」
それを言われてしまえば、私に拒む術はない。
「……分かりました」
恐る恐る部屋へ足を踏み入れると、磨かれた床に自分の姿だけが場違いに映っている気がした。
今日の朝まで、私は一華の荷物持ちだった。それが今は、東宮付きの世話係となり、宮中に自分の部屋まで与えられている。何がどうしてこうなったのか。
まだ、何一つ分からなかった。
その問いが自分に向けられたものだと分かるまで、少しかかった。
「……?」
私は反射的に後ろを振り返るけれど、当然、誰もいない。広間中の視線だけが、こちらへ集まっていた。
「……私、でしょうか」
ようやく声を出すと、尊仁様は頷いた。けれど、名乗るより先に、一華が前へ出た。
「東宮様!」
私を庇うというより、慌てて説明を足すような勢いだった。
「あの、姉は……巫女ではございません。ただの世話係です。私の付き添いとして連れてまいっただけの者でして」
「姉?」
「はい。四峯院みことと申します。ですが、本当に、私の身の回りのことをさせるためだけに——」
そこまで言われて、私はようやく自分の名が尊仁様へ伝わったことに気づいた。
尊仁様は、一華ではなく私を見る。
「みこと、か」
「……はい」
名前を呼ばれただけなのに、ひどく落ち着かない。一華の声には、隠しきれない焦りが混じっていた。それも当然だと思う。
今日は、一華たち十一人の晴れ舞台。私はその後ろにいるはずの人間なのだから。
「世話係、と言ったな」
「はい。姉は私の世話係として、この期間は——」
「なら、ちょうどいい」
一華が言葉を止める。
「世話係ならば、私付きにする」
広間のあちこちで衣擦れの音が止まった。私も、何を言われたのか分からなかった。
「……私が、ですか?」
こんな場で勝手に発言してはいけない。頭では分かっていたのに、声が出てしまった。
「そうだ」
「ですが、私は——」
「今日から、お前は私付きの世話係とする」
尊仁様は、何でもないことのように言う。
「な、なんで!?」
真っ先に声を上げたのは一華だった。
「一華様」
近くの女官が咎めるように名を呼んだが、一華は止まらない。
「だって、お姉様はただの……本当に、雑用しかできない者にございます!巫女としての力もありませんし、学問だって初等部までで——」
「一華」
今度は私が止めた。これ以上言われても、私が困るだけだ。けれど一華にしてみれば、理解できないのだろう。私自身が、一番理解できていない。
他の巫女たちからも声が漏れ始めた。
「なぜ、あの方が?」
「巫女でもないのに」
「東宮付きなら、宮中の女官から選べばよいのでは……」
皆の疑問は、もっともだった。私だって聞きたい、どうして私なのだろう。尊仁様は、周囲のざわめきを聞いても表情を変えなかった。
「私の決めたことに、理由が必要か」
ぴたりと声が止まる。必要です、と言える者がいるはずもない。一華も唇を結んだまま、何も返せなかった。
私だけが、さっきのことを思い返していた。水を取りに列を離れた時。尊仁様の顔色が、少しだけよくなったように見えた。
そして私が戻ると、また頭痛が始まったように見えた。——まさか。そんなことが理由になるはずがない。私は巫女ではない、何の力もない。
たまたまだ。尊仁様の体調の波と、私が動いた時が重なっただけ。
「東宮様、それでも姉には、本当に何の取り柄も——」
「それは、私が決めることだ」
尊仁様が一華の言葉を切った。強い声ではないけれど、一華はそれ以上言えなかった。
「……承知、いたしました」
不満そうに頭を下げる。私には、頭を下げることさえできなかった。まだ自分の話をされている実感がない。
尊仁様は傍らの女官へ目を向けた。
「この者に部屋を用意しろ」
「かしこまりました」
「私の居室に近いところがいい」
「……お近く、でございますか」
「ああ」
女官がわずかに戸惑った気がした。
「何か問題が?」
「いいえ。ただちにご用意いたします」
そのやり取りを聞いて、一華がまた私を見た。今度こそ、はっきりと納得していない顔を浮かべる。
紹介の儀が終わると、十一家の巫女たちはそれぞれの宿坊へ案内されていった。
「お姉様」
一華が私の袖を掴む。
「本当に行くの?」
「東宮様のご命令だから……」
「でも、私の世話はどうするの」
「宮中の女官の方がいらっしゃるでしょう?」
「そういうことじゃないわ」
一華は眉を寄せた。
「お姉様は、私の世話をするために来たのよ」
「……そうね」
「なのに、どうして東宮様のところへ行くの?」
答えられるはずがない。私にも分からないのだから。女官に促され、一華とは別の回廊へ進む。
「みこと様、こちらです」
「……はい」
みこと様……そう呼ばれてから、自分のことだと分かるまで少し遅れた。
「どうかなさいました?」
「いえ。その……様をつけて呼ばれることに、慣れていなくて」
「東宮様付きの方を呼び捨てにはできませんよ」
「そういうもの、なのですね」
「はい」
女官は不思議そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。案内された先で、今度は私が足を止めた。
「……ここ、ですか?」
広い……まず、それしか言葉が出なかった。四峯院家で私が使っていた、納戸に少し手を入れた程度の部屋とは比べるべくもない。上等な調度品が揃い、庭に面した障子の向こうには、手入れの行き届いた木々が見える。
「こちらが、みこと様のお部屋になります」
「待ってください」
さすがに何かがおかしい。
「東宮様のお近くに、と伺いましたが……世話係に、こんな部屋を?」
「東宮様のご指示です」
「でも、私には広すぎます。もっと小さなお部屋で十分です」
「そう申されましても」
女官が困った顔をする。
「では、別のお部屋を——」
「それが」
言いにくそうに視線を逸らした。
「十一家の巫女様方がお使いになるお部屋は、すでにすべて決まっております。東宮様の居室に近く、現在空いているのは……こちらだけでして」
「こちらだけ?」
「はい」
妙な言い方。けれど、その理由を尋ねる前に、女官はきれいに頭を下げた。
「東宮様がお決めになったことですので」
それを言われてしまえば、私に拒む術はない。
「……分かりました」
恐る恐る部屋へ足を踏み入れると、磨かれた床に自分の姿だけが場違いに映っている気がした。
今日の朝まで、私は一華の荷物持ちだった。それが今は、東宮付きの世話係となり、宮中に自分の部屋まで与えられている。何がどうしてこうなったのか。
まだ、何一つ分からなかった。



