宮中へ入るその日、私は一華の荷物持ちとして、輿の後ろをついて歩いた。
四峯院家から輿に乗るのは、当然のように一華だけ。私はその他の随伴者と共に、徒歩でついていく。
それを不満に思ったことはない。そもそも、一華の世話係という名目がなければ、私がこの門をくぐること自体、許されなかっただろう。
「……凄い」
思わず声が漏れた。幾重にも連なる屋根。朱塗りの柱。磨き抜かれた長い回廊。軒先からは香木の香りが漂ってくる。
「静かに」
前を歩いていた年嵩の女官が、こちらを振り返った。
「ここでは、声一つにも気をつけなさい」
「申し訳ありません」
「初めてなら驚くのも無理はありませんが。今日は十一家が揃う日です。余計なことで目立たぬように」
「はい」
慌てて俯く。四峯院の屋敷も、名家として十分すぎるほど立派だと思っていた。けれど、宮中は比べものにならない。
視線だけで辺りを追っていると、一華が輿からちらりとこちらを見た。
「お姉様」
「はい」
「ぼんやりしないで。荷物、落とさないでよ」
「分かっているわ」
「今日は大事な日なんだから」
言われなくても分かっている。今日、十一家の巫女たちが初めて、次代の東宮—— 尊仁様の御前に並ぶ。私はその後ろに控えるだけの、ただの付き添いだ。
大広間には、すでに十家の巫女と付き人たちが集まり始めていた。
「風早家がお着きになりました」
「清華院家も」
「これで、あとは四峯院家だけですね」
女官たちが忙しく行き交う。それぞれの家の色を示す装束をまとった巫女たちは、ひと目で私たちとは違うと分かった。
心家である四峯院家の色は、深い紫。一華はその色をまとい、堂々と列へ加わる。
「お姉様は、そこ」
「ええ」
示されたのは、一華の斜め後ろ。私は巫女たちのような正装ではなく、ただの侍女の装いだ。誰の目にも、私が候補でもなく、ただの世話係に見えているだろう。
「四峯院家の付き人?」
「ええ。姉君だそうよ」
「姉なのに?」
小さな声が聞こえたが、聞こえないふりをした。やがて、広間の奥から声が上がる。
「東宮様、御成り」
衣擦れの音が重なり、皆が一斉に頭を垂れた。私も慌てて倣う。顔を上げてよいと許しが出て、初めて次代の東宮——尊仁様の姿を目にした。
噂には聞いていた。歴代最弱と言われる今上御門よりも、さらに神力が弱いのではないかと囁かれている東宮。
たしかに、顔色はよくない。血の気の薄い頬に、目の下の隈……ひどく疲れているのだろうか。ひょっとしたら、あまり眠れてもいないのかもしれない。
けれど、背筋はまっすぐに伸びていた。弱っているのに、折れてはいない……なぜか、最初にそんなことを思った。
尊仁様は、居並ぶ十一家の巫女たちを見渡した。
「此度、私を支えるために集まってくれたこと、礼を言う」
穏やかで、よく通る声。聞いているうちに、こわばっていた肩から少し力が抜けた。
「これより三か月、共に過ごすことになる。よろしく頼む」
型通りの挨拶が終わり、家ごとに紹介が始まる。私は、一華の後ろで黙っているだけ。やがて、四峯院家の番が来た。
「心家、四峯院一華にございます」
一華が優雅に一礼する。幼い頃から何度も教え込まれてきた所作は、こういう場では本当に美しい。
「四峯院か」
尊仁様が呟いた。その視線が、一華の肩越しにこちらへ流れた気がした。
——気のせいだろう。すぐに次の家の紹介へ移ったので、私も考えるのをやめた。
それよりも、尊仁様の様子が気になった。時折、こめかみを指で押さえている。額には、うっすらと汗まで滲んでいた。
広間は、暑くない。隣に控える女官たちの声が聞こえてくる。
「今日も、お加減がよろしくないみたい」
「朝から頭痛がおありだとか」
「この後も予定が詰まっていますのに」
「お倒れにならなければいいけれど」
もう一度尊仁様の横顔を見た。本当に、辛そうだ。最後の家の紹介に差しかかった頃、今度は私の喉が痛み始めた。朝から歩き通しで、水を口にする暇もなかったのだ。
一華に声をかけようか迷ったが、紹介の最中だ。邪魔をするわけにはいかない。そっと列を離れ、玉座寄りの壁際に控えていた女官へ近づいた。一華の後ろにいた時より、尊仁様との距離が数歩ぶん縮まる。
「申し訳ありません。お水を少しいただいても?」
「ええ。こちらを」
水を受け取ったその時、玉座の上で、尊仁様の肩から力が抜けた。こめかみを押さえていた手が下りる。眉間に寄っていた皺も、わずかにほどけた。
「……?」
偶然だろうか。水を飲むと、私は一華の後ろへ戻る。数歩……元の位置まで戻ったところで、尊仁様の手がまたこめかみへ上がった。苦しそうに眉が寄る表情に、私は思わず足を止めかけた。けれど、すぐに一華が振り返る。
「お姉様、何してるの。早く戻って」
「……ごめんなさい」
促されるまま、元の場所へ立った。何だったのだろう……たまたま、頭痛の波が重なっただけ。そう考える方が自然だ。
すべての家の紹介が終わると、尊仁様が改めて口を開いた。
「これより三か月、皆には私のそばで過ごしてもらう。正妃は、その中から一人選ぶことになる」
巫女たちの背筋が揃って伸びた。一華の肩にも、少し力が入ったのが分かった。
「厳しい期間になるだろうが——」
そこまで言って、尊仁様が言葉を止めた。視線が動くと、十一家の巫女たちを、端から順に確かめるように見渡していく。そして、十一人の誰でもないところで、その目が止まった。
……こちらを、見ている?私は一華の後ろにいる。ただの付き添い。候補ですらない。
まさか、自分に向けられているはずがない。そう思ったのに、尊仁様の目は逸れなかった。
「……なぜ、あちらを?」
「さあ……」
「あの方、四峯院家の付き人では?」
近くの巫女たちが囁く。一華も、怪訝そうに振り返った。そのせいで、今度は広間中の視線が私へ集まった。
何が起きているのか分からない。逃げる場所もないなかで、尊仁様が、こちらへわずかに身を乗り出した。
「そこの女」
私の背後に誰かいるのではと、本気で思った。けれど。
「名は?」
四峯院家から輿に乗るのは、当然のように一華だけ。私はその他の随伴者と共に、徒歩でついていく。
それを不満に思ったことはない。そもそも、一華の世話係という名目がなければ、私がこの門をくぐること自体、許されなかっただろう。
「……凄い」
思わず声が漏れた。幾重にも連なる屋根。朱塗りの柱。磨き抜かれた長い回廊。軒先からは香木の香りが漂ってくる。
「静かに」
前を歩いていた年嵩の女官が、こちらを振り返った。
「ここでは、声一つにも気をつけなさい」
「申し訳ありません」
「初めてなら驚くのも無理はありませんが。今日は十一家が揃う日です。余計なことで目立たぬように」
「はい」
慌てて俯く。四峯院の屋敷も、名家として十分すぎるほど立派だと思っていた。けれど、宮中は比べものにならない。
視線だけで辺りを追っていると、一華が輿からちらりとこちらを見た。
「お姉様」
「はい」
「ぼんやりしないで。荷物、落とさないでよ」
「分かっているわ」
「今日は大事な日なんだから」
言われなくても分かっている。今日、十一家の巫女たちが初めて、次代の東宮—— 尊仁様の御前に並ぶ。私はその後ろに控えるだけの、ただの付き添いだ。
大広間には、すでに十家の巫女と付き人たちが集まり始めていた。
「風早家がお着きになりました」
「清華院家も」
「これで、あとは四峯院家だけですね」
女官たちが忙しく行き交う。それぞれの家の色を示す装束をまとった巫女たちは、ひと目で私たちとは違うと分かった。
心家である四峯院家の色は、深い紫。一華はその色をまとい、堂々と列へ加わる。
「お姉様は、そこ」
「ええ」
示されたのは、一華の斜め後ろ。私は巫女たちのような正装ではなく、ただの侍女の装いだ。誰の目にも、私が候補でもなく、ただの世話係に見えているだろう。
「四峯院家の付き人?」
「ええ。姉君だそうよ」
「姉なのに?」
小さな声が聞こえたが、聞こえないふりをした。やがて、広間の奥から声が上がる。
「東宮様、御成り」
衣擦れの音が重なり、皆が一斉に頭を垂れた。私も慌てて倣う。顔を上げてよいと許しが出て、初めて次代の東宮——尊仁様の姿を目にした。
噂には聞いていた。歴代最弱と言われる今上御門よりも、さらに神力が弱いのではないかと囁かれている東宮。
たしかに、顔色はよくない。血の気の薄い頬に、目の下の隈……ひどく疲れているのだろうか。ひょっとしたら、あまり眠れてもいないのかもしれない。
けれど、背筋はまっすぐに伸びていた。弱っているのに、折れてはいない……なぜか、最初にそんなことを思った。
尊仁様は、居並ぶ十一家の巫女たちを見渡した。
「此度、私を支えるために集まってくれたこと、礼を言う」
穏やかで、よく通る声。聞いているうちに、こわばっていた肩から少し力が抜けた。
「これより三か月、共に過ごすことになる。よろしく頼む」
型通りの挨拶が終わり、家ごとに紹介が始まる。私は、一華の後ろで黙っているだけ。やがて、四峯院家の番が来た。
「心家、四峯院一華にございます」
一華が優雅に一礼する。幼い頃から何度も教え込まれてきた所作は、こういう場では本当に美しい。
「四峯院か」
尊仁様が呟いた。その視線が、一華の肩越しにこちらへ流れた気がした。
——気のせいだろう。すぐに次の家の紹介へ移ったので、私も考えるのをやめた。
それよりも、尊仁様の様子が気になった。時折、こめかみを指で押さえている。額には、うっすらと汗まで滲んでいた。
広間は、暑くない。隣に控える女官たちの声が聞こえてくる。
「今日も、お加減がよろしくないみたい」
「朝から頭痛がおありだとか」
「この後も予定が詰まっていますのに」
「お倒れにならなければいいけれど」
もう一度尊仁様の横顔を見た。本当に、辛そうだ。最後の家の紹介に差しかかった頃、今度は私の喉が痛み始めた。朝から歩き通しで、水を口にする暇もなかったのだ。
一華に声をかけようか迷ったが、紹介の最中だ。邪魔をするわけにはいかない。そっと列を離れ、玉座寄りの壁際に控えていた女官へ近づいた。一華の後ろにいた時より、尊仁様との距離が数歩ぶん縮まる。
「申し訳ありません。お水を少しいただいても?」
「ええ。こちらを」
水を受け取ったその時、玉座の上で、尊仁様の肩から力が抜けた。こめかみを押さえていた手が下りる。眉間に寄っていた皺も、わずかにほどけた。
「……?」
偶然だろうか。水を飲むと、私は一華の後ろへ戻る。数歩……元の位置まで戻ったところで、尊仁様の手がまたこめかみへ上がった。苦しそうに眉が寄る表情に、私は思わず足を止めかけた。けれど、すぐに一華が振り返る。
「お姉様、何してるの。早く戻って」
「……ごめんなさい」
促されるまま、元の場所へ立った。何だったのだろう……たまたま、頭痛の波が重なっただけ。そう考える方が自然だ。
すべての家の紹介が終わると、尊仁様が改めて口を開いた。
「これより三か月、皆には私のそばで過ごしてもらう。正妃は、その中から一人選ぶことになる」
巫女たちの背筋が揃って伸びた。一華の肩にも、少し力が入ったのが分かった。
「厳しい期間になるだろうが——」
そこまで言って、尊仁様が言葉を止めた。視線が動くと、十一家の巫女たちを、端から順に確かめるように見渡していく。そして、十一人の誰でもないところで、その目が止まった。
……こちらを、見ている?私は一華の後ろにいる。ただの付き添い。候補ですらない。
まさか、自分に向けられているはずがない。そう思ったのに、尊仁様の目は逸れなかった。
「……なぜ、あちらを?」
「さあ……」
「あの方、四峯院家の付き人では?」
近くの巫女たちが囁く。一華も、怪訝そうに振り返った。そのせいで、今度は広間中の視線が私へ集まった。
何が起きているのか分からない。逃げる場所もないなかで、尊仁様が、こちらへわずかに身を乗り出した。
「そこの女」
私の背後に誰かいるのではと、本気で思った。けれど。
「名は?」



