能無し花嫁は御門の最愛

 花は咲き乱れ、豊かな資源と、美しい海や山に恵まれた日ノ本の国。この国は、御門(みかど)の神力によって支えられてきた。

 けれど、その力がいつからか徐々に失われ始めた頃。御門を支えるため、十一の臓腑を司る名家から、それぞれ巫女が選ばれるようになった。彼女たちの献身のもと、日ノ本は再びかつての輝きを取り戻したという。

 ——それも、遠い昔の話。今では再び陰りが訪れ、今上御門は歴代で最弱の神力とされ、次代の東宮もまた、それ以下ではないかと噂されている。

 私、四峯院(しほういん)みことは、その十一の名家のうち、最上とされる『心』を司る四峯院家に長女として生まれた。

 ただし、巫女としての力を一切持たずに。

 所謂、『脳無し』として。

「一華(いちか)、こちらへいらっしゃい。まあ、今日もなんて可愛いの」
「お母様ったら」
「あなたこそが四峯院の娘なのだから。今度の神事でも、きっと皆が驚くわ」

 一華は、私の二つ下の妹。生まれながらにして、心家でも数代に一人と言われるほど強い力を持っている。

 母が一華をどれほど溺愛しているか。家の者なら、知らない者はいない。

「みこと。そこで何をしているの」
「お茶をお持ちしました」
「なら置いて下がりなさい。一華が疲れているでしょう」

 同じ娘であるはずの私は、いつもその隣で空気のような存在だった。いや、空気ならまだよかったのかもしれない。空気は、少なくとも邪魔にはならない。

 私は、邪魔だった。

 四峯院家の長女として生まれながら、巫女としての異能が一切発現しなかった私を、母は——母だけでなく、家中の誰もが「役立たず」と呼んだ。

 脳無し。脳無し。陰で囁かれるだけなら、まだいい。面と向かって言われることも、珍しくなかった。

「お母様、みことお姉様がまた……」
「放っておきなさい」

 幼い頃、一華が誰かに言いつけているのを、襖越しに聞いたことがある。

「あの子には、期待するだけ無駄なのだから」

 怒鳴られたわけではない。むしろ、母の声は淡々としていた。だからこそ、よく覚えている。ああ、私は怒る価値すらないのだと、その時初めて分かったから。

 けれど不思議なことに、私は物覚えだけはよかった。一度見たもの、聞いたものは、ほとんど忘れない。複数のことが重なっても、頭の中で順番をつけたり、必要なものだけ拾ったりするのに苦労したことはなかった。

 もっとも、それを『才能』だと思ったことは一度もない。

 誰でもできることだと思っていた。むしろ、どうして一度教わったことを忘れるのか、そちらの方が私には分からなかった。

 私が受けさせてもらった教育は、初等部まで。

「これ以上は必要ありません」

 母が教師へそう告げた日のことも、よく覚えている。

「ですが、みこと様は大変よくお出来になります。せめて——」
「脳無しに教育を施して、何になるというのです」
「しかし」
「その分、一華に時間を使ってください。この子は次代の心家を担う巫女なのですから」

 話は、それで終わった。一華には、当然のように最高の教師がつけられた。それも当然なのだろう。一華こそが、次代の心家の巫女なのだから。

 ただ、その一華の課題を代わりに解いているのが、他でもない私だということを、家族の誰も気にしていなかった。

 夜。行灯の灯りだけが頼りの部屋で、私はいつものように筆を執る。

「お姉様、まだ起きてる?」

 障子の向こうから、聞き慣れた声がした。

「起きているわ」
「よかった」

 障子が開き、一華が紙束を抱えて入ってくる。今日もまた、少し困った顔をしていた。

「これ、分からないの」
「どこが?」
「……全部」
「全部?」
「だって難しいんだもの。お姉様なら、すぐ分かるでしょう?」

 一華は悪びれもせず、私の隣に紙束を広げた。高名な師について学んでいるはずなのに、一華は昔から勉強が苦手だった。

「明日の朝まで?」
「うん」
「量が多いわね」
「でも、お姉様ならできるでしょう?」

 できるかどうかではない。私がやることは、一華の中ではもう決まっている。

 私は紙束を受け取り、一華の筆跡を真似て書き始める。一華の字は右上がりで、跳ねが強い。何百枚と見てきたから、もう手本がなくても書けた。

「わあ。やっぱりそっくり」
「そう?」
「これなら先生にも絶対に気づかれないわ。さすがお姉様」

 無邪気に笑って、一華は立ち上がる。そこに私を敬う色も、蔑む色もない。別に、私をわざわざ見下しているわけではないのだ。

 ただ、私という存在を、そういうものとして使っている。便利な姉。自分の代わりに何でもやる、脳無しの姉。

 課題だけではなかった。父が神事で読み上げる祝詞(のりと)や祭文(さいもん)も、私が整える。父は達筆だが、文章を組み立てるのは得意ではない。

 古い言葉遣いを調べ、意味が通るように整え、最後は父の筆跡で清書する。

「お父様。明日の祭文です」
「できたか」

 父は受け取ると、ざっと目を通した。

「うむ。悪くない」
「直した方がよいところはありますか?」
「いや、これでいい。明日の神事も恙なく済むだろう」
「はい」

 それだけだった。誰が文章を考えたのか。誰が調べ、誰が書いたのか。

 父にとっては、どうでもいいことなのだろう。母の書状も、時には私が代筆する。

「これを清書しておきなさい」
「お母様のお字で、ですか?」
「いつものことでしょう」
「はい」

 母の字は細く、整っている。父は力強く払い、一華は跳ねが強い。家族それぞれの筆跡を、私は正確に再現できた。見た形を、そのまま手でなぞればいいだけだ。

 けれど、私自身の字を誰かに褒められたことは、一度もない。そもそも、自分の字で誰かに何かを書いたことが、ほとんどなかった。いつも誰かの代わりに書いているから。

 いっそ、全部ばらしてしまおうか。そう考えたことならある。けれど、口にしたことはない。一華の課題も、父の祭文も、母の書状も、私がやっているのだと訴えたところで。

「だから何?」

 母なら、きっとそう言う。そして最後には、いつもの言葉が返ってくる。

「能がないなら、せめて役に立ちなさい」
「はい、お母様」

 この家のために、役に立つこと。それが、私に許された、たった一つの存在意義だった。そんな日々を送っていたある日、一華が勢いよく私の部屋へ飛び込んできた。

「お姉様、聞いて!」

 いつもの課題かと思って顔を上げると、一華の頬は興奮で赤くなっていた。

「ついに、私にも召状が来たの!」

 目の前に広げられたのは、宮中の紋が入った正式な召状。金糸で縁取られた紙に、はっきりと記されている。

 次代の東宮を支える十一家の巫女として、四峯院一華を召す——と。

「本当に、来たのね」
「当然でしょう?私は四峯院の巫女だもの」

 一華は嬉しそうに胸を張った。御門の在位は、原則として二十年と決まっている。神力を用いて国を支えることは、御門自身の身を削ることでもある。そのため、二十年を目安に次代へ譲位(じょうい)するのだ。

 在位十五年を過ぎた頃、次代の東宮を支えるため、十一家から巫女が一人ずつ宮中へ召される。

 そこから三か月。東宮は十一人の中から、正妃を一人選ぶ。

「三か月後には、私が正妃になっているかもしれないのよ」
「もう決まったように言うのね」
「だって心家よ?お母様だって、ずっとそう仰っていたもの」

 今の皇后陛下も、心家の出身だ。母の従姉妹にあたる方で、幼い頃は同じ師から教えを受けていたと聞く。ただ、母はその話を好まない。誰かが皇后陛下を褒めると、いつも決まって一華の話へと変えてしまうのだった。

 正妃が決まれば、東宮と正妃、そして残る十人の巫女が、次代の御門を支える体制を整えていく。五年ほどかけて互いの力を馴染ませ、その後、代替わりを迎える。

 今上御門の在位は、すでに十五年を超えた。ついに、その時期が来たのだ。

 我が四峯院家から選ばれたのは、一華。召状を見つめながら、胸の内で小さく安堵した。

 一華が宮中へ行けば。この家での私の役割も、少しは変わるかもしれない。

 少なくとも、夜中に課題を持ち込まれることはなくなる。もしかしたら、自分のために筆を持つ時間だってできるかもしれない。

 召状への返事をしたためながら、そんな淡い期待を抱いた。別に書けとも言われてないのに、当然のように書き始めている自分に、思わず心の中で失笑を浮かべる。

 召状を丁寧に畳んだ一華が、ふと首を傾げた。

「でも、私一人じゃ何もできないもの」
「支度なら、女官たちがしてくださるでしょう?」
「そうじゃなくて」

 一華は、本当に不思議そうな顔をした。

「お姉様も来るのよ」
「……私も?」
「当然でしょう?」

 そして、いつもと同じ調子で笑う。

「私のお世話をする人が必要でしょう?」