大正浪漫、恋するインデックス~おしゃべり女給と文字が苦手な御曹司~

〇國衛商会・廊下(翌春・朝)

会議室へ向かう茂文と櫻子。櫻子は洋書の仕入れ目録を抱えている。

茂文「真壁はどうした」
社員「昨夜、権藤大番頭のご指示で、急ぎ神戸へ」

茂文の眉がわずかに動く。

茂文(……今日に限って)

〇同・大会議室(続き)

長い机。上座に当主・宗一郎。両脇に古参の幹部たち。その筆頭、白髪の大番頭・権藤。
今日の議題は、洋書店の正式な立ち上げ。
櫻子が仕入れ目録と、ミモザでの注文帳を示しながら説明する。予想の三倍の注文。

権藤「本など儲からん。若旦那の道楽ですな」
幹部「女給上がりの通訳に、商会の看板を任せるおつもりか」

櫻子の手が、ぎゅっと目録を握る。

権藤「そもそも、商会を任せる器かどうか、という話でしてな」

会議室の空気が凍る。宗一郎は黙って腕を組んでいる。
権藤が一通の書類を、茂文の前にすっと滑らせる。

権藤「ちょうど、急ぎの案件がございます。洋書の取次をまとめて任せたいという会社との契約書です。先方は今日中に返事が欲しいと。若旦那、この場で要点をご説明いただけますかな」

茂文が書類に目を落とす。
細かい漢字とカタカナがびっしりと並んだ契約書。
契約書の数字や割合は、すぐに目に入る。だが、その前後に隙間なく並ぶ細かな漢字とカタカナは、読もうとすると行を追えなくなる(茂文の視界)。

茂文は動かない。
沈黙が続く。幹部たちが顔を見合わせる。

権藤「……若旦那は、この程度の契約書も読めないのですか」

会議室がざわつく。

権藤「ある筋から聞きましてな。若旦那は、カフェーの品書きひとつ、ご自分で読まれたことがないと」

回想の一コマ。料亭の座敷。権藤に酌をしながら、何かを耳打ちする木島。

幹部「まさか」
幹部「字の読めない人間に、國衛商会を継がせるのか」

ざわめきが大きくなる。宗一郎の表情は動かない。
茂文は背筋を伸ばしたまま、顔色ひとつ変えない。
でも、机の下で握られた拳が、小さく震えている(櫻子の目線のコマ)。

櫻子(……國衛様)

〇同(続き)

櫻子が椅子を引き、立ち上がりかける。

茂文「待て」

櫻子が振り返る。幹部たちの視線が茂文に集まる。
茂文「こういう細かい字が続くと、俺には読めない」

茂文「櫻子。読んでくれ」

"櫻子「……はい」
櫻子は茂文の前の契約書を取り上げ、読み上げ始める。"

"櫻子「甲は乙に対し、英国、仏国、蘭国より輸入する書籍の取次を、向こう十年、独占的に委託する……」
櫻子「……ただし、取次の手数料は売り上げの四割とし、仕入れの選定は乙がこれを行う」"

櫻子がふと読むのをやめる。茂文は聞いた条件を頭の中で整理し、櫻子の方を見る。

櫻子「この条項。昨日、國衛様が、条件がおかしいとおっしゃっていたものと同じです」

茂文が頷く。その顔は、もういつもの商売人の顔。

茂文「十年の独占に、手数料四割。しかも本を選ぶのは向こうだ。これを呑めば、俺たちは看板を貸すだけになる」
茂文「櫻子。乙の会社の名前と、代表者は」
櫻子「……木島商事。代表、木島徳蔵」

会議室が静まり返る。

茂文「ミモザを追い出された男が、今度は木島商事の名で俺たちの本屋の儲けを吸い上げにきたわけだ」

茂文がゆっくりと権藤を見る。

茂文「権藤。この話を持ってきたのは、お前だったな」

権藤の額に汗が浮かぶ(アップ)。

〇同(続き)

幹部の一人が、まだ食い下がる。

幹部「しかし、若旦那が字を読めないのは事実でしょう」

櫻子が、口を開く。

櫻子「國衛様は、文字を読むのが苦手です」

全員が櫻子を見る。

櫻子「でも、私よりずっと商売をご存じです。一度聞いた数字は、決して忘れません」
櫻子「私は文字を読めます。でも、商売のことは、全部國衛様に教えていただきました」

櫻子が、まっすぐ前を向く(大ゴマ)。

櫻子「二人でやれば、困りません」

茂文が櫻子を見上げる。
机の下で握っていた茂文の拳がほどける。彼は櫻子の手元の契約書を見る。

茂文が立ち上がり、櫻子の隣に並ぶ。

茂文「俺は、初めから一人で商売をしてきたわけじゃない」

幹部たちが息をのむ。

茂文「だから、人に読ませる。それで商売ができるなら、何の問題がある」

長い沈黙。
上座の宗一郎が、初めて口を開く。

宗一郎「権藤。下がれ」
権藤「だ、旦那様――」
宗一郎「下がれと言った」

権藤がうなだれて退室する。

宗一郎は茂文を見つめ、短く告げる。

宗一郎「……本屋の件、進めろ」

〇同・廊下(会議後)

窓の外に港が見える長い廊下。並んで歩く二人。

茂文「……格好悪いところを見せたな」
櫻子「今さらです」
茂文「お前な」

顔を見合わせ、二人とも小さく笑う。

櫻子「でも、ちょっとだけ、格好よかったです。『何の問題がある』のところ」
茂文「……ちょっとだけか」

〇同(続き)

廊下の向こうから、息を切らせた真壁が駆けてくる。

真壁「若旦那!神戸の件は、権藤の作り話でした。それと――」

真壁が、一通の封筒を櫻子に差し出す。異国の切手。オランダの消印。

真壁「櫻子さん宛てです。オランダから」

櫻子が震える手で封を開ける。便箋を広げ、目で追っていく。

櫻子「……ライデン大学で、語学と文学の特別聴講生として受け入れてくださるそうです」

茂文の表情が、止まる(ラストの大ゴマ)。