向日葵畑の中で、陽葵が陽だまりのような笑顔を咲かせている。いつもと同じ白いワンピースを薫風になびかせて、ただ微笑んでそこに佇んでいる。
蝉時雨がピタリと音を止めた途端、頭にかぶっている麦わら帽子の端を両手でぎゅっと握って、唇を微かに動かしたのが分かった。俺に何か、伝えようとしたんだろうか。
そんな、夢を見た。
夢の余韻に浸された頭の中で巡る思考は不明瞭で、今日が何曜日なのか思い出すことすら上手くできない。寝ぼけ眼のまま、スマホの電源を入れてそこに表示されている日にちと曜日を視線でなぞる。
今日もいつもと変わらない日常を生きている。陽葵が死んでからまだまもないというのに、もう彼女のいない生活が日常になっている現状が恐ろしい。
まず、起き上がってから枕もとの水を飲むことにした。水を口に流し込むと、夏の熱を帯びた生ぬるい水が喉を伝って体の中に入っていく感覚がする。無味無臭で普遍的な味とどこまでも日常的なその動作は現実味に溢れていて、意識に絡みついていた夢の名残が溶けていくのが分かった。
水分を摂ったことで意識が覚醒してきたのを確認して、新鮮な空気を求めて部屋着のまま外に出た。コンビニにでも寄って帰ろうか、そんな考えに意識を沈めながら歩いていると、ふいに聞き馴染みのある声が耳元を掠めた。
「でさ、この前聞いたんだけどね~」
なんだ、同じクラスの奴らか。わざわざ足を止めるまでもなかったな、と心の中で呟いてもう一度歩き始める。相手は俺には気がついていないようで、滞らせることなく話を続けている。
どうせ部屋着だし、気づかれない方が都合がいい。その場をそそくさと後にしようとした瞬間、背後から声が飛んできた。
「あれ?黒糸じゃん。なんでここにいんの?」
「家がこの辺だからさ、ただ散歩してただけ」
「ふーん、まぁいいや。あ、てかさ…………」
彼女はそこまで口にしたところで一度声を止めた。いったいどんな話題が展開されるのだろうか、と少し身構える。
「同じクラスの水瀬が自殺で死んだの知ってる?まぁ詳しいことは知らないんだけど、学校でめっちゃ目立つ死に方したらしいよ。ウケるよね、最後まで承認欲求の塊かよって感じ」
額に青筋が浮き上がるような感覚がした。それほどまでに、俺の心中には怒りが煮え滾っている。もしかして、こいつも陽葵をいじめていた連中の一人なのだろうか。それなら話が変わってくる。ここは平然を装ってもっと情報を聞き出すべきだ。
「最近はよくうちらとつるんでたのに、急に死ぬからびっくりしたよ」
「つるんでたって具体的になんかしてたっけ?あんま陽葵と仲良かったイメージないけどな」
「え?あぁそれは、あんまり言いたくない……的な」
それまで快活な声色で饒舌に話していたのに、一転して言葉を詰まらせた。やはりこいつは何か知っている。それなら、ここで取り逃がすわけにはいかない。
「別に言っちゃえばいいじゃん。なんか悪いことしてたわけじゃないんだろ?」
「まぁ、ちょっとからかったり、物隠したりだよ。でも、流石にそれで死ぬとは思わなかったっていうか。マジであいつ、メンタル弱すぎでしょ」
やっぱりそうだったか、と諦めに近い感情が浮かび上がる。こいつの言葉尻に浮かんでいる薄ら笑いに反吐が出そうだった。どれだけ人の道を踏み外せば気が済むんだ。
「あ、そうだ。今日うちら夕方まで学校で補習あるんだけどさ、終わった後にそのメンツで遊ぶ約束してんの。暇なら黒糸も来る?」
その言葉を耳で捉えた瞬間、口角がわずかに上がった気がした。予想外の提案だったけど、もちろん答えはただ一つだ。
「あぁ、行くよ。じゃあ、夕方になれば学校行くからそのつもりで」
夕方になれば、じゃなくて夕方までに、の間違いだな。日が暮れるまでに、明日を奪われた陽葵みたいにお前らの明日も奪ってやるよ。
あいつらと別れてからすぐさま家に引き返し、新品のノートに復讐の計画を書き殴った。あまり綺麗とは言い難い俺の字がページの一面を埋め尽くしたところで、次の行動に移る。
一階のキッチンに向かい、母さんの目を盗んで数本ある包丁の中から小ぶりな果物ナイフを手に取った。服で隠しながら二階の自室に持っていき、床に投げ捨てた。床に広げていたノートを開き、計画を頭に入れるために内容に目を通す。
これで、準備は完了だ。あとは、実行するだけ。あとは、俺がさらなる罪を犯すだけだ。
改めて自分の中の決意を固めて息を吐いた瞬間、背後からかすかな風が流れ込んできて背中にぶつかる感覚がした。その後を追うように、ギギッというドアが軋む音が響いた。
母さんに見つかった、その事実を脳は瞬時に捉えた。
そこからの行動は反射的なものだった。リュックに計画ノートをぶち込み、床に落ちている果物ナイフを手に持って母さんのそばを通り抜け、転がるように家を出た。
走って、走って、気づけば周囲は緑に囲まれていた。普段俺が住んでいる場所よりもずっと山に囲まれた田舎の方に逃げてきていたみたいだ。
息が切れてきたのを察して、走る速度を緩める。それから数分の間行く宛てもなく田舎道を歩いていると、向こうに止まっているパトカーから男の警官が出てくるのが見えた。
その時、すっかり重大なことが頭から抜け落ちていたことに気がついた。俺は、ナイフを手に持ったままだ。
(まずい……!)
咄嗟の判断でリュックに詰め込もうとしたものの、もう遅い。警官の視線は、俺の手元をしっかりと捉えている。
「ちょっと君、何持ってるんだ」
そう一言呟いた警官はじわじわと俺に向かって距離を縮めてきた。ここで計画を破綻させられるわけにはいかない。逃げるしか、ない。急いで方向転換して精一杯の力で駆け出した。
「待ちなさい!!どこに行く気だ!」
警官がすぐにパトカーに乗り込んだのが視界の端に映った。自動車から人の足で逃げ惑うのは不可能だ。仕方ない、と声を漏らしてから隣にあった山に飛び込んだ。
山中だとサンダルでは余計に走りづらくなる。サンダルはその場に脱ぎ捨てて裸足で走ることにした。直後に足の裏に何かが突き刺さる感覚がしたけど、今はそのわずかな痛みも気にならない。
木々の隙間を縫うようにして進んでいるうちに、山の中でも少し開けた場所に出た。木は伐採されているのか一面に野原が広がっており、風に揺さぶられた草が乾いた音を立てている。
家から一度も立ち止まることなく走り続けてきた俺は、だんだんと己の体力の限界を悟り始めていた。息切れで激しく肩が上下し、心臓の鼓動は今にも破裂しそうなほど早鐘を打っている。ついに体を動かすことも満足にできなくなった俺は、咄嗟にその場で足を止めた。それが間違いだった。
鉢合わせるまでのおよそ数十分の間走っていた俺に反して、警官はパトカーから出てきたばかり。どちらに軍配が上がるのかなんて火を見るより明らかだ。
すぐに追いついてきた警官は“そのナイフを今すぐ離しなさい!これは警告だ!”と声を張り上げて叫んだ。
でも、こんなところで終わるわけにはいかない。警官の指図に従っている場合ではないのだ。計画の終わりを悟ってもなお、俺は諦めきれなかった。
それから少なくとも一時間以上もの間、膠着状態が続いた。あくまで体感に過ぎないものの、それだけの間俺たちは睨み合っていた。
蝉時雨の声がだんだんと耳から遠のいていく。目に映る景色の輪郭がぼやけて、意識が音も立てず静かに崩れていった。今はただ、水が欲しい。そんな欲望を叶えられるはずもなく、ただ土壇場が近づいているのが分かった。
俺が見せたその隙に気がついたのか、警官は一気に近くまで迫ってきた。ダメだ、まだ終われない。ここで終わるわけには、いかないんだよ。
「それ以上、近づくな!!」
俺はもはや怒号に近い、鼓膜が揺れるような声で叫んだ。喉が張り裂けそうだった。いってぇな、とか自分に八つ当たりしながら目の前の警官をしっかり見据える。
「こっちに近づいてきやがったら、その時点で俺は首を切って死ぬ。人が死ぬところを目の前で見たくなけりゃ、近づいてくるなよ」
さっきの言葉で喉が枯れていたのか、もはや言葉尻は声の形をしていなかった。言葉になりきれなかった声は、夏の空気に溶けて霧散していく。
警官は俺の言葉を鼓膜で掴んだ手前、動くに動けなくなったのだろう。もうそれ以上距離を縮めてこようとはしなかった。だけどその代わりに、その警官は自分ではもう対処できないと感じたのか無線のようなもので他の警官に応援を要請し始めた。
どんどん事態が悪化していっているのは間違いない。そろそろ、自分の起こした行動に自分でけじめをつけないと。
覚悟を決めた俺は、ナイフを思いきり首に押し当てた。押し当てる間に多少首と擦れたのか、切れた傷口から血が滲んで首筋を伝う感覚がした。
「何してるんだ、やめなさい……っ!」
その光景を瞳に映した警官は、焦りを纏った声色でそう叫んだ。それは、さっき発した俺の叫びの大きさと大して変わらないように感じた。
その後しばらく互いに引かない状態が続いたのちに、応援を受けた警官たちが続々と集まりだした。俺だってそこまで体躯が小さいわけじゃない。だからたとえ取り押さえられそうになっても、一人くらいなら自力で切り抜けられる自信があった。でも、この人数ともなれば一人で対抗するのは無理だ。俺は、この計画の終わりを実感した。
それから数分もしないうちに、俺は自分の体の限界が近づいていることに気がついた。もうこれ以上立っていられる自信がなくて、終わりが刻一刻と眼前に迫っている現実を突きつけられた。その瞬間、グラリと視界が揺らいで足がもつれた。
その一瞬の隙を、警官たちは見逃さない。一人の警官が駆け寄ってきたのを皮切りに続々と数人の警官が俺に近づいてくる。逃げる間もないまま、うつ伏せにさせられた俺はなす術もなくナイフを奪われ、何人もの警官に力ずくで取り押さえられた。
陽葵の訃報を聞いたあの時と同じように、喉が枯れそうな勢いで心の底から吼えた。その声は山の中に響き渡って、蝉時雨さえかき消したような気がした。ここで、終わるわけにはいかないのに。こんなところで、足止めを食らっている暇はないのに。
それからの俺はあまりにも無力だった。
まず、氏名や年齢、親の電話番号なんかの情報を吐かされた。その後はひとまずその場で待機するように命じられて、ただ警官の隣に立っていた。
いつ連絡が届いていたのかは分からないけど、気づけば母さんが目の前まで駆けつけていた。警官に俺が連れられているところを見た母さんはその場で泣き崩れた。でも申し訳ないとは思わなかった。だって、こんなこと大人にはできないだろ?
弱虫で常に逃げ腰な大人には到底できないことを、俺はやろうとしたんだ。結局完遂することは叶わなかったけど、常識に囚われてばかりで復讐の一つもできない大人よりはまだマシだ。大人ってやつは、どいつもこいつも本気で陽葵を大切になんかしちゃいない。
透さんだってそうだ、陽葵の母親を除いた他のどの人間よりも近くにいたはずの自分を棚に上げて俺の方を責め立てるような声色で問い詰めてきた。端から等身大の陽葵を守る気なんてなくて、いつも大人たちの目に映っているのは各々にとって一番都合のいい陽葵の姿だった。心優しくて誰にでも手を差し伸べる陽葵、愛嬌があって飛び抜けた明るさを持っていた陽葵。大人たちにとっては陽葵とはそういう人間だったのだ。
穢れていてどこまでも弱い本当の陽葵のことは誰も見ようとしなかった。
俺は彼女を助けこそしなかったけど、常に等身大の陽葵を見ていたつもりだ。陽葵が持つ人には言えない心の内も、人には見せられない弱みも、俺の目だけはまっすぐそれを捉えていた。だから、俺だけには陽葵も本音をこぼしてくれていた。それだけ、心を開いていたのだ。
いや、心を完全に許していなかったから陽葵は俺の目の前で死を選んだんじゃないか。こんなの、とんだ傲慢だ。
陽葵にとって俺は何だったんだろう。まぁ、今更そんな物思いに耽ったところで仕方ないか。ぐちゃぐちゃに混濁した思考の海から抜け出した俺は、敵討ちのできなかった現実に触れながらそっと瞼を閉じた。
蝉時雨がピタリと音を止めた途端、頭にかぶっている麦わら帽子の端を両手でぎゅっと握って、唇を微かに動かしたのが分かった。俺に何か、伝えようとしたんだろうか。
そんな、夢を見た。
夢の余韻に浸された頭の中で巡る思考は不明瞭で、今日が何曜日なのか思い出すことすら上手くできない。寝ぼけ眼のまま、スマホの電源を入れてそこに表示されている日にちと曜日を視線でなぞる。
今日もいつもと変わらない日常を生きている。陽葵が死んでからまだまもないというのに、もう彼女のいない生活が日常になっている現状が恐ろしい。
まず、起き上がってから枕もとの水を飲むことにした。水を口に流し込むと、夏の熱を帯びた生ぬるい水が喉を伝って体の中に入っていく感覚がする。無味無臭で普遍的な味とどこまでも日常的なその動作は現実味に溢れていて、意識に絡みついていた夢の名残が溶けていくのが分かった。
水分を摂ったことで意識が覚醒してきたのを確認して、新鮮な空気を求めて部屋着のまま外に出た。コンビニにでも寄って帰ろうか、そんな考えに意識を沈めながら歩いていると、ふいに聞き馴染みのある声が耳元を掠めた。
「でさ、この前聞いたんだけどね~」
なんだ、同じクラスの奴らか。わざわざ足を止めるまでもなかったな、と心の中で呟いてもう一度歩き始める。相手は俺には気がついていないようで、滞らせることなく話を続けている。
どうせ部屋着だし、気づかれない方が都合がいい。その場をそそくさと後にしようとした瞬間、背後から声が飛んできた。
「あれ?黒糸じゃん。なんでここにいんの?」
「家がこの辺だからさ、ただ散歩してただけ」
「ふーん、まぁいいや。あ、てかさ…………」
彼女はそこまで口にしたところで一度声を止めた。いったいどんな話題が展開されるのだろうか、と少し身構える。
「同じクラスの水瀬が自殺で死んだの知ってる?まぁ詳しいことは知らないんだけど、学校でめっちゃ目立つ死に方したらしいよ。ウケるよね、最後まで承認欲求の塊かよって感じ」
額に青筋が浮き上がるような感覚がした。それほどまでに、俺の心中には怒りが煮え滾っている。もしかして、こいつも陽葵をいじめていた連中の一人なのだろうか。それなら話が変わってくる。ここは平然を装ってもっと情報を聞き出すべきだ。
「最近はよくうちらとつるんでたのに、急に死ぬからびっくりしたよ」
「つるんでたって具体的になんかしてたっけ?あんま陽葵と仲良かったイメージないけどな」
「え?あぁそれは、あんまり言いたくない……的な」
それまで快活な声色で饒舌に話していたのに、一転して言葉を詰まらせた。やはりこいつは何か知っている。それなら、ここで取り逃がすわけにはいかない。
「別に言っちゃえばいいじゃん。なんか悪いことしてたわけじゃないんだろ?」
「まぁ、ちょっとからかったり、物隠したりだよ。でも、流石にそれで死ぬとは思わなかったっていうか。マジであいつ、メンタル弱すぎでしょ」
やっぱりそうだったか、と諦めに近い感情が浮かび上がる。こいつの言葉尻に浮かんでいる薄ら笑いに反吐が出そうだった。どれだけ人の道を踏み外せば気が済むんだ。
「あ、そうだ。今日うちら夕方まで学校で補習あるんだけどさ、終わった後にそのメンツで遊ぶ約束してんの。暇なら黒糸も来る?」
その言葉を耳で捉えた瞬間、口角がわずかに上がった気がした。予想外の提案だったけど、もちろん答えはただ一つだ。
「あぁ、行くよ。じゃあ、夕方になれば学校行くからそのつもりで」
夕方になれば、じゃなくて夕方までに、の間違いだな。日が暮れるまでに、明日を奪われた陽葵みたいにお前らの明日も奪ってやるよ。
あいつらと別れてからすぐさま家に引き返し、新品のノートに復讐の計画を書き殴った。あまり綺麗とは言い難い俺の字がページの一面を埋め尽くしたところで、次の行動に移る。
一階のキッチンに向かい、母さんの目を盗んで数本ある包丁の中から小ぶりな果物ナイフを手に取った。服で隠しながら二階の自室に持っていき、床に投げ捨てた。床に広げていたノートを開き、計画を頭に入れるために内容に目を通す。
これで、準備は完了だ。あとは、実行するだけ。あとは、俺がさらなる罪を犯すだけだ。
改めて自分の中の決意を固めて息を吐いた瞬間、背後からかすかな風が流れ込んできて背中にぶつかる感覚がした。その後を追うように、ギギッというドアが軋む音が響いた。
母さんに見つかった、その事実を脳は瞬時に捉えた。
そこからの行動は反射的なものだった。リュックに計画ノートをぶち込み、床に落ちている果物ナイフを手に持って母さんのそばを通り抜け、転がるように家を出た。
走って、走って、気づけば周囲は緑に囲まれていた。普段俺が住んでいる場所よりもずっと山に囲まれた田舎の方に逃げてきていたみたいだ。
息が切れてきたのを察して、走る速度を緩める。それから数分の間行く宛てもなく田舎道を歩いていると、向こうに止まっているパトカーから男の警官が出てくるのが見えた。
その時、すっかり重大なことが頭から抜け落ちていたことに気がついた。俺は、ナイフを手に持ったままだ。
(まずい……!)
咄嗟の判断でリュックに詰め込もうとしたものの、もう遅い。警官の視線は、俺の手元をしっかりと捉えている。
「ちょっと君、何持ってるんだ」
そう一言呟いた警官はじわじわと俺に向かって距離を縮めてきた。ここで計画を破綻させられるわけにはいかない。逃げるしか、ない。急いで方向転換して精一杯の力で駆け出した。
「待ちなさい!!どこに行く気だ!」
警官がすぐにパトカーに乗り込んだのが視界の端に映った。自動車から人の足で逃げ惑うのは不可能だ。仕方ない、と声を漏らしてから隣にあった山に飛び込んだ。
山中だとサンダルでは余計に走りづらくなる。サンダルはその場に脱ぎ捨てて裸足で走ることにした。直後に足の裏に何かが突き刺さる感覚がしたけど、今はそのわずかな痛みも気にならない。
木々の隙間を縫うようにして進んでいるうちに、山の中でも少し開けた場所に出た。木は伐採されているのか一面に野原が広がっており、風に揺さぶられた草が乾いた音を立てている。
家から一度も立ち止まることなく走り続けてきた俺は、だんだんと己の体力の限界を悟り始めていた。息切れで激しく肩が上下し、心臓の鼓動は今にも破裂しそうなほど早鐘を打っている。ついに体を動かすことも満足にできなくなった俺は、咄嗟にその場で足を止めた。それが間違いだった。
鉢合わせるまでのおよそ数十分の間走っていた俺に反して、警官はパトカーから出てきたばかり。どちらに軍配が上がるのかなんて火を見るより明らかだ。
すぐに追いついてきた警官は“そのナイフを今すぐ離しなさい!これは警告だ!”と声を張り上げて叫んだ。
でも、こんなところで終わるわけにはいかない。警官の指図に従っている場合ではないのだ。計画の終わりを悟ってもなお、俺は諦めきれなかった。
それから少なくとも一時間以上もの間、膠着状態が続いた。あくまで体感に過ぎないものの、それだけの間俺たちは睨み合っていた。
蝉時雨の声がだんだんと耳から遠のいていく。目に映る景色の輪郭がぼやけて、意識が音も立てず静かに崩れていった。今はただ、水が欲しい。そんな欲望を叶えられるはずもなく、ただ土壇場が近づいているのが分かった。
俺が見せたその隙に気がついたのか、警官は一気に近くまで迫ってきた。ダメだ、まだ終われない。ここで終わるわけには、いかないんだよ。
「それ以上、近づくな!!」
俺はもはや怒号に近い、鼓膜が揺れるような声で叫んだ。喉が張り裂けそうだった。いってぇな、とか自分に八つ当たりしながら目の前の警官をしっかり見据える。
「こっちに近づいてきやがったら、その時点で俺は首を切って死ぬ。人が死ぬところを目の前で見たくなけりゃ、近づいてくるなよ」
さっきの言葉で喉が枯れていたのか、もはや言葉尻は声の形をしていなかった。言葉になりきれなかった声は、夏の空気に溶けて霧散していく。
警官は俺の言葉を鼓膜で掴んだ手前、動くに動けなくなったのだろう。もうそれ以上距離を縮めてこようとはしなかった。だけどその代わりに、その警官は自分ではもう対処できないと感じたのか無線のようなもので他の警官に応援を要請し始めた。
どんどん事態が悪化していっているのは間違いない。そろそろ、自分の起こした行動に自分でけじめをつけないと。
覚悟を決めた俺は、ナイフを思いきり首に押し当てた。押し当てる間に多少首と擦れたのか、切れた傷口から血が滲んで首筋を伝う感覚がした。
「何してるんだ、やめなさい……っ!」
その光景を瞳に映した警官は、焦りを纏った声色でそう叫んだ。それは、さっき発した俺の叫びの大きさと大して変わらないように感じた。
その後しばらく互いに引かない状態が続いたのちに、応援を受けた警官たちが続々と集まりだした。俺だってそこまで体躯が小さいわけじゃない。だからたとえ取り押さえられそうになっても、一人くらいなら自力で切り抜けられる自信があった。でも、この人数ともなれば一人で対抗するのは無理だ。俺は、この計画の終わりを実感した。
それから数分もしないうちに、俺は自分の体の限界が近づいていることに気がついた。もうこれ以上立っていられる自信がなくて、終わりが刻一刻と眼前に迫っている現実を突きつけられた。その瞬間、グラリと視界が揺らいで足がもつれた。
その一瞬の隙を、警官たちは見逃さない。一人の警官が駆け寄ってきたのを皮切りに続々と数人の警官が俺に近づいてくる。逃げる間もないまま、うつ伏せにさせられた俺はなす術もなくナイフを奪われ、何人もの警官に力ずくで取り押さえられた。
陽葵の訃報を聞いたあの時と同じように、喉が枯れそうな勢いで心の底から吼えた。その声は山の中に響き渡って、蝉時雨さえかき消したような気がした。ここで、終わるわけにはいかないのに。こんなところで、足止めを食らっている暇はないのに。
それからの俺はあまりにも無力だった。
まず、氏名や年齢、親の電話番号なんかの情報を吐かされた。その後はひとまずその場で待機するように命じられて、ただ警官の隣に立っていた。
いつ連絡が届いていたのかは分からないけど、気づけば母さんが目の前まで駆けつけていた。警官に俺が連れられているところを見た母さんはその場で泣き崩れた。でも申し訳ないとは思わなかった。だって、こんなこと大人にはできないだろ?
弱虫で常に逃げ腰な大人には到底できないことを、俺はやろうとしたんだ。結局完遂することは叶わなかったけど、常識に囚われてばかりで復讐の一つもできない大人よりはまだマシだ。大人ってやつは、どいつもこいつも本気で陽葵を大切になんかしちゃいない。
透さんだってそうだ、陽葵の母親を除いた他のどの人間よりも近くにいたはずの自分を棚に上げて俺の方を責め立てるような声色で問い詰めてきた。端から等身大の陽葵を守る気なんてなくて、いつも大人たちの目に映っているのは各々にとって一番都合のいい陽葵の姿だった。心優しくて誰にでも手を差し伸べる陽葵、愛嬌があって飛び抜けた明るさを持っていた陽葵。大人たちにとっては陽葵とはそういう人間だったのだ。
穢れていてどこまでも弱い本当の陽葵のことは誰も見ようとしなかった。
俺は彼女を助けこそしなかったけど、常に等身大の陽葵を見ていたつもりだ。陽葵が持つ人には言えない心の内も、人には見せられない弱みも、俺の目だけはまっすぐそれを捉えていた。だから、俺だけには陽葵も本音をこぼしてくれていた。それだけ、心を開いていたのだ。
いや、心を完全に許していなかったから陽葵は俺の目の前で死を選んだんじゃないか。こんなの、とんだ傲慢だ。
陽葵にとって俺は何だったんだろう。まぁ、今更そんな物思いに耽ったところで仕方ないか。ぐちゃぐちゃに混濁した思考の海から抜け出した俺は、敵討ちのできなかった現実に触れながらそっと瞼を閉じた。

