いつものようにぼんやりとスマホに視線を注いでいると、突然着信音が鳴り響いた。スマホの画面には陽葵という文字とアイコンが表示されている。なんだ陽葵か、と呟いてからすぐに通話開始ボタンを押してスマホを耳に当てる。もし廊下に母さんがいたら嫌だから、なんとなくスピーカーにはしなかった。
「おはよ。なんかあったか?」
何気ない言葉を紡いでいるだけなのに、妙に鼓動が激しく響いている。それは多分、陽葵が相手だからだ。
「ねぇ、今から私、空を飛ぶの。中学校にいるから来てくれない……かな」
「空を飛ぶ?何言ってんだよ。てか、そんな冗談で通話かけてくんなよな」
いつもの照れ隠しだった。本当はおのずと頬が緩むほど望外の喜びに胸が高鳴っているのに、毎回決まってこんな棘のある返事しかできない。
「…………ごめんね。こんなことで電話しちゃって。これが最後だから、伊織くんの声が聞きたかったの。それじゃあ、またね」
“これが最後だから”
通話を切った後も、その言葉がいやに頭の中でこだましていた。もしかして、陽葵は…………。思わず他の思考で打ち消したくなるような想像が脳裏を掠めた。
「今すぐ、陽葵に会いに行かないと…………!」
スマホをポケットに滑り込ませ、家を飛び出す。
ここは、都心から遠く離れた片田舎。特にその中でも山々に囲まれた地域にある俺の住む町は、ろくに道路の整備もされていないような場所だ。とにかく焦りに急かされるまま、適当なサンダルを履いてきてしまったものだから足の裏がジンジンと痛む。すっかり草臥れて靴底の擦り切れたサンダルからは、小石の感触が直に伝わってくるも同然の感覚がする。
走っている間にも嫌な想像が脳内を支配していって、だんだんと思考も鈍くなっていく。
どうか、この想像が当たりませんように。
そう願いながらただひたすら学校に向かって足を動かし続けた。しばらく走った末に、ついに学校の外観が民家の隙間から見えた。すぐさま屋上に目をやる。
「陽葵…………!」
そこにはいつものように白いワンピースを身に纏った陽葵がただ一人、佇んでいた。表情までは目を凝らしても伺えないものの、心なしか微笑んでいるように感じた。
立ち止まることなく校内に入り、屋上を目指して階段をひた走る。その途中、通りかかった先生から怒声が飛ばされたような気もしたけど、今はそんなことを気にしている余裕はない。
そして屋上に辿り着き、扉を開いて急いで陽葵の元に駆け寄る。だけど、数メートルの距離まで近づいたところで“それ以上近づかないで”と陽葵に言葉で制止されてしまった。
その声は今まで一度も耳にしたことのない、鋭くて温もりの失せた声音をしていた。
「あのね、今日は来てくれてありがとう。私の最後の演劇に」
そんな言葉を並べながら、陽葵はワンピースの裾を指先でつまんで小さくお辞儀をした。それはさながら演劇の最後を飾る演者のようだった。
彼女の声は、さっきとは打って変わって穏やかな声色だ。それはもう、胸が苦しくなるほどに。
「は……?それはどういう…………」
「ふふっ、こういう時はお招きありがとうって言うんだよ。伊織くんは分かってないなぁ」
困惑の色を隠せない俺をよそに、陽葵はどこまでも楽しそうだ。でも、そんな明朗な雰囲気に反してその中身は隙間風の吹く空虚のようだった。どこまでも空っぽで、今にも霧散してしまいそうな危うさを孕んでいるような気がする。
「ねぇ、今から私がする演劇の演目、もうバレてる?」
いたずらっぽい笑みを浮かべた彼女は俺を試すような口調でそう言った。この状況下で陽葵の意図を察するのなんてこの上なく容易い。
「そんなの、この状況を見たら分かりきってることだろ。飛び…………」
「待って、まだ言わないで」
彼女は躊躇いもせず俺の唇に人差し指を添えて、静かに瞼を閉じた。彼女の指の感触が唇に触れた瞬間、顔が紅潮するのが分かった。こんな時でも気恥ずかしさが先走る自分の能天気が恨めしい。
「いつかに、何かあれば絶対に私を救うって約束してくれたよね。これは、それなのに助けてくれなかった君への私からの復讐だよ。だから私の命が消えるところ、ちゃんと見ててね」
「待て、ちょっと待ってくれ。頼むから、そういうのはやめてくれよ」
「…………ごめんね、ありがとう」
陽葵はぽつりと呟いてから屋上の柵をふわりと越えて、俺の方に振り返った。その動きは薫風に撫でられて微かに揺らめく向日葵のように、どこまでも軽やかだった。
「私、ぜーんぜん幸せじゃなかった。すっごく不幸せだった。でも、君と出会えたことだけは幸せなことだったって思いたい。私ね、本当は…………」
陽葵は屈託のない笑顔をたたえて足を地面から離した。彼女は、宙に身を投げたのだ。
すぐに柵の内側から身を乗り出して、彼女に手を伸ばした。指先があと数ミリで触れ合う、あともう少し手を伸ばせば陽葵に届く。その瞬間、俺の手の隙間を陽葵の指はすり抜けていった。俺の手は、虚しくその場の空気を掴んだだけで彼女の指先にはあと一歩届かなかったのだ。
それからのことはよく覚えていない。いつのまにか数人の大人がアスファルトに集まっていて、小さな騒ぎに発展していたようだった。その直後、屋上で立ち尽くす俺に大人の一人が気がついたのか、勢いよく駆け寄ってきたかと思えば“こいつが彼女を突き落としたんだ!”と糾弾してきた。その人から指を差された俺は、ぼんやりと“まぁ、状況だけ見たらそうなるよな”と能天気な考えに耽っていたっけ。
その後は淡々と事が進んでいった。気づけばパトカーと救急車が学校に到着していて、救急車はあっという間に陽葵を乗せて病院に向かっていった。警察からは状況から見て俺に疑惑をかけていると告げられ、警官に誘導されるまま警察署まで移動した。
でも、そこで現れたのが陽葵の両親だった。二人は俺が小さい頃から目をかけてくれていたから、最初から事件性がないことを理解していたらしい。陽葵の両親が必死に説得してくれた甲斐もあり、しばらくして俺は解放された。それからは母さんが迎えに来てくれたから、そのまま帰路についた。
俺は、結局何もできなかった。目の前にいたのに、抱きしめることすらできなかった。陽葵を助けられなかった、いや“助けなかった”自分に、息をし続ける資格なんてあるのだろうか。そんな後悔に襲われながら、俺は眠りに意識を沈ませた。
「おはよ。なんかあったか?」
何気ない言葉を紡いでいるだけなのに、妙に鼓動が激しく響いている。それは多分、陽葵が相手だからだ。
「ねぇ、今から私、空を飛ぶの。中学校にいるから来てくれない……かな」
「空を飛ぶ?何言ってんだよ。てか、そんな冗談で通話かけてくんなよな」
いつもの照れ隠しだった。本当はおのずと頬が緩むほど望外の喜びに胸が高鳴っているのに、毎回決まってこんな棘のある返事しかできない。
「…………ごめんね。こんなことで電話しちゃって。これが最後だから、伊織くんの声が聞きたかったの。それじゃあ、またね」
“これが最後だから”
通話を切った後も、その言葉がいやに頭の中でこだましていた。もしかして、陽葵は…………。思わず他の思考で打ち消したくなるような想像が脳裏を掠めた。
「今すぐ、陽葵に会いに行かないと…………!」
スマホをポケットに滑り込ませ、家を飛び出す。
ここは、都心から遠く離れた片田舎。特にその中でも山々に囲まれた地域にある俺の住む町は、ろくに道路の整備もされていないような場所だ。とにかく焦りに急かされるまま、適当なサンダルを履いてきてしまったものだから足の裏がジンジンと痛む。すっかり草臥れて靴底の擦り切れたサンダルからは、小石の感触が直に伝わってくるも同然の感覚がする。
走っている間にも嫌な想像が脳内を支配していって、だんだんと思考も鈍くなっていく。
どうか、この想像が当たりませんように。
そう願いながらただひたすら学校に向かって足を動かし続けた。しばらく走った末に、ついに学校の外観が民家の隙間から見えた。すぐさま屋上に目をやる。
「陽葵…………!」
そこにはいつものように白いワンピースを身に纏った陽葵がただ一人、佇んでいた。表情までは目を凝らしても伺えないものの、心なしか微笑んでいるように感じた。
立ち止まることなく校内に入り、屋上を目指して階段をひた走る。その途中、通りかかった先生から怒声が飛ばされたような気もしたけど、今はそんなことを気にしている余裕はない。
そして屋上に辿り着き、扉を開いて急いで陽葵の元に駆け寄る。だけど、数メートルの距離まで近づいたところで“それ以上近づかないで”と陽葵に言葉で制止されてしまった。
その声は今まで一度も耳にしたことのない、鋭くて温もりの失せた声音をしていた。
「あのね、今日は来てくれてありがとう。私の最後の演劇に」
そんな言葉を並べながら、陽葵はワンピースの裾を指先でつまんで小さくお辞儀をした。それはさながら演劇の最後を飾る演者のようだった。
彼女の声は、さっきとは打って変わって穏やかな声色だ。それはもう、胸が苦しくなるほどに。
「は……?それはどういう…………」
「ふふっ、こういう時はお招きありがとうって言うんだよ。伊織くんは分かってないなぁ」
困惑の色を隠せない俺をよそに、陽葵はどこまでも楽しそうだ。でも、そんな明朗な雰囲気に反してその中身は隙間風の吹く空虚のようだった。どこまでも空っぽで、今にも霧散してしまいそうな危うさを孕んでいるような気がする。
「ねぇ、今から私がする演劇の演目、もうバレてる?」
いたずらっぽい笑みを浮かべた彼女は俺を試すような口調でそう言った。この状況下で陽葵の意図を察するのなんてこの上なく容易い。
「そんなの、この状況を見たら分かりきってることだろ。飛び…………」
「待って、まだ言わないで」
彼女は躊躇いもせず俺の唇に人差し指を添えて、静かに瞼を閉じた。彼女の指の感触が唇に触れた瞬間、顔が紅潮するのが分かった。こんな時でも気恥ずかしさが先走る自分の能天気が恨めしい。
「いつかに、何かあれば絶対に私を救うって約束してくれたよね。これは、それなのに助けてくれなかった君への私からの復讐だよ。だから私の命が消えるところ、ちゃんと見ててね」
「待て、ちょっと待ってくれ。頼むから、そういうのはやめてくれよ」
「…………ごめんね、ありがとう」
陽葵はぽつりと呟いてから屋上の柵をふわりと越えて、俺の方に振り返った。その動きは薫風に撫でられて微かに揺らめく向日葵のように、どこまでも軽やかだった。
「私、ぜーんぜん幸せじゃなかった。すっごく不幸せだった。でも、君と出会えたことだけは幸せなことだったって思いたい。私ね、本当は…………」
陽葵は屈託のない笑顔をたたえて足を地面から離した。彼女は、宙に身を投げたのだ。
すぐに柵の内側から身を乗り出して、彼女に手を伸ばした。指先があと数ミリで触れ合う、あともう少し手を伸ばせば陽葵に届く。その瞬間、俺の手の隙間を陽葵の指はすり抜けていった。俺の手は、虚しくその場の空気を掴んだだけで彼女の指先にはあと一歩届かなかったのだ。
それからのことはよく覚えていない。いつのまにか数人の大人がアスファルトに集まっていて、小さな騒ぎに発展していたようだった。その直後、屋上で立ち尽くす俺に大人の一人が気がついたのか、勢いよく駆け寄ってきたかと思えば“こいつが彼女を突き落としたんだ!”と糾弾してきた。その人から指を差された俺は、ぼんやりと“まぁ、状況だけ見たらそうなるよな”と能天気な考えに耽っていたっけ。
その後は淡々と事が進んでいった。気づけばパトカーと救急車が学校に到着していて、救急車はあっという間に陽葵を乗せて病院に向かっていった。警察からは状況から見て俺に疑惑をかけていると告げられ、警官に誘導されるまま警察署まで移動した。
でも、そこで現れたのが陽葵の両親だった。二人は俺が小さい頃から目をかけてくれていたから、最初から事件性がないことを理解していたらしい。陽葵の両親が必死に説得してくれた甲斐もあり、しばらくして俺は解放された。それからは母さんが迎えに来てくれたから、そのまま帰路についた。
俺は、結局何もできなかった。目の前にいたのに、抱きしめることすらできなかった。陽葵を助けられなかった、いや“助けなかった”自分に、息をし続ける資格なんてあるのだろうか。そんな後悔に襲われながら、俺は眠りに意識を沈ませた。

