親愛なる嘘つきな君へ。

今日は9月1日。ついに夏休みが明け、久々の登校日がやってきた。

「行ってらっしゃい。今日も頑張ってね」

背後の母さんから投げかけられた声に適当な返事をして通学路を歩き始める。中学に入ってからは“行ってきます”の一言を口にするのもなんだか照れくさくて、一度もその言葉を発していない。

そういや、陽葵ともここ数年は上手く喋れなかった。どんな言葉をかけられてもぶっきらぼうな返事しかできなくて、自分から話しかけることもめっきりなくなっていたように思う。陽葵と話す時はなぜか胸の辺りがくすぐったくて恥ずかしくなるから、だんだんと話す回数が減っていったのだ。この気持ちはどうやったら消えるものかとよく悩んでいたのを昨日のことのように思い出す。

でもそんな風に俺が悶々としている間に、陽葵は死んでしまった。
それもこれも全部、思春期とかいう時期のせいだ。手頃な位置に転がっていた小石を思いきり蹴飛ばして八つ当たりした。

住宅街を抜け、下り坂に差し掛かると右側には青い海が姿を現し始めた。毎朝海に目をやるたび、その美しさに心が呑まれそうになる。キラキラとした光の粒が海面に散りばめられていて、風に撫でられるたび自由自在に形を変えている。

今更だけど、自分でもこんなに美しいと思える心が残っていることが意外だった。思春期に入ってからは俺も例に漏れず妙なひねくれ方をしたから、景色なんかに心を動かされる人間の気持ちが分からないと斜に構えてもおかしくなかったのに。
多分、これは陽葵のおかげだ。

この海の美しさを教えてくれたのは他でもない陽葵だった。毎朝この道を通るたび、陽葵は溢れんばかりの笑顔を咲かせて海の美しさを語ってくれた。それが面倒くさく感じる瞬間もあったけど、今となってはその些細な記憶でさえ大切な思い出の一つだ。

今でも、日常のそこかしこで陽葵が残していった影が見え隠れしている。いや、これは影なんかじゃない。まごうことなき光だ。俺の心を支えてくれる向日葵のような陽光なのだ。

学校に着き、いつも通り教室に入る。

「おはよ。久々すぎて自分の席忘れかけてたわー」

何気なく隣の席の女子に声をかけた。しかし、その女子は顔を背けたまま声を一言も発することなくその場を去ってしまった。
一抹の違和感が燻ったものの、偶然だろうと自分に言い聞かせて受け流す。でも、時間が流れるにつれてそれは偶然ではないという現実が浮き彫りになっていった。

誰にどれだけ言葉を紡いでも何一つ返答がないのだ。それだけに留まらず、目線すら全くと言っていいほど合わせてもらえない。
朝の時点ではただの違和感に過ぎなかったものが、だんだんと確信へと変わっていくのが分かる。陽葵が死んでいなくなったことによって、いじめの標的が俺に変わったんだ。
でも、陽葵をいじめていた連中は一部の女子だけだ。それに対して、俺はクラス全員から無視されている。この違いはなんなんだ?
女子二人組が俺の方に視線を送りながら、ひそひそと小声で何かを話している姿が視界に入った。

「ほら、あの人だよ。水瀬さんを屋上から突き落としたって人」
「は…………?」

思わずあんぐりと開いた口から声が漏れた。その声が耳に入ったのか、女子たちは我に返ったように目を見開いて逃げるようにこの場から去っていった。
でも、今の二人のおかげで俺がクラス中から存在を無視されている理由がはっきりした。
陽葵が死んだ直接的な原因は俺だと誤解されているんだ。

それにしても、どこからそんな浮説が広がったのだろう。ただ、あの場面を偶然目にした人から始まったのだろうか?だけど、それにしても夏休みが明けたばかりなのにクラス全体にそんな噂が広がっているなんて不自然だ。
もしかして、この噂を意図的に広めた人間がいる…………?

でも、そこまで恨まれるようなこと、俺がしたか?
俺も小さい頃はヤンチャだったから、些細ないたずらは何度かしたことがある。だけど、どれだけ過去の記憶を手繰り寄せても噂を流されるほどのことをした記憶は一切ない。
じゃあ、どうして。俺は答えの見つからない自問自答に暮れるしかなかった。
そんな悶々とした気持ちを抱えたまま時間が過ぎ、昼休みに差し掛かった。

「なぁ、この前数学のプリント配られたじゃん。あれの期限っていつだったっけ」

偶然近くを通りかかったクラスメイトに声をかけたものの、当然のごとく答えは返ってこない。俺も人間だ、こんな反応に傷つかないわけじゃない。
でも陽葵も同じ体験をしていたのだと思うと、不思議と耐えられた。陽葵がこんな目に遭っていたのなら、彼女の痛みを理解するために俺も同じ目に遭わないといけない。そんな強迫観念に近いものがあるのだ。これは、彼女を助けなかった俺に対する彼女からの罰だと思う。

だから、この誤解は今解くべきではない。この浮説に苦しんで、苦しみ抜かないと。まぁどちらにせよ、今俺の話に耳を貸してくれる人なんていないし、仕方のないことなのだ。
手持ち無沙汰になった俺は、明るい声が飛び交う教室の隅で仕方なく一人過ごしている。

「ねぇ、これ黒糸のやつ?」
「え?あぁ、そうだけど」

クラスメイトの女子が指さしたのは、ペンケースにつけているキーホルダーだった。向日葵の刺繡が施された布製のものだ。

「じゃあ、もらうね。別にいいっしょ?」
「は……?何言って…………!」

あれは陽葵が昔くれた大切なキーホルダーだ。誰かに奪われるわけにはいかない。すぐさまそいつの背中を追いかけて廊下まで出た。

「これ、向日葵のキーホルダーじゃん。なに、水瀬との匂わせ?笑えるんだけど」

薄ら笑いを浮かべたそいつは周囲に見せつけるようにひらひらとキーホルダーを揺らした。このままじゃ、何をされるか分からない。早く取り返さないと。

「待てって、何する気だよ……!」
「だってもう水瀬死んだじゃん。今更持ってても仕方なくない?」
「これは陽葵の形見なんだよ。頼むから早く返してくれ」
「陽葵だって。下の名前呼びしてんだ~」

そいつの友達らしき女子からは、俺たちの関係性を愚弄するような言葉が飛んでくる。だんだんと自分の怒りが頂点に近づいていって、理性が千切れていく音がした。

「もしかして彼氏気取り?彼女でもない女子からもらったものずっと持ってるとか普通にキモいよ。水瀬もあの世で迷惑してんじゃない?」
「お前らな、言っていいことと悪いことが…………」

その時、女子の一人がポケットからハサミを取り出して、キーホルダーに刃を当てた。
陽葵からもらった大切なものを学校にまで持ってきていた自分も確かに迂闊だった。それでも、こんなのあんまりだ。

「切っちゃっていいよね?水瀬のこと好きだったんだろうけど、もう未練断ち切りなって」

そいつはそう口にしてハサミの刃を動かした。それは音を立てながらキーホルダーの飾りと紐を繋ぐ部分を数ミリずつ切っていく。

「やめろっつってんだろうが…………!!」

気持ち悪い。俺と陽葵のものにその汚い手で触らないでくれ。
キーホルダーに絡みつく穢れた手をほどくために勢いよくそいつの肩を突き飛ばした。そいつは思いきり尻もちをついて目を見開いていた。
荒くなった息を鎮めるために深呼吸を繰り返して、ようやく心が落ち着いてきたところで周囲を見回すと、俺にスマホを向けるクラスメイトの姿があった。

「ちょっ、何して…………」

思わず開いた唇の隙間から声がこぼれた。動画を、撮られてた?
“この学校はスマホ禁止なはずなのにどうして”とか“いつから撮られてたんだ”とか色んな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って心の中に飽和していく。

「びっくりした?私、こういう時のためにスマホ内緒で持ってきてたんだ。思惑通り事件があってラッキー」

動画を撮っていたクラスメイトはどこまでも楽しそうに笑みを飛ばした。その近くにいた数人の野次馬の反応は人それぞれで、気まずそうに顔を逸らす者もいれば、“これ、先生に言った方がいいんじゃない?”と口にしながら不安そうな表情でじっと視線を注いでくる者もいる。
本当に先生に口外されたらどうなるんだろう。もし、これが大事にでも発展したら…………。仮に当人同士で解決することができても、相手の親の出方によっては十分大事になり得る。

なぁ、陽葵。俺はどうしたらいい?教えてくれよ。