後宮というところは、匂いからして違った。
御殿と御殿が、屋根のある渡り廊下でつながり、その先々に、御簾と几帳が幾重にも垂れている。布の向こうから聞こえるのは、衣擦れと、ひそやかな笑い声と、扇を開く音。そして何より、香の匂いだ。どの御殿からも、競うように焚きしめた香が流れてくる。濃すぎて、腹の虫まで黙りこむ。
私はここに、臨時の女孺として入った。女孺というのは、後宮で雑用をこなす、下っ端の女官のことだ。表向きの名目は、主を失った梅壺の片づけ。手配したのは、もちろん昴だった。泣き女だということは、伏せてある。弔いの匂いのする女が、立后を控えた後宮をうろついていると知れたら、それこそ塩を撒かれる。
驚いたのは、下で働く者の朝餉が、思いのほか質素なことだった。強飯と汁と、塩と漬物。腹の足しにはなるけれど、心の足しにはならない。後宮というのは、見た目ほど満腹な場所ではないらしい。
梅壺は、静かだった。
主を失った御殿というのは、こんなにも音がしないものなのか。部屋の隅々に、まだ梅の方が使っていた調度が残っている。蒔絵の手箱、螺鈿の鏡台、几帳の帷子に縫いとられた、白い梅の枝。そのどれもが、主が帰ってくるのを待っているように、きちんとそこにあった。
庭には、一本の梅の老木が立っていた。花はとうに散って、枝先には若葉がのぞきはじめている。
「その梅、梅の方がとても大事にしておられたんです」
声をかけてきたのは、私と同じ年ごろの女官だった。小萩という。梅壺に仕えていたひとりで、主を亡くしたあとも、片づけのためにここに残っているのだという。丸い頬をした、よく笑いそうな顔の子だった。けれど、いまは目のふちが赤い。
「梅の方は、どんな方だったの」
床を拭きながら尋ねると、小萩は少し考えてから、ぽつりぽつりと話してくれた。
身分の低い更衣だったから、ほかのお妃さま方からは、ずいぶんと意地の悪いことも言われていたらしい。それでも、いつも笑っておられた。下働きの者にも、分けへだてなく声をかけてくださった。寒い朝には、自分の火桶を女孺所に回してくださったこともある。
「私が熱を出したときなんか、干し柿をくださったんですよ。内緒よ、って。主上からいただいた、大事な干し柿だったのに」
小萩は、泣き笑いの顔になった。
「主上がお渡りになる夜は、ご自分で庭に下りて、梅の枝を一本、手ずから折って待っておられました。梅の香りを袖に焚きしめるのがお好きで……主上は、真っ暗な夜でも、梅の方がどこにいらっしゃるかすぐにわかる、なんておっしゃっていたそうです」
それから小萩は、少しだけ声を落とした。
「……でも、亡くなる前のひと月ほどは、お顔の色が、透けるように白くて。それでも、いつもと同じように笑っておられました」
透けるように白い顔。それでも笑っていた人。
私は、棺の中の、眠っているような顔を思い出した。袖口からこぼれた、白い梅の花びらを。
小萩は最後に、渡り廊下の端に置かれた小さな皿を指さした。
「あれは、かぐやのご飯です。梅の方の猫で……毎晩、あそこで鳴くんです。誰もいないところに向かって」
御殿と御殿が、屋根のある渡り廊下でつながり、その先々に、御簾と几帳が幾重にも垂れている。布の向こうから聞こえるのは、衣擦れと、ひそやかな笑い声と、扇を開く音。そして何より、香の匂いだ。どの御殿からも、競うように焚きしめた香が流れてくる。濃すぎて、腹の虫まで黙りこむ。
私はここに、臨時の女孺として入った。女孺というのは、後宮で雑用をこなす、下っ端の女官のことだ。表向きの名目は、主を失った梅壺の片づけ。手配したのは、もちろん昴だった。泣き女だということは、伏せてある。弔いの匂いのする女が、立后を控えた後宮をうろついていると知れたら、それこそ塩を撒かれる。
驚いたのは、下で働く者の朝餉が、思いのほか質素なことだった。強飯と汁と、塩と漬物。腹の足しにはなるけれど、心の足しにはならない。後宮というのは、見た目ほど満腹な場所ではないらしい。
梅壺は、静かだった。
主を失った御殿というのは、こんなにも音がしないものなのか。部屋の隅々に、まだ梅の方が使っていた調度が残っている。蒔絵の手箱、螺鈿の鏡台、几帳の帷子に縫いとられた、白い梅の枝。そのどれもが、主が帰ってくるのを待っているように、きちんとそこにあった。
庭には、一本の梅の老木が立っていた。花はとうに散って、枝先には若葉がのぞきはじめている。
「その梅、梅の方がとても大事にしておられたんです」
声をかけてきたのは、私と同じ年ごろの女官だった。小萩という。梅壺に仕えていたひとりで、主を亡くしたあとも、片づけのためにここに残っているのだという。丸い頬をした、よく笑いそうな顔の子だった。けれど、いまは目のふちが赤い。
「梅の方は、どんな方だったの」
床を拭きながら尋ねると、小萩は少し考えてから、ぽつりぽつりと話してくれた。
身分の低い更衣だったから、ほかのお妃さま方からは、ずいぶんと意地の悪いことも言われていたらしい。それでも、いつも笑っておられた。下働きの者にも、分けへだてなく声をかけてくださった。寒い朝には、自分の火桶を女孺所に回してくださったこともある。
「私が熱を出したときなんか、干し柿をくださったんですよ。内緒よ、って。主上からいただいた、大事な干し柿だったのに」
小萩は、泣き笑いの顔になった。
「主上がお渡りになる夜は、ご自分で庭に下りて、梅の枝を一本、手ずから折って待っておられました。梅の香りを袖に焚きしめるのがお好きで……主上は、真っ暗な夜でも、梅の方がどこにいらっしゃるかすぐにわかる、なんておっしゃっていたそうです」
それから小萩は、少しだけ声を落とした。
「……でも、亡くなる前のひと月ほどは、お顔の色が、透けるように白くて。それでも、いつもと同じように笑っておられました」
透けるように白い顔。それでも笑っていた人。
私は、棺の中の、眠っているような顔を思い出した。袖口からこぼれた、白い梅の花びらを。
小萩は最後に、渡り廊下の端に置かれた小さな皿を指さした。
「あれは、かぐやのご飯です。梅の方の猫で……毎晩、あそこで鳴くんです。誰もいないところに向かって」
