袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 夜明け前の渡り廊下で、帝は長いこと、梅の木を見上げていた。
 花は、もう一輪も残っていなかった。季節どおりの、若葉ばかりの梅だった。東の空がうっすらと白みはじめて、葉の一枚一枚に、ほんのりと朝の色が差していく。
 帝の手の中には、白い花びらが一枚、そっと包まれていた。
「記録は、正さぬ」
 やがて、帝が言った。
「梅壺の更衣は、日暮れに内裏を下がり、翌朝、里で亡くなった。……それでよい。戦の火種を、これ以上増やすわけにはいかぬ」
 頭中将が、深く頭を下げた。
「そのかわり、そなたは、妹の本当の命日に喪に服せ。あの夜を、忘れるな」
「……かしこまりました」
 あとで聞いた話では、その朝、立后の儀は、何事もなかったように執り行われたという。藤の方は中宮になり、都に戦の火の手は上がらなかった。右近さまは、立后のあと、病を理由にひっそりと里へ下がった。偉い人の都合は、どこまでいっても偉い人の都合だった。
 帝は最後に、手の中の文と花びらを見つめ、それを大事そうに懐にしまった。
「あれの最期は、もう、私に届いた」
 その声は、少しだけ震えていた。
 私は、黙って梅の木を見上げた。
 偉い人の都合で、死に場所まで書き換えられるなんて、たまったもんじゃない。本当の命日は、どこの記録にも残らない。
 ――でも。
 あの人の最期の想いは、ちゃんと届いた。
 それだけは、どんな記録にも書き換えられない。
 足もとで、かぐやは、もう鳴かなかった。ただ、朝の光の中で、ゆっくりと顔を洗っていた。