袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 終わった。そう思ったのに、涙が止まらなかった。
 心ごと泣いた涙は、栓が抜けたように、あとからあとからあふれてくる。それが、もう梅の方の涙なのか、私の涙なのか、わからない。
 足もとの板が、ふっと遠くなった。渡り廊下の灰色が、じわじわと体にしみこんでくる。冷たい。重い。自分の輪郭が、薄くなっていく。昴の声も、猛の声も、かぐやの鳴き声も、水の底から聞くように遠い。
 向こう側へ、引かれている。
 ――流したら、帰ってこられなくなるよ。
 叔母の声が、ずっと遠くで聞こえた。
 そのとき、袖を強く引かれた。
「泣くな」
 すぐ耳もとで、声がした。
 昴だった。私の袖をつかんで、灰色の向こうから、力ずくで引き戻そうとしている。その手が、震えていた。
 泣くな。
 その言葉が、胸の奥で、妙な響き方をした。どこかで聞いたことがある。いや、聞いたのではない。どこかで、私が、誰かに言ったことがある――そんな気がした。
 けれど、それが何だったのか思い出す前に、私の体は、昴の腕の中に転がりこんでいた。
 足もとに、板の感触が戻ってきた。灰色が引いていく。御殿の朱が、几帳の錦が、ゆっくりと色を取り戻していく。風の音。虫の声。どこか遠くで、かぐやがにゃあと鳴いた。
 夜の後宮が、閉じたのだ。
「……昴?」
 見上げると、昴の顔が、すぐそこにあった。
 その目が、濡れていた。
 今にもこぼれそうなくらいに。唇をかみしめて、まばたきもせずに、私を見下ろしている。どう見ても、泣く寸前の顔だった。
 それなのに、昴は泣かなかった。一滴も。
 ……変な人だ。泣きたいなら、泣けばいいのに。
 昴は、私の袖をつかんだまま、しばらく放さなかった。指先が白くなるほど、強く。それから、ほとんど息だけの声で、何かをつぶやいた。
「……二度と、あなたに」
「え?」
 聞き返すと、昴は、はっとしたように手を放した。
「何でもない」
 そう言って、ふいと顔をそむけた。その横顔が、なぜだか、ひどく幼く見えた。転んで泣くのをこらえている、小さな男の子みたいに。
 背後で、どさりと重い音がした。猛が、打橋の前で大の字にひっくり返っていた。
「……腹、減った……」
 それが、この夜いちばん正直な言葉だった。
 そして私の腹も、それに応えるように、盛大に鳴った。死者の最期から、生きている側へ戻ってきた音だった。