袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 帝が、懐から文を取り出した。
 乾いた梅の枝に結ばれた、あの文だ。帝は震える指でそれを開き、ゆっくりと、声に出して詠んだ。

「春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」

 ひと月前に届くはずだった声が、ようやく、この渡り廊下に響いた。
 梅の香りが、ひときわ強くなった。重く濁っていた香りが、すこしずつ、澄んでいく。
 私は、渡り廊下の床に膝をついた。かぐやが鳴いていた場所。梅の方が、梅の枝を抱いて、冷たくなっていた場所。
 両手の袖を、まくり上げた。
 叔母の声が聞こえる。自分の涙だけは、流すんじゃない。わかってる。わかってるけど、鎧を着たままでは、この人の想いの端っこしか受け取れない。最後の最後まで受け取るには、心ごと泣くしかない。
 私は、素手のまま、床に両の手のひらを押しあてた。
 冷たい。板の木目のひとすじひとすじに、あの夜の冷たさが、まだ眠っていた。
 そして、流れこんできた。
 寒い。膝の下の板が、氷のように冷たい。月がない。来ない。まだ来ない。淋しい。胸が苦しい。息が、うまく吸えない。ひと月もふた月も隠しつづけてきた痛みが、いまになって、胸の内側から爪を立ててくる。
 ――それでも。
 ひとすじの光が、夜空を流れていく。
 その光に向かって、胸の中で、ひとつの歌を詠んでいる。あの人が来たら、渡そうと思っていた歌。抱いた梅の枝に、結ぶつもりだった歌。
 気がつくと、私は、その歌を口にしていた。

「梅が香に われを偲ばば 君が袖 露な置きそと 呼ばふ星かな」

 涙が、止まらなかった。
「……梅の香りで、私を思い出してくださるなら。どうか、その袖を涙で濡らさないで。――そう呼びかけながら、星が流れていく」
 帝が、息をのむ気配がした。
 主上の文の歌と、梅の方の歌。二首は、互いに読まれないまま、ひとつの梅の香りでつながっていた。香りは隠れない、と詠んだ人と、香りで私を思い出して、と詠んだ人。届かなかった文と、渡せなかった歌が、ひと月遅れで、いま、ようやく出会ったのだ。
「主上」
 昴が、静かに言った。
「いま、あの方が、主上の袖に手を伸ばしておられます」
 帝が、自分の袖を見た。見えるはずのないものを、見ようとするように。
 その目に、涙がにじんだ。けれど、帝はそれをこぼさなかった。唇をかみしめて、それから、ゆっくりと笑ってみせた。
 袖に、露を置くな。あの人が、最期に願ったことだったから。
 花びらの嵐が、ふいにやんだ。
 黒い靄が、ほどけるように消えていく。そのとき、私にもほんの一瞬だけ、見えた気がした。梅の枝を抱いた薄紅の衣の人が、帝を見上げて、ほほえむのを。
 その頬を、ひとすじの涙が伝っていった。この人が、はじめて流した涙だった。
 夜空を、光が流れた。
 呼ばひ星だった。
 光が消えるのと同時に、その人も、梅の香りといっしょに、静かに消えていった。帝の袖に、白い花びらを一枚だけ残して。