袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 昴の願い出は、主上に届いたらしい。
 丑の刻。月のない夜。
 そのかわり、星が、こぼれ落ちてきそうなほど近い。ひと月前の今夜、梅の方も、この空を見上げていたのだ。
 梅壺の庭は、深い闇の底に沈んでいた。老木の梅は、若葉ばかりの枝を黒々と夜空に広げている。かぐやが、渡り廊下のあの場所に座りこんで、じっと空を見上げていた。
 衣擦れの音がして、ひとりの若い男の人が、渡り廊下に立った。
 目立たない、地味な装いだった。あの夜、清涼殿の簀子で、闇を見つめていた人だ。整った顔立ちの、その目の下に、濃い影が落ちていた。眠れない夜を、いくつも数えてきた人の顔だった。
 主上――帝だ。
 御簾も几帳もない場所で、私は生まれてはじめて、帝のお顔を正面から見た。思っていたより、ずっと普通の人だった。大事な人をなくして、それでも朝が来れば政をしなければならない、ひとりの若い男の人。
 その斜め後ろに頭中将が控え、さらにその後ろで、猛が打橋の前に陣取っていた。
「始めます」
 昴が、低く言った。
 何かを唱える声が、闇に溶けていく。その声が続くにつれて、世界から少しずつ色が抜けていった。御殿の朱が灰色に沈み、風の音が遠のき、虫の声がぷつりと途切れる。冷や飯の匂いが、あたりに満ちる。
 夜の後宮が、こちら側に重なってきたのだ。
 帝が、小さく身を震わせた。見えてはいないのだろう。それでも、寒さは伝わるらしい。
 庭の老木に、ひとつ、またひとつと、白い花が灯った。若葉の枝が、見る間に満開の梅に変わっていく。灰色の世界の中で、梅だけが、ほの白く光っていた。
 そして、梅の香りが、渡り廊下を吹き抜けた。
 帝が、はっと顔を上げた。
「……この香だ」
 かすれた声だった。
 けれど、その香りは、すぐに重く、濁っていった。庭の梅から、白い花びらがいっせいに舞い上がる。季節外れの花びらが、嵐のように渦を巻き、渡り廊下を埋めつくしていく。今度は、私にも見えた。帝にも見えているらしい。花びらの向こうに、黒い靄のようなものが、ゆらりと立ちのぼるのも。
「怨霊に、なりかけております」
 昴の声が、硬くなった。
 ばきり、と、背後で嫌な音がした。
 振り返ると、打橋のあたりの空気が、裂けるように歪んでいた。境が、ほころびかけているのだ。ありもしない板が、ぎしぎしと軋みながら、こちらへ倒れかかってくる。その裂け目の奥から、無数の衣擦れの音が、潮のように押し寄せてくる。
「させるかっ!」
 猛が、全身でそれを受けとめた。
 丸太のような腕が、見えない重みに震えている。歯を食いしばった顔が、真っ赤だ。見えないものを、見えないまま、力ずくで抑えている。頭より先に体が動く人というのは、こういうときに、本当に強い。
「昴、早くしろ! 長くはもたん!」
 昴が一歩、黒い靄の真正面に出た。花びらの嵐が、その袖を激しくはためかせる。
「梅壺の更衣」
 よく通る声だった。
「この渡り廊下にて、月のない夜、丑の刻に、身まかられた」
 偽りの記録で奪われた、本当の死に場所と、本当の刻。日暮れに下がったことにされ、実家の寝床で死んだことにされた人に、昴は、本当の最期を返したのだ。
 黒い靄が、ほんの少しだけ薄くなった。