袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 文を、取り戻さなければならない。
 右近さまが焼いてしまっていたら、それまでだ。けれど、もし、まだどこかに残っているなら。
 その夜、私は灯りの油壺を抱えて、藤壺の渡り廊下を歩いていた。女孺は、夜でも灯りの番で、どの御殿にも出入りできる。誰も、下っ端の顔など見ていない。
 足もとで、にゃあ、と声がした。
 かぐやだった。梅壺から、ついてきてしまったらしい。
「だめよ、戻って」
 小声で言っても、かぐやは聞かなかった。ふんふんと鼻をひくつかせながら、迷いのない足取りで、藤壺の奥へと入っていく。几帳のあいだをすり抜け、廊下を曲がり、やがて、ひとつの部屋の前で足を止めた。
 右近さまの局だ。
 かぐやは、部屋の隅に置かれた唐櫃の前に座りこみ、その蓋に、かりかりと爪を立てた。
 梅の香りがした。
 ほんのかすかに、けれど確かに。濃い香の匂いに埋もれて、それでも消えずに、細い糸のように漂ってくる。
 主上は、真っ暗な夜でも、梅の方がどこにいらっしゃるかすぐにわかる――小萩の言葉を思い出した。かぐやにとっても、梅の香りは、主の匂いだったのだ。
 私は、そっと唐櫃に手を伸ばした。
「――何をしているの」
 背後で、声がした。
 振り返ると、右近さまが立っていた。手燭の灯りが、白粉の顔を、下から不気味に照らしている。
 私は、唐櫃の前から動かなかった。
「あの夜、清涼殿のお使いから受け取ったものは、何ですか。どうしてそれを、梅壺に届けなかったんですか」
 右近さまは、扇で口元を隠して笑った。
「まあ、何のことかしら。下っ端の女孺が、夢でもご覧になったの?」
 それから、白粉の頬に、ひとすじの涙を浮かべてみせた。
「それとも、梅の方を偲ぶ私の気持ちまで、疑うおつもり? ひどい人」
 見事な涙だった。目元だけが濡れて、ほかは少しも崩れない。
 私は、ため息をついた。
「右近さま。私、本当は泣き女なんです」
 右近さまの手が、止まった。
「嘘泣きなら、私のほうがうまい」
 しばらく、右近さまは動かなかった。扇の陰で、唇がわなないた。それから、その顔がぐしゃりとゆがんだ。
 喉が詰まり、肩が揺れ、白粉の下で鼻が赤くなる。今度の涙は、目より先に、顔のいちばん弱いところから崩れていった。本物の涙だった。怯えの涙だ。
「……殺すつもりなんて、なかったの」
 右近さまは、その場に座りこんだ。手燭が床に落ちて、灯りが大きく揺れた。
「女御さまが中宮になられるためには、主上のお心が梅の方にあっては困る。だから、ほんの少し、遠ざけたかっただけ。文が届かなければ、主上に忘れられたと思って、あきらめてくださると……まさか、あんな寒い夜に、ひと晩じゅう待ちつづけるなんて」
 人を殺すのは、毒だけじゃない。届かなかったひと言が、人を凍えさせることもある。
 右近さまは、震える手で、唐櫃の蓋を開けた。
「焼こうと、したのよ。何度も。でも、できなかった。主上の御手を、火にくべるなんて……」
 唐櫃の底から出てきたのは、薄紅の紙を、ひと枝の梅に結んだ文だった。
 枝はすっかり乾いて、花はとうに散っている。それなのに、かすかに梅の香が立った。ひと月近くも唐櫃の底に閉じこめられていたのに、紙はまだ、あの夜の香りを覚えていた。
 開くと、短い言葉が書かれていた。
 今宵は行けぬ。
 その横に、古い名歌が一首、添えてあった。

 春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる

 私は、息をのんだ。
 清涼殿の簀子で、帝が闇に向かってつぶやいていた、あの歌だった。
 月のない春の夜の闇は、むだなことをする。梅の花の色は隠せても、香りまでは隠せないのだから。――今夜は会いに行けなくても、あなたのことは、ちゃんと感じている。そういう、詫びの歌だった。
 帝は毎晩、届いたはずの自分の歌を、ひとりでつぶやいていたのだ。返事の来ない闇に向かって。
 私は、文を胸に抱いた。
 この文が、届いていれば。
 あの人は、冷たい渡り廊下で、来ない人を待ちつづけることはなかった。