その夜、私は詰所に、屯食をもらいに行った。半分は腹のため、半分は、たしかめたいことがあったからだ。
「ねえ、猛。梅の方が内裏を下がった夜って、覚えてる?」
猛は、屯食をほおばったまま、のんきに答えた。
「あの夜? ああ、覚えてるぞ。頭中将さまの命令でな、明け方に、人の引く車を護衛したんだ」
「明け方?」
「おう。病人を実家まで送るから、黙ってついてこいって。誰にも言うなって言われてたんだが……」
猛は、そこでぴたりと口を止めた。
「……あ」
遅い。
「付き添いの女たちがな、みんな袖を噛んで、泣くのをこらえてたんだ。声ひとつ立てないで。病人ってのは、あんなに静かなもんかね、と思ったよ。車の中からも、咳ひとつ聞こえなくて――」
猛の声が、だんだん小さくなっていった。
いつのまにか、戸口に昴が立っていた。私と昴は、黙って顔を見合わせた。
日暮れに内裏を出たはずの人が、真夜中に内裏の渡り廊下で星を見ていて、明け方に、車で運ばれていった。
咳ひとつ、立てないで。
「……おい」
猛が、かすれた声で言った。
「俺が運んだのは、病人じゃ、なかったのか」
誰も、答えなかった。
長い沈黙を破ったのは、私だった。
「……ねえ。どうして、そこまで隠さなきゃいけなかったの」
二人が、私を見た。
「病で亡くなっただけなら、穢れは困るにしても、ここまでする? 夜のうちに運び出して、記録を書き換えて、運んだ人にまで口止めして」
あの日、素手で袖に触れたとき、流れこんできたもの。寒さ。淋しさ。それから――胸が、苦しい。息が、うまく吸えない。
「あの人、最期に、息が苦しかったの」
昴の顔色が変わった。
「……毒、か」
その一言が、土間の冷たい空気を、さらに冷たくした。
梅の方が死んで、いちばん得をするのは誰か。帝にいちばん愛されたお妃さまがいなくなれば、立后は何の波風もなく進む。中宮になるのは、藤の方だ。そして藤の方のそばには、夜の取り次ぎを任された女房頭がいる。
白粉の奥で光っていた、あの目。
「頭中将さまは、それを知っていて、隠したのかもしれない。戦にならないように。……それとも」
それとも、隠したのは、もっと別の理由だったのか。
「俺は……人殺しの片棒を、担いだのか」
猛の声が、震えていた。返す言葉が、見つからなかった。
猛の手から、食べかけの屯食が落ちた。ころころと土間を転がって、止まる。灯りの中で、その白さが、やけに目にしみた。
私は生まれてはじめて、落ちた握り飯を拾う気になれなかった。
「ねえ、猛。梅の方が内裏を下がった夜って、覚えてる?」
猛は、屯食をほおばったまま、のんきに答えた。
「あの夜? ああ、覚えてるぞ。頭中将さまの命令でな、明け方に、人の引く車を護衛したんだ」
「明け方?」
「おう。病人を実家まで送るから、黙ってついてこいって。誰にも言うなって言われてたんだが……」
猛は、そこでぴたりと口を止めた。
「……あ」
遅い。
「付き添いの女たちがな、みんな袖を噛んで、泣くのをこらえてたんだ。声ひとつ立てないで。病人ってのは、あんなに静かなもんかね、と思ったよ。車の中からも、咳ひとつ聞こえなくて――」
猛の声が、だんだん小さくなっていった。
いつのまにか、戸口に昴が立っていた。私と昴は、黙って顔を見合わせた。
日暮れに内裏を出たはずの人が、真夜中に内裏の渡り廊下で星を見ていて、明け方に、車で運ばれていった。
咳ひとつ、立てないで。
「……おい」
猛が、かすれた声で言った。
「俺が運んだのは、病人じゃ、なかったのか」
誰も、答えなかった。
長い沈黙を破ったのは、私だった。
「……ねえ。どうして、そこまで隠さなきゃいけなかったの」
二人が、私を見た。
「病で亡くなっただけなら、穢れは困るにしても、ここまでする? 夜のうちに運び出して、記録を書き換えて、運んだ人にまで口止めして」
あの日、素手で袖に触れたとき、流れこんできたもの。寒さ。淋しさ。それから――胸が、苦しい。息が、うまく吸えない。
「あの人、最期に、息が苦しかったの」
昴の顔色が変わった。
「……毒、か」
その一言が、土間の冷たい空気を、さらに冷たくした。
梅の方が死んで、いちばん得をするのは誰か。帝にいちばん愛されたお妃さまがいなくなれば、立后は何の波風もなく進む。中宮になるのは、藤の方だ。そして藤の方のそばには、夜の取り次ぎを任された女房頭がいる。
白粉の奥で光っていた、あの目。
「頭中将さまは、それを知っていて、隠したのかもしれない。戦にならないように。……それとも」
それとも、隠したのは、もっと別の理由だったのか。
「俺は……人殺しの片棒を、担いだのか」
猛の声が、震えていた。返す言葉が、見つからなかった。
猛の手から、食べかけの屯食が落ちた。ころころと土間を転がって、止まる。灯りの中で、その白さが、やけに目にしみた。
私は生まれてはじめて、落ちた握り飯を拾う気になれなかった。
