袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 かぐやが足を止めたのは、梅壺の渡り廊下の、ちょうど真ん中だった。
 庭に、梅の木が立っている。灰色の世界の中で、その梅だけが、ほの白く花をつけていた。昼間、若葉をのぞかせていたあの老木が、ここでは満開だった。まるで、そこだけ時が止まっているように。
 かぐやが、何もない床に向かって、にゃあ、と鳴いた。何度も、何度も。甘えるような、呼びかけるような声だった。
 昴が、息をのんだ。
「――いる」
「梅の方?」
 昴は、ゆっくりとうなずいた。
「梅の枝を抱えて、空を見上げている。誰かを待っているみたいだ。空を見上げて、廊下の向こうを振り返って、また空を見上げて。同じ仕草を、何度もくり返している。……泣いていない。一筋も」
 主上がお渡りになる夜は、ご自分で梅の枝を一本、手ずから折って待っておられました――小萩の声が、耳の奥でよみがえった。
 待っているのだ。あの夜のまま、ずっと。
 あの葬儀の日に流れこんできた想いが、胸の奥でよみがえる。寒い。淋しい。星が流れた。文は、まだ来ない。
 私は、そっと床に膝をついた。板が、氷のように冷たい。あの日、膝の下に感じたのと、同じ冷たさだった。
 ――ここだ。この人は、ここで。
 手を伸ばしかけて、止めた。死者には触れられない。最期に身につけていたものも、ここにはない。私にわかるのは、あの日もらった、想いの端っこだけだ。
「……露」
 昴の声が、変わった。
「下がれ。輪郭が、黒ずんでいく」
 その言葉と同時に、梅の香りがふいに濃くなった。むせかえるほどに。甘いはずの香りが、熟れすぎた果実のように重く、喉の奥にからみついてくる。灰色の世界が、ぐらりと揺れる。庭の梅から、花びらがいっせいに舞い上がった。風もないのに、白い花びらが渦を巻いて、渡り廊下に吹きこんでくる。頬に当たる花びらが、雪のように冷たい。
 かぐやが、毛を逆立てて唸った。
 几帳の陰から、廊下の奥から、柱のうしろから、いっせいに、何かがこちらを向いた気配がした。見えない。けれど、わかる。灰色の世界じゅうの目が、いま、私たちを見ている。
「怨霊に、なりかけている。……まわりの死者まで、引きずられている」
 昴が、私の手首をつかんだ。
「戻るぞ」
 私たちは走った。灰色の廊下を、花びらの嵐の中を。背後から、何かが追ってくる気配がする。衣擦れの音が、ひとつ、ふたつ、数えきれないほどに増えていく。冷たいものが、首筋にふれそうになる。
 打橋が見えた。
 板の向こうで、猛が身を乗り出していた。
「つかまれ!」
 私は昴に手首をつかまれたまま、押し出されるようにして板を渡り、猛の腕に飛びこんだ。続いて昴も転がりこむ。最後に、白い猫がひらりと飛び越えてきた。その瞬間、背後で板が、ふっと消えた。
 音が戻ってきた。風の音。虫の声。猛の荒い息。
「……何があった」
 猛が、私と昴の顔を見比べた。
 昴は、まだ肩で息をしながら、切れ目の向こうをにらんでいた。私の手首を、まだ放していないことに、本人は気づいていないようだった。
「時間がない」
 ひどく静かな声だった。
「立后の前夜までに、あの方の想いを晴らせなければ、梅壺はもう、誰にも止められなくなる」