袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

「止まれ」
 いくらも歩かないうちに、昴が静かに言った。
「どうしたの」
「いる」
 私は、廊下を見回した。灰色の柱と、灰色の床と、灰色の几帳。それだけだ。
「何が」
「死者だ。右に二人、左の几帳の陰に一人。――それから」
 昴は、私の肩のあたりに目をやった。
「右肩のすぐ後ろに、一人」
 私は、ゆっくりと振り返った。
「……柱と埃しか見えないけど」
「見えないなら、それでいい」
 昴の声は平らだったが、顔はいつもより白かった。もともと白いのだけれど、いまは透きとおりそうだ。
 歩きながら、昴はぽつりぽつりと教えてくれた。几帳の陰で、もう梳く髪もないのに、櫛を動かしつづけている女。床に這いつくばって、なくした簪を探している小さな女の童。みんな、この後宮で暮らし、ここに想いを残していった人たちなのだという。
 私には、何ひとつ見えない。
 けれど、何も感じないわけではなかった。
 几帳の前を通りすぎたとき、さり、さり、と、髪を梳くような音がした。風もないのに、几帳の帷子がかすかに揺れる。床を見れば、いつのまにか、小さな濡れた足あとが、点々と私たちのあとをついてきていた。私が足を止めると、足あとも止まる。歩き出すと、また、ぺたり、ぺたりと増えていく。
「……昴」
「簪を探している子だ。あなたの髪に挿しているものが、気になるらしい」
 私は、髪をくくっている白い紐に手をやった。簪なんて、上等なものは持っていない。
「あげられるものは、ないんだけど」
 そう言ったとたん、足首を、ひやりとしたものがつかんだ。
 小さな手だった。見えないのに、わかる。氷のように冷たい、子どもの指。
 悲鳴を上げなかったのは、我ながら褒めてほしい。そのかわり、私の口から出てきたのは、こんな言葉だった。
「……ごめんね。見つかるといいね」
 足首の冷たさが、ふっとほどけた。濡れた足あとは、くるりと向きを変えて、廊下の奥へと消えていった。
 昴が、まじまじと私を見ていた。
「怖くないのか」
「怖いわよ。でも、見えないから、怖がり方がわからない」
 私は懐から、今日の分の椿餅を取り出した。右近さまから守り抜いた、虎の子の一個だ。
「……ここで食べるのか」
 昴が、信じられないものを見る目で私を見た。
「怖いときは、何か食べるのがいちばんなの。生きてる側に、足をつけておけるから」
 ひと口かじる。冷や飯の匂いのする世界で、椿の葉の青い香りだけが、ちゃんと生きている匂いがした。
 昴は呆れたように息をついて、けれど、なかなか前を向かなかった。私が食べ終えるまで、じっとこちらを見ている。
「人の顔ばっかり見てないで、前を見なさいよ。陰陽師なんでしょ」
 昴は、慌てたように前を向いた。その耳のあたりが、灰色の世界の中で、ほんの少しだけ色を持った気がした。
 廊下は、どこまでも続いていた。
 さっき通りすぎたはずの柱が、また前に現れる。同じ几帳、同じ曲がり角、同じ傷のある床板。歩いても、歩いても、梅壺に着かない。
「……ねえ。さっきから、同じところを回ってない?」
「迷わされている。ここは、死者の想いでできた場所だ。想いの強い者ほど、道を曲げる」
 足もとで、にゃあ、と声がした。
 見下ろすと、白い毛並みの、品のいい唐猫がいた。灰色の世界の中で、その猫だけが、ちゃんと白く見える。
「かぐや……?」
 梅の方の猫だ。猫というのは、境を越えられるものらしい。かぐやは私たちを見上げてもう一度鳴くと、尻尾を立てて、廊下の奥へと歩き出した。ついてこい、とでも言うように。
 不思議なことに、かぐやのあとをついていくと、同じ柱は二度と現れなかった。