それから三日後の夜。私たちは、梅壺の渡り廊下の、打橋の前にいた。
打橋というのは、御殿と御殿をつなぐ渡り廊下の切れ目に渡す、取り外せる板の橋のことだ。目の前の切れ目に、いまは板がなく、暗い隙間がぽっかりと口を開けていた。
「丑の刻になったら、ここに板が一枚現れる」
昴が言った。
「その板を踏めば、夜の後宮へ渡れる。想いを残した死者たちが、とどまっている場所だ」
「……それ、叔母さんが言ってた『向こう』?」
昴は答えなかった。かわりに、猛が大きなあくびをした。
「俺はこっち側で、橋を見張ってる。何かあったら、引っぱり上げてやる」
「猛は、怖くないの?」
「怖くないぞ」と、猛は胸を張った。「見えないからな」
なるほど。それは強い。
待つあいだ、猛はしゃべりどおしだった。昴は黙って空を見ていた。灯りもつけない渡り廊下で、猛の声だけが、やけに明るい。
「こいつ、昔は泣き虫でさ」
猛が、昴を顎でしゃくった。
「転んじゃ泣き、犬に吠えられちゃ泣き。俺がいつも、後ろにかばってやってたんだ」
私は、昴の横顔を見た。月の沈んだ夜の闇の中でも、その顔の白さと澄んだ目はわかる。涼しげで、静かで、どこにも泣き虫の名残なんかない。
「へえ。この顔で? 想像つかない」
昴は、何も言わなかった。言わないかわりに、猛の足を思いきり踏んだ。猛が、声にならない悲鳴を上げた。
そのときだった。
ぎしり、と板の鳴る音がした。
さっきまで何もなかった切れ目に、一枚の板が渡されていた。古びて白っぽく、ところどころ削れている。誰が置いたのでもない。けれど、確かにそこにある。
「――丑の刻だ」
昴が、低く言った。
叔母の声が、耳の奥でよみがえる。向こうで、自分の涙だけは流すんじゃないよ。
「行くぞ」
昴が先に、板を踏んだ。私も続いた。
渡りきった瞬間、世界から色が抜けた。
御殿の朱も、几帳の錦も、何もかもが灰色に沈んでいる。音がない。風の音も、虫の声も、さっきまで聞こえていた猛の気配も、ぷつりと途切れた。空気はひやりと湿って、どこか古びた匂いがする。たとえるなら、冷や飯だ。一晩置いて、すっかり冷えきった飯の匂い。
隣を見ると、昴がいた。
ここには、身分も御簾もないのだ。なんだか、妙な感じだった。
昴は一瞬だけ立ち止まり、私のほうを見て、何か言いかけて、やめた。
それから、灰色の廊下の奥へと、歩き出した。
打橋というのは、御殿と御殿をつなぐ渡り廊下の切れ目に渡す、取り外せる板の橋のことだ。目の前の切れ目に、いまは板がなく、暗い隙間がぽっかりと口を開けていた。
「丑の刻になったら、ここに板が一枚現れる」
昴が言った。
「その板を踏めば、夜の後宮へ渡れる。想いを残した死者たちが、とどまっている場所だ」
「……それ、叔母さんが言ってた『向こう』?」
昴は答えなかった。かわりに、猛が大きなあくびをした。
「俺はこっち側で、橋を見張ってる。何かあったら、引っぱり上げてやる」
「猛は、怖くないの?」
「怖くないぞ」と、猛は胸を張った。「見えないからな」
なるほど。それは強い。
待つあいだ、猛はしゃべりどおしだった。昴は黙って空を見ていた。灯りもつけない渡り廊下で、猛の声だけが、やけに明るい。
「こいつ、昔は泣き虫でさ」
猛が、昴を顎でしゃくった。
「転んじゃ泣き、犬に吠えられちゃ泣き。俺がいつも、後ろにかばってやってたんだ」
私は、昴の横顔を見た。月の沈んだ夜の闇の中でも、その顔の白さと澄んだ目はわかる。涼しげで、静かで、どこにも泣き虫の名残なんかない。
「へえ。この顔で? 想像つかない」
昴は、何も言わなかった。言わないかわりに、猛の足を思いきり踏んだ。猛が、声にならない悲鳴を上げた。
そのときだった。
ぎしり、と板の鳴る音がした。
さっきまで何もなかった切れ目に、一枚の板が渡されていた。古びて白っぽく、ところどころ削れている。誰が置いたのでもない。けれど、確かにそこにある。
「――丑の刻だ」
昴が、低く言った。
叔母の声が、耳の奥でよみがえる。向こうで、自分の涙だけは流すんじゃないよ。
「行くぞ」
昴が先に、板を踏んだ。私も続いた。
渡りきった瞬間、世界から色が抜けた。
御殿の朱も、几帳の錦も、何もかもが灰色に沈んでいる。音がない。風の音も、虫の声も、さっきまで聞こえていた猛の気配も、ぷつりと途切れた。空気はひやりと湿って、どこか古びた匂いがする。たとえるなら、冷や飯だ。一晩置いて、すっかり冷えきった飯の匂い。
隣を見ると、昴がいた。
ここには、身分も御簾もないのだ。なんだか、妙な感じだった。
昴は一瞬だけ立ち止まり、私のほうを見て、何か言いかけて、やめた。
それから、灰色の廊下の奥へと、歩き出した。
