袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 詰所からの帰り道、猛は夜回りのついでに、梅壺まで送ってくれることになった。
 清涼殿の脇を通りかかったときだった。簀子のはしに、誰かが立っていた。
 灯りもともさず、供もつけず、ひとりきりで、闇に沈んだ庭のほうを向いている。若い男の人だった。装いは質素なのに、その立ち姿には、どこか、触れてはいけないもののような静けさがあった。
 猛が、ぴたりと足を止めた。そして私の袖を引いて、柱の陰に押しこんだ。
「……主上だ」
 息だけの声だった。
 私は、柱の陰からそっとうかがった。帝は、梅壺の方角を見ていた。夜風が吹くたびに、わずかに顔を上げる。何かの匂いを、探しているように。
 やがて、かすかな声が、闇の中にこぼれた。
「春の夜の……闇はあやなし……」
 歌の続きは、聞こえなかった。帝はそこで言葉を切り、長いあいだ黙りこんでいた。それから、自分の袖を顔に寄せて、目を閉じた。
 泣いているのかと思った。けれど、肩は少しも揺れていなかった。
「毎晩、ああしておられる」
 梅壺へ向かう道すがら、猛がぼそりと言った。
「梅の方が亡くなってから、ずっとだ。……偉い人ってのは、泣くこともできないのかね」
 私は答えなかった。あの歌の続きが何なのか、私は知らない。ただ、闇の中で何かを探していた横顔だけが、いつまでも目の奥に残った。
 梅壺の手前で猛と別れると、渡り廊下の端に、もうひとつ人影があった。
 昴だった。欄干に寄りかかり、夜空を見上げている。手には、紙を綴じた帳面と筆。
「何してるの、こんな夜ふけに」
「星を見ている」
 見ればわかる。
「星なんか見て、腹がふくれるの?」
 昴は、空から目を離さずに答えた。
「腹はふくれない。だが、嘘は暴ける」
 意味がわからない。わからないので、聞き流した。
 昴が、ちらりとこちらを見て、少しだけ眉を寄せた。
「頬に、飯粒がついている」
 私は指で頬をぬぐい、取れた飯粒を、そのまま口に入れた。もったいないので。
 昴の口の端が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかと思ったが、暗くてよく見えなかった。たぶん、気のせいだ。この白玉は、泣きもしなけりゃ、笑いもしない。