袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 私は腹が減って眠れなかった。
 椿餅を盗られた恨みは、胃袋にも響く。私は寝床を抜け出して、夜の後宮をふらふらと歩いた。
 どこからか、炊きたての飯の匂いがした。それも、塩の効いた握り飯の。鼻を頼りに渡り廊下をたどっていくと、帝のお住まいである清涼殿の北東の隅に、小さな詰所があった。そばで、さらさらと水の音がしている。
 戸口からのぞくと、大きな背中が、握り飯をほおばっていた。
「あ」
 振り返ったのは、あの弔いの日の、握り飯の男だった。口いっぱいの飯をもごもごさせながら、目を丸くしている。それから、腰の包みと私の顔を、何度か見比べた。
「……食うか?」
「食べる」
 差し出された握り飯は、私の顔ほどもあった。屯食という。一口かじると、塩と米の甘みが、胃の腑の底まで沁みわたった。
「俺は猛。滝口の武士だ」
 滝口の武士というのは、帝のお住まいのすぐそばを守る見張り番のことで、武家の出の者が多い。
 猛は、まさにそういう顔をしていた。日に焼けて、肩が分厚くて、歌を詠めと言われたら真っ先に逃げ出しそうな顔だ。
「実際、逃げる」と、猛は言った。「歌を詠めと言われると、腹が痛くなるんだ」
 正直な人だった。
「田舎じゃ、腹いっぱい食えるのは祭りの日だけでな。都の武士は毎日飯が食えると聞いて、それだけで滝口を志した」
「立派な志ね」
「だろう?」
 皮肉のつもりだったのに、猛は胸を張った。この人に皮肉は効かない。打っても打っても跳ね返ってくる、つきたての餅みたいな人だ。
「昴とは、ガキの頃からの付き合いでな。あいつが女に菓子をやるの、はじめて見た」
「仕事の前払いでしょ」
「そうかぁ?」
 猛は首をかしげ、私の食べっぷりをまじまじと見た。見られていても、私の手は止まらない。
 猛が、ふいに胸のあたりを押さえた。
「……お前さん、今日は飯が足りなかったのか?」
「あとひとつくらいなら、入るけど」
「やらん」
 猛は慌てて、次の屯食を抱えこんだ。それから、思い出したように言った。
「そういや、梅壺の渡り廊下に、毎晩、猫がいるんだ。夜回りのたびに、同じところで鳴いてる。主がいなくなったのが、わからないんだろうな」
「小萩から聞いた。……その子、ご飯はもらってるの?」
 猛は、きょとんとした顔で私を見た。それから、少しばつが悪そうに頭をかいた。
「……俺の屯食の、端っこをな。ときどき」
 この人は、たぶん、いい人だ。